第35話 国難の開幕
王宮の謁見の間。
王族と三大貴族、そして限られた重臣だけが円卓を囲み、
まだ誰も口に出さぬ“予感”だけが、重苦しい沈黙となって漂っていた。
「――隣国ガルディアより、正式に宣戦の布告が届きました」
報せが読み上げられた瞬間、広間に低いざわめきが広がる。
老いた貴族たちは顔を寄せて囁き合い、若い武官たちは無言のまま拳を握りしめた。
王都襲撃で王権が揺らいだ刹那――
その弱り目を、隣国はあまりにも正確に見抜いた。
大規模侵攻の宣言は、偶然ではない。
ルイス王子暗殺未遂ののち、ルイスは王太子に内定した。
改革派の勝利かと思われたが――黒竜を教会が認める代わりに、
グラシエラ家は政治的発言権を保持する密約を得ていた。
民は突如黒竜を肯定されたことに混乱し、
教会派だけでなく、改革派の中からも反発の声が上がる。
国内は、いつ崩れてもおかしくない不安定さを孕んでいた。
胸の奥に、冷たい槍を突き立てられたような緊張が走る。
誰もが予期していたはずなのに――
現実として突きつけられると、あまりに苛烈だった。
王レオニスは椅子の肘掛けに手を置き、ゆるやかに立ち上がる。
その瞳に宿るのは恐怖ではない。
混乱を前提に、すでに次を見据える者の冷徹な光だった。
「……奴らめ。我らの混乱を好機と見るか。
王国を侮るにも程がある」
低く通る声が広間を制する。
次に口を開いたのは、第一王子テオドリクだった。
蒼白な顔に似合わぬ強い瞳で、円卓を見据える。
「国境防衛を急がねばなりません。
とくに北西方面――先の魔物襲撃で疲弊した地域は、
防備も兵力も、未だ立て直しきれていない」
それに応じるように、マルセロ・グラシエラ公爵が唇を吊り上げた。
「北西が脆弱なのは、近年の改革で兵の配置が分散した結果だ。
理想を優先し、備えるべき場所を疎かにした。
だからこそ私は言っている――
旧来の防衛線を軽んじるべきではなかったとな」
その視線が、冷ややかにカイロス・レイザルト侯爵へと向けられる。
「侯爵。そなたの領地のやり方が広がれば、
こうした隙を突かれるのは必然だろう?」
侯爵は一拍置き、穏やかな笑みで返した。
「人々の生活を豊かにし、兵糧を潤わせることこそ、
長き戦を支える礎。
真の力は、民の底から湧き上がるものです」
場がざわめく。
賛同とも反発ともつかぬ視線が、円卓の上を交錯した。
その時、凛とした声が割って入った。
「ならば、私が証明いたします」
銀糸の髪を揺らし、第二王子ルイスが立ち上がる。
武人の風格と若き覇気をまとい、広間の視線をさらった。
「王国騎士団を率い、最前線に立ちます。
……この命を賭して、国と民を護り抜くと誓います」
兵を抱える貴族たちから、感嘆の吐息が漏れた。
若い騎士たちの目に、わずかな光が宿る。
だが、マルセロ公爵の瞳には冷笑が浮かぶ。
「勇ましいが、戦は誓いではなく、数と備えで決まる」
「数も備えも、まだ王国には残っております」
ルイスは一歩も退かず、言い返す。
「だが何より士気を高めるものは、王族の覚悟です。
それを今、示さねばなりません」
緊張に包まれた一瞬。
やがて王レオニスが、静かに宣言する。
「――よかろう。
第二王子ルイスに、北西方面の防衛指揮を任ずる。
レイザルト侯爵には、補給と民の支援を一任する」
そして王は、言葉を切った。
その一拍が、広間の空気をさらに張り詰めさせる。
「だが……戦局を覆すには、さらなる切り札が必要だ」
再び、沈黙。
「……黒竜は、すでに覚醒している」
広間に、息を呑む音が重なる。
「黒竜ユリア。
あの力を、いまこそ戦場に解き放つべきだ」
ざわめきが奔る。
「暴走の危険がある」
「味方をも滅ぼす」――
反対の声が次々に上がった。
だが王とマルセロ公爵は、揺るがない。
「恐怖を理由に宝を封じてはならぬ。
黒竜こそ、この国の威信だ」
公爵の低い声が響いた。
その口調は、過去に幾度も“切り捨て”を選んできた者の、
冷たくも重い音だった。
その時、弱いながらも、テオドリクの声が割り込む。
「……だが、制御の要が必要です。
その役を果たした者がいるはずです――
レイザルト侯爵家の養女、ニナ・レイザルト嬢です」
会議が、凍りついた。
一瞬、誰も言葉を発せず、
燭台の炎だけが小さく揺れた。
カイロス侯爵が、わずかに眉を寄せる。
「ニナは、まだ傷を負ったばかりです。
負傷癒えぬまま前線に立たせるなど……」
だがすぐに表情を戻し、静かに息を吐いた。
「……それでも、あの娘ならやり遂げるでしょう。
私は、あの子を信じています」
王は、深く頷いた。
「決まった。
黒竜ユリアは前線へ。
同行者は――ニナ嬢とする」
「待ってください」
立ち上がったのは、ルイスだった。
「黒竜を呼ぶなど――いや、それ以前に……
ユリア王女と、その侍女であり、レイザルト家の令嬢を、
戦地に行かせるというのですか?」
その声は、珍しく強い響きを帯びていた。
「たとえ黒竜であろうと、彼女たちはまだ若く、
しかも戦場を経験したこともない。
戦場は、人の命を喰らう場所です。
私には……彼女たちを危険に晒すなど、到底受け入れられません」
国王は目を伏せ、議場に静かな緊張が流れる。
グラシエラ当主は、冷ややかに笑った。
「感傷に溺れるには早いな、王子。
我らはこれまで、何千、何万の命を秤にかけてきた。
姫や侍女ひとりの命と、国全体の存亡と――
どちらが重いか。答えるまでもあるまい」
その言葉は、合理の仮面を被った刃となって、
広間の空気を切り裂いた。
重苦しい沈黙が訪れる。
その場にいた誰もが、
それを当然の理と受け止めたかのように視線を伏せる中――
ルイスだけは、父を真っ直ぐに見据えていた。
胸の奥で、激しい反発の炎が燃え上がる。
だが、言葉は喉の奥で凍りついた。
国の未来を背負うべき王太子として、
兵や民の命をも背負う立場として――
その理が正しいことを、理解してしまったからこそ。
「……っ」
唇を結び、拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込み、
鈍い痛みだけが、現実を繋ぎ止めていた。
反論できぬ己の無力に耐えながら、
ルイスは、ただ沈黙を保つしかなかった。
賛否の声が渦巻くなか、結論は覆らない。
国を繋ぎとめるために――
黒き翼と、その竜を鎮める女性を、
戦場へ送り出すしかなかったのだ。




