第37話 開戦 ―― 前線
一幕 出陣前
軍靴の響きが地を震わせ、戦場へと続く街道を重厚な空気が包んでいた。
夏の名残を残しながらも、陽はすでに低く、乾いた風に揺れる淡い橙色の光が鎧の鋲に鈍く反射している。
その列の中で、ニナは緊張で胸を押し潰されそうになりながらも、王女ユリアの側にいた。かすかな風に乗って、油を引いた鎧と、鍛えられた鉄が熱を帯びた匂い、そして兵士たちの汗の匂いが混ざり合う。
「……あなたに言っておきたいことがある」
隣を歩くアレクシアが、不意に口を開いた。緊張を帯びた面差しの中にも、凛とした強さが宿っている。
「え?」
ニナが戸惑いに目を瞬かせると、アレクシアは視線を前に向けたまま静かに続けた。
「……見直したわ」
アレクシアの声は、真剣そのものだった。
「ルイス殿下を守ったそうね。暗殺者の矢は恐ろしかったでしょう」
ニナの心臓が跳ね上がる。思い出しただけで背筋が冷たくなる出来事だった。あのとき、矢がルイを狙っていると分かった瞬間、身体が勝手に動いた。考える暇などなかった。――そう言い訳したいのに、唇は震えて声が出ない。
「わたしは……ただ、無我夢中で……」
「無我夢中でできることではないわ」
アレクシアは淡く微笑んだ。その横顔には、険しい戦場へ向かう者だけが持つ静かな尊敬が浮かんでいた。
「それができる人は少ない。……ルイス殿下の隣に立つ資格は、あなたにもあると示されたわ」
その言葉は、婚約者候補としての彼女の潔さと、公正さを滲ませるものだった。かつてニナには資格がないと言ったことへの、無言の訂正でもあったのかもしれない。
その言葉は、剣の交わりよりも鋭くニナの胸に響き、同時に小さな温もりを灯した。
戦場へ向かう兵たちの喧騒が遠くで響く。二人は短く言葉を交わした。そして沈黙の中にも、深い信頼と覚悟が流れていた。
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二幕 戦乱の幕開け
戦場の空気は、血と鉄、そして焦げた土の匂いで満ちていた。
踏み荒らされた大地はぬかるみ、そこに倒れ伏す死体が、もはや敵味方の区別さえ失って横たわっている。
隣国軍は、数で押し潰すことを何よりの戦術とするかのように、果てしなく押し寄せていた。
重装歩兵の列が何重にも連なり、長槍と大型の盾が壁を成す。その背後からは、弩と投槍が雨のように降り注ぐ。
アヴェルシア王国軍は――押されていた。
じりじりと、しかし確実に。
「ぐあああっ!」
「押し返せ! 列を崩すな!」
怒号と悲鳴、金属が砕ける音が渾然一体となり、戦場は常に轟いていた。
その最前線で、ルイス・アヴェルシアは剣を振るっていた。
銀の甲冑はすでに原形の色を失い、赤黒い血に染まっている。
額から滴る汗が視界を曇らせるが、拭う暇はない。
踏み込み、斬る。
返す刃で敵の盾を弾き、その足元へ――冷気が走らせた。
大地が瞬時に凍りつき、前列の兵が体勢を崩す。
そこへ容赦なく、次の刃を叩き込む。
青白い光が剣先に瞬き、刹那、炎とも氷ともつかぬ力が爆ぜる。
凍りついた盾ごと敵兵が吹き飛び、後続の列を巻き込んで崩れ落ちた。
「ルイス殿下! 右から大部隊が――!」
振り返る間もなく、重装兵の集団が突進してくるのが見える。
分厚い盾、異様に鋭い刃――明らかに王国軍の装備を上回る武器だった。
「私が押さえる!」
ルイスは叫び、即座に判断を下す。
「アレクシア、援護を頼む!」
「了解!」
次の瞬間、空気が震えた。
アレクシア・ラディエンスが前に躍り出る。
その体からは想像できぬほどの踏み込みで、双剣が閃いた。
剣が振るわれるたび、熱を帯びた衝撃波が走り、敵の陣形を強引に切り裂く。
盾ごと叩き飛ばされた兵が宙を舞い、地に落ちる前に、さらに斬撃が追い打ちをかけた。
ルイスが作り出した一瞬の停滞。
そこへ、アレクシアの猛攻が流れ込む。
二人の動きは、事前に取り決めたものではない。
だが、互いの癖と呼吸を知り尽くした者同士だけが可能とする連携だった。
轟音。
火花と氷の破片が同時に散り、戦場に白と紅の軌跡が刻まれる。
前線は、わずかに持ち直した。
「殿下、背後は任せます!」
「無茶はするな、アレクシア!」
言葉を交わした直後、敵兵の槍がルイスの死角から突き出される。
――速い。
だが、それよりも早く、アレクシアが飛び込んだ。
刃を交差させ、槍を受け止める。
衝撃が全身を貫き、彼女は膝をついた。
同時に、ルイスが剣を地に突き立てる。
瞬時に立ち上がった冷気の壁が、次の一撃を阻んだ。
二人は視線を交わす。
言葉はいらなかった。
だが――
戦場のすべてが、この二人のように動けるわけではない。
ラディエンス軍は、獅子のごとき勇猛さで敵を食い止めていた。
しかし、他の貴族軍は違った。
長き平和に慣れ切った兵たちは、迫り来る死の圧に耐えきれず、次第に足を竦ませていく。
盾を落とし、後退する者。
仲間の死体を越えられず、立ち尽くす者。
戦列は、確実に乱れ始めていた。
その隙を、隣国軍が見逃すはずもない。
「崩せ!」
重低音の号令が戦場を貫く。
「王国軍は脆い! 一気に押し潰せ!」
圧力が、さらに増した。
その時――
戦場の一角から、低く、しかし腹に響く声が上がった
「恐れるな!」
馬上に立つ、白銀の髭をたくわえた老将。
背には歳月の重みが刻まれていながら、その眼光はいまだ鋭く、
フェルナンド・ラディエンス辺境伯だった。
「我らが退けば、国境は破られる!
この地の民が、次に剣を向けられるのだ!」
両手を掲げた瞬間、燃え上がる光が空を裂く。
敵陣の前方に、巨大な火柱が打ち立てられ、進軍を強引に阻んだ。
「ラディエンスの名に懸けて――踏み止まれ!」
「うおおおおっ!」
「辺境伯がおられるぞ!」
兵たちの瞳に、かろうじて光が戻る。
叫び声とともに、再び剣が振るわれた。
だが――
勇猛なる者と、恐怖に呑まれる者。
その差は、あまりにも残酷だった。
退く部隊が火種となり、戦線は再び軋み始める。
数と武器に勝る敵軍は、なおも前へ、前へと圧をかけてくる。
王国軍の陣は、
踏みとどまるたびに、ひと呼吸分ずつ後退していた。
盾がぶつかり合うたび、
前線は削られ、
守るはずの地面が、少しずつ敵の足元へと変わっていく。
まだ敗北ではない。
だが、もはや優勢でもなんでもなかった。
この戦は――
確実に、アヴェルシア王国軍をすり潰しにかかっていた。




