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第38話 ヴァレリアの願い

戦の影は、王都の隅々にまで忍び寄っていた。


昼間はまだ平静を装う笑い声や商人たちの掛け声が残っていたが、日が落ちれば不安のざわめきが石畳の下から立ち上がるように聞こえてくる。


城内では、夜を徹して前線からの報せが行き交い、廊下を行き交う兵や使者の足音が途切れることはなかった。

戦はすでに始まっており、王都は「次に狙われる場所」として、否応なくその緊張の只中にあった。


王も軍の主力も遠征に出ている中、王都を支える要は第一王子――テオドリクでもあった。


彼は昼夜を問わず執務に追われていた。

兵站の整理、医療物資の手配、負傷兵の受け入れ先の調整。

魔力や剣で戦えぬ代わりに、彼は知と理でこの都を支え続けていた。


疲労の色は隠しきれずとも、その背は崩れていない。

引き結ばれた口元と、前を見据える眼差しには、

この都を預かる者としての覚悟が宿っていた。


控えの間に姿を現したテオドリクを、母ヴァレリアが迎える。


王族らしい整った顔立ちに、やや青白い肌。

病の影を宿しながらも、その面差しには弱さより先に、静かな知性があった。

穏やかな金の瞳は、人を見据え、考え、支え続けてきた者の強さを湛えている。


王妃の衣を纏った彼女もまた、戦火の中で気丈さを崩すことは許されなかった。

けれど、息子の顔を見るその眼差しの奥には、言いようのない痛みが宿っている。


「……お疲れでしょう、テオドリク」


声を掛けながらも、胸の奥に去来するのは消えぬ問いだった。

――なぜ、彼は王太子の座を掴めなかったのか。

それは母としての誇りを揺さぶり、心を締めつける棘のように残り続けていた。


そして、その影にはレイザルト侯爵――カイロスの存在がある。

あの男が動いたからこそ、ルイスが王太子に選ばれた。

そう思えば、息子を奪われたような感情が、今も胸をかすめる。


だがテオドリクは、穏やかな笑みを浮かべ、母の前に座した。


「母上、私は大丈夫です。……こうして後方から国を支えられることに、感謝しております」


ヴァレリアは一瞬、安堵に似た感情を覚えた。

けれど同時に、胸の奥底で割り切れぬ思いがざわめいた。


「けれど……」


思わず言いかけた言葉を、ヴァレリアは飲み込んだ。


テオドリクは母の沈黙を受け止め、ゆるやかに言葉を継ぐ。


「母上。私はずっと……王太子を目指さねばならないと信じてきました」


(それこそが、母上の笑顔を見る唯一の道だと)


ヴァレリアの胸が、かすかに震えた。


「けれど……今、ようやく違う夢を抱けるようになりました」


彼の金の瞳は深く澄み、母を映していた。


「薬学を研究し、魔力や奇跡に頼らずとも病を癒す術を探りたいのです。

戦場では、力を持たぬ者から倒れていく。

だからこそ、誰の手にも届く“治す術”が必要だと思うのです。

……それこそが、今の私にできる、国への仕え方だと信じています」


ヴァレリアの胸に、かつての記憶が一瞬閃いた。


幼い頃、夢中で読み耽った薬草の書。

しかし貴族の娘として、やがて王妃として、それを心の奥に押し込み、忘れたふりをして生きてきた。


目の前の息子は、その続きを歩もうとしている。


「……愚かな夢だと思われますか」


テオドリクの声は、揺れながらも、逃げてはいなかった。


ヴァレリアは答えられなかった。

声を出そうとすれば、喉の奥が熱を帯び、言葉にならなかった。


「母上、これまで育て支えてくださり、感謝しております。

……どうか、ご自身もお身体をお労りください」


深々と頭を下げ、テオドリクは再び執務へと戻っていった。

前線からの急報と山積する書類へ向かうその背は、

王位を望まずとも、王家の責を背負う者の背中だった。


残されたヴァレリアは、沈黙に縛られたまま椅子に身を沈める。


「……私は……間違っていたのかしら……」


胸に渦巻くのは、後悔か、誇りか。

そのどちらも、母である限り、切り離すことはできなかった。




ヴァレリアは立ち上がり、夜気を求めて回廊へ歩み出た。

月光が石床を青く照らし、昼の暑さを忘れさせる冷気が頬に触れる。

遠くで、伝令の靴音が響き、また一つ戦況が動いたことを告げていた。


その瞬間、背後から低い声が響いた。


「――王妃殿下」


振り向けば、そこに立っていたのは鎧を外したレイザルト侯爵――カイロスであった。


珍しく、鼻梁に眼鏡はなかった。

月光を受けたその深い眼差しは、昼の政務の場で見るものとは異なり、

理性の奥に沈めてきた長い歳月の影を、静かに滲ませている。

背筋はなお伸び、佇まいには揺るぎがない。

それは選び、失い、なお責を引き受け続けてきた者だけが身につける落ち着きだった。


胸の奥が、冷たく強張る。

この男が動かなければーーそう理解しているからこそ、今は顔を見ることすら辛い。


「……用件があるのなら、簡潔に」


ヴァレリアはそう言い放ち、顔を背けた。

その背には、感情を封じることでしか立てぬ、王妃の矜持が宿っていた。


カイロスはしばらく黙し、やがて静かに言葉を落とす。


「テオドリク殿下は……立派な青年になられましたな」


ヴァレリアの呼吸が止まった。


「王太子を目指されていたのは、あなたの望みに応えたいという一心だった。

その道が閉ざされても、なお国のために動こうとされている。

……先日、私の領地で進めている薬学研究について尋ねられました。

実に熱心で、未来を見据えた眼をしておられた」


(まるで、かつて――)


言葉にならぬ記憶が胸を刺す。


その言葉は、ヴァレリアの胸の奥深くへと届いた。

「……私は……」


カイロスは一歩だけ距離を詰め、声を落とす。


「テオドリク殿下は、あなたを誇りに思っておられる。

母として、あなたは何一つ間違っておられません」


その一言に、ヴァレリアは堪えきれず顔を覆った。

誇りも威厳も忘れ、気付ければ声を殺して泣いていた。


指の隙間から零れた一筋の涙が、月光を受けて淡く瞬く。

“オーロラ”と讃えられたその瞳は、涙を湛えることで、かえって深い光を宿していた。

それは誇示の美ではなく、耐え抜いてきた者だけが持つ、静かな輝きだった。


「カイロス……」


微かな声。


「王妃……ヴァレリア」


名を呼ぶ声に、ただ敬意を込めて。


二人は、それ以上近づくことはなかった。


その距離こそが、ふたりの正しさだった。




――その夜明け前。


ヴァレリアは、息子の執務室を訪ねた。


「……母上?」


驚いたように振り返ったテオドリクを、彼女はためらいなく抱きしめた。


「すまない……ずっと、あなたに重荷を背負わせていた。

けれど、今はただ……あなたが私の息子でいてくれることが誇りだわ」


テオドリクは戸惑いながらも、そっと腕を回す。


「……私も……母上の子でよかった」


母と子の抱擁は、

戦火に揺れる王都の夜明けに、

かすかな祈りの灯を、確かにともしていた。


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