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第36話 戦前夜――祈りと決意の刻

 夏の終わりとともに、王都は、不穏なざわめきに包まれていた。


王宮の外では、昼なお収まらぬ人の声が、夜気に混じって遠くまで響いている。

「黒竜を討て」「王女を返せ」――

相反する叫びが交錯し、街路には衛兵が増派されていた。


人々が恐れているのは、ユリア王女ではない。

“理解できない力”そのものだった。


貴族たちは不安を隠しきれず、

民は祈りと怒りの行き場を失ったまま、長く続いた混乱の果てに、戦の前夜を迎えていた。



重たい扉が、軋む音を立てて開いた。


二ヶ月あまりも幽閉されていたユリアは、窓から差し込む淡い月光に包まれ、静かに息を整えていた。

その横顔は気高さをまとい、年若い少女とは思えぬ神秘的な美しさを湛えている。


胸の奥に渦巻く不安は、誰にも知られず、ただ密やかに潜んでいた。


「ユリア様……」


そっと入ってきたのは、ニナだった。

まだ痛みの残る肩をかばいながらも柔らかく微笑み、

その存在だけで、張りつめていた空気がわずかに和らいでいく。


黒竜覚醒後、ユリアはこの部屋に留め置かれている。

ニナは怪我を抱えながらも、毎日欠かさず彼女のもとへ通い続けていた。


「教会から、正式な発表がございました」

ニナは静かに告げる。

「黒竜は……王国の守護者として認められることになりました。

ユリア様のお力を、戦に用いることが条件ですが」


ユリアは、息をのみ、しばし窓の外を見つめた。


「……やっと、私の存在が否定されなくなったのか」


その声には、安堵と、

長く抱え続けてきた孤独の影が、絡み合うように滲んでいた。


ニナは膝を折り、そっと手を差し伸べる。


「ユリア様……

これまで秘密を抱え、おひとりでどれほど苦しまれたか……

私、気づけませんでした。お側にいながら……申し訳ございません」


何度、同じ後悔を胸に刻んだことだろう。


「ニナ……」


ユリアは微かに首を振り、透き通る指先でニナの手を握る。

その温もりが、胸に染み込み、ぎゅっと締め付ける。


「もう、これ以上謝らないで。

私はただ……あなたがいてくれるだけで、救われていたの」


あたたかな笑顔が注がれる。

その笑顔と言葉に、ニナの胸は震え、温かくも痛んだ。


「ですが……戦争は、人と人が傷つけ合う場です」

ニナは言葉を選びながら続ける。

「ユリア様にとっては、何よりも辛いことのはず。

もし避けられないのなら……私も共に参ります。

どうか、できる限り……人を傷つけないように……」


ユリアは唇を噛み、深く息を吸った。


「いいえ、ニナ。

私はきっと、あなたがいなくても黒竜を制御できる」


「ですが、それは政治の決定でございます。

ユリア様だけを、戦場に立たせることは……許されません」


柔らかな声同士が、

互いを思うがゆえに、静かにぶつかり合う。


「……私は、あなたを戦場に行かせたくない」


「私も……ユリア様に、お怪我をしていただきたくありません」


二人は見つめ合った。

その視線は、鏡のように同じ想いを映し合い、

言葉よりも確かな温度で、互いの心を強く抱きしめていた。



夕暮れ。


王宮の廊下には、不穏な空気が漂っていた。

衛兵の足音、重厚な扉の閉まる音、遠くで交わされる低い囁き――

戦の気配が、城全体を震わせている。


その影の中から、柔らかくも確かな声が響いた。


「ニナ」


「シオン……!」


 護衛服に身を包んだ若い騎士が立っていた。

空気を変えるような麗しさと、どこか翳りを帯びた瞳。

その姿は、年若いながらも人ならざる美を帯びている。

わずかな時の流れの中で、面差しには少年から若き青年の気配が宿っていた。


久しぶりに向き合ったその姿に、ニナの胸は大きく揺れた。

視線を逸らしたくなるほどの眩さと、近づきすぎてはいけないという気持ちが、同時に胸をよぎった。


「お元気そうで……安心しました」


「ニナこそ。肩の傷は……まだ痛むのでは?」


紫水晶を思わせる深い眼差し。

その視線に、胸の奥がわずかに揺らいだ。


――東屋でルイスに告白された、あの瞬間。

なぜか脳裏をよぎったのは、シオンの顔だった。


ニナは思わず、視線を逸らす。

あの病状での言葉……私の勘違いよ……。


「ええ……まだ痛みますが、大丈夫です。

ご心配には及びません」


「俺は……戦場でも、側にいる」

シオンは迷いなく言った。

「必ず、ニナを守る」


「……たとえ姿が見えなくても、心配しないで。

俺は必ず無事でいる。ユリア王女のそばにいる。

そして、君を守り抜く。信じてほしい」


その声に宿る想いは、あまりにもまっすぐだった。


――どうして、そんなに優しいのですか。

そんなふうにあなたに大切にされる資格が、私にはないのに。


胸が、苦しくなる。


ニナは、静かに微笑んだ。


「ありがとう。でも……私は大丈夫です。

どうかシオンは、ご自身の役目を果たしてくださいね」


感謝と、

これ以上踏み込ませてはいけないという、必死な一線。


シオンの瞳に、言葉にならない熱が滲む。

その姿はもはや少年ではなく、一人の青年だった。


やがて、ニナの部屋の前に辿り着く。


シオンは、そっと彼女の手を取り、

迷いなく、その甲に唇を落とした。


――え……?


一瞬、心臓がグッと動いた。


違う。

これは騎士としての敬意。

そう、きっと……それだけのはず。


けれど、

なぜ、あんな目で見るのか。

その理由が、分からなかった。

いや、彼女は分かりたくなかったのかもしれない。


一瞬の触れ合いなのに、

時が止まったかのように長く感じられた。


ニナは、これ以上彼に近づかぬよう、無意識に一歩だけ距離を取った。


「……ニナの無事と幸せを、心から祈ってる」


「……私も……シオンのご無事を、祈っております」


その口づけの余韻は、言葉より雄弁に想いを告げていた。

優しくも切ない空気が、辺りを満たす。


――もう、会えないかもしれない…?


その不安が襲い、

ニナはただ、彼の無事を祈るしかなかった。



戦前夜の誓い


夜。

王都は静寂に包まれ、城内のざわめきだけが遠くに響く。


扉が静かに叩かれ、振り返るとルイスが立っていた。

闇に淡く光を帯びた銀髪、深い青の瞳。

王太子の威厳と、恋人にだけ見せる脆さが同居する姿は、胸を震わせるほどに愛しく、美しかった。


「……ニナ」


名を呼ぶ声は、わずかに掠れていた。

次の瞬間、彼は迷いなく彼女を抱き寄せる。


「本当は……行ってほしくない。

戦場なんて、君を連れて行きたくない」


ニナはその胸の鼓動を耳に受けながら、そっと背を撫でる。


「分かっております。

でも……今の戦況は不利です。

ユリア様をお支えするためにも、私は……行かなければ。

いえ、行きたいのです」


「私は……君を守りたい。

だが、王子として、全体を導かねばならない」


「承知しております。

でも……大丈夫。私は、強いですよ」


微笑んだ唇は、わずかに震えていた。


ルイスは彼女の肩越しに顔を寄せ、

吐息が耳をかすめる。


「……君の強さは分かっている。

けれど、私の腕の中では――

戦う君ではなく、ただ愛しいニナでいてほしい」


その囁きに、頬が熱を帯びる。

心臓が早鐘のように打ち、

指先がためらうように、彼の胸板に触れた。


「ルイス……」


小さく呼んだ、その声だけで、

唇は自然に重なり合う。


甘く、切ない吐息。

二人の鼓動が、夜の静寂を震わせた。


――ルイスも、どうか、ご無事で…!――


瞳が潤む。

ルイスはそれ以上を求めず、

ただ温もりを確かめるように、彼女を抱きしめていた。



城内の遠くで、衛兵たちの足音が響く。

夜の静けさに、戦の気配が忍び寄る。


窓辺に立つニナは、

まだ熱の残る唇を、指先でそっと押さえ、深く息を吐いた。


――ユリア様をお支えする。

――できるだけ、誰も傷つけないように。


その決意の先に待つものを、

まだ誰も知らない。


朝焼けの彼方で、薄雲が揺れる。

まるで黒き竜の影が静かに揺れているようだった。

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