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第32話 刹那の口づけ、咲き誇る黒い翼

――魔物急襲から、一月あまり。


王都を守るはずの防衛網は破られ、市街地にはいまなお深い爪痕が残されていた。恐怖と怒りに揺れる民衆の視線は、必然のように為政者へと向けられる。

魔力低下という現実はもはや隠しようもなく、とりわけ貴族第一主義を掲げてきた現体制――グラシエラ家を筆頭とする保守派への批判は、日ごとに声量を増していった。


「王政改革を!」


その叫びは一過性の熱ではない。

国を覆う空気そのものが、変革を求めてうねり始めていた。


その中で、民衆にもっとも強い希望を与えたのは――

魔物襲撃の最前線に立った第二王子ルイス・アヴェルシアの奮戦である。


王国騎士団を率い、決して退かず、決して民を見捨てなかった若き王子。

その姿は瞬く間に国中へと広まり、人々は彼を「若き守護者」と呼んだ。


副官として共に戦った女騎士アレクシア・ラディアンスの名声もまた高まり、彼女の存在はルイスの威光をさらに確かなものとした。


孤児院の救援を指揮したニナの名も広まっていた。

平民の血を引く侯爵家の養女。

そして――第二王子の恋人。


彼女はいつしか、改革を望む者たちにとっての象徴のひとつとなっていた。


また、市街地で身を挺して孤児たちを守った若き青年――シオンの勇敢な姿も語り草となり、民衆の憧憬を集めていた。


そして王は、ついに決断する。

ルイスを、次代の王として据えることを。


***


遅咲きの薔薇が、庭園いっぱいに濃密な香りを放っていた。


赤、白、淡い桃色。

光を受けた花弁がきらめき、枝葉がそよ風に揺れる。


毒の副作用で長く伏せっていたニナは、久しぶりに外の空気を吸いながら、ルイスと並んで歩いていた。

足元の小径を踏みしめる感触すら、愛おしい。


「……こうして一緒に歩ける日が来るとはな……」


ルイスは、柔らかな日差しに照らされるニナの瞳を見つめて告げる。その声には隠せない熱が宿っていた。


「ご心配をおかけしました。でも……本当に、もう大丈夫です」


微笑むニナ。だが、白く翳りの残る頬に儚く繊細な美しさが漂い、ルイスの胸をぎゅっと締めつける。


ルイスは、思わず足を止めた。


「……もう、無理はするな。君が伏してる間、私は己の無力を思い知らされた」


低く抑えた声の奥に、取り繕いきれない後悔があった。


「……ルイス。

それでも、こうして一緒に歩けていることが、今の私には何よりの幸せです」


二人は薔薇に囲まれた東屋へと足を踏み入れる。

そこは、外界のざわめきが切り取られたような静寂に満ちていた。


ルイスは、長く胸に溜めてきた言葉を、ゆっくりと吐き出す。


「ニナ。私は……君にいてほしい。

王になることが、どれほどの試練であっても――君の手があれば、歩んでいける」


胸が、強く震えた。

誰かに必要とされることが、どれほどまでに心を揺さぶるか――。


けれどその瞬間、ニナの脳裏に浮かんだのは――

シオンの顔だった。


無邪気な笑顔。

真剣な眼差し。

病床で寄り添ってくれた、あの静かな優しい気配。

――そして、悲しそうに告げたあの言葉。


『愛している』


――確かに、あれはシオンの声だったのではないだろうか。


ルイスの真摯な視線に心を奪われながらも、なぜ彼の姿が頭をよぎるのか――自分でも分からない。


(違う……。シオンへの気持ちは、家族のような愛。

私の心が浮ついてはならない……)


自分を戒めるように目を伏せ、ルイスの真摯な眼差しをひとつひとつ胸に刻む。

――私は殿下を支えねばならない。

支えたい。誰よりも強く、優しくあろうとするこの人を。


ニナは悲しくも察していた。

王を目指すなら、恋人でいられる時間は、きっと長くない。

自分が王妃など――。


だからこそ。


そして、震える唇に触れる口づけを、受け入れた。


心臓の高鳴り。

世界の音は遠く霞み、互いだけが存在するかのように、時間が止まった。


――その刹那。


――ヒュン、と空気を裂く鋭音。


陽光を反射し、炎を帯びた矢が閃いた。


「――っ!」


狙われたのはルイスだった。

愛しい人の吐息に心を奪われ、わずかな隙を突かれたのだ。


咄嗟に身を翻し、致命を避ける。

だが完全には間に合わず、左腕を強く掠める。焼けつくような痛みが走った。


「くっ……!」


続けざまに、二射、三射。

連続して放たれる矢を、ルイスは剣と魔法で弾き落とす。


――だが、攻めに転じられない。


ニナがいる。


暗殺者はそれを理解していた。

守る者を抱えた王子を、徹底的に追い詰めるつもりだ。


その時――

背後から、異質な魔力が迫った。


「――しまっ……!」


二人目だ。


避けきれない。

そう判断した瞬間、ニナが動いた。


「ルイス――!」


身体を投げ出し、彼の前に立つ。

歪んだ魔力が刃となり、ニナの肩を貫いた。


「ニナ!!」


血が、薔薇の花弁に滴り落ちる。


暗殺者の気配は、なおも巧妙に隠されたまま――。


そのとき。


「ニナ!!」


駆けつけたユリアが、空間の歪みを射抜くように影の中に潜む異変を見抜いた。


踏み込みは、雷光のように速い。

見えざる刺客の一人を捕らえ、地に叩き伏せる。


強い怒りが、空気そのものを震わせた。


そのとき――

闇が、

少女の背から、闇が爆ぜた。


しなやかな少女の背に、黒水晶のように硬質な翼が咲き誇った。

白い指先は漆黒に侵食され、腕から爪のようなものが伸びていく。

少女の面影が、獣じみた竜の姿へと半分変じていく。

人ならざる威圧と畏怖が、庭を満たした。


瞬間――

昼であるにもかかわらず、庭の上空だけが異様に暗転した。

黒雲が渦を巻き、雷鳴が轟く。

白刃のような稲光が走り、恐怖が庭を呑み込む。


ユリアが、ゆっくりと息を吸った。


それだけで。

庭園を満たしていた空気が、重く沈み込む。


薔薇の枝葉が、一斉に地へと伏した。

石畳が低く唸り、圧し潰されるようにひび割れていく。

まるで、大地そのものが頭を垂れたかのようだった。


「――っ……!」


咆哮はない。

ただ、黒翼が一度、大きく広がった。


その瞬間、

暗殺者の足元から影が引き剥がされるように弾け飛び、

姿を隠していた術は、霧が晴れるように霧散した。


噴水の水柱が途中で押し止められ、

次の瞬間、空中で押し砕かれたように四散する。

水滴は雨となって降り注ぎ、庭を打った。


庭に居合わせた兵士や侍女は膝を折り、恐怖に息を呑む。


兵士たちは剣を構えたまま、動けない。

恐怖ではなかった。

抗おうとする意志そのものが、胸の奥から消え失せていた。


「昼なのに……雷が……」

「まさか、あれは……魔物……竜……!」


捕らえられた暗殺者は悲鳴を上げ、ユリアの力に押し潰されそうになる。


そのとき――


「やめて、ユリア様!」


ニナの叫びだけが、稲妻を裂くように響いた。


その声に、暴走しかけた竜の意識が、はっと縛り止められる。

ユリアの瞳に理性の光が戻り、震える手で暗殺者を解放した。


黒雲は裂け、再び眩しい陽光が庭を照らした。

人々はただ立ち尽くし、目の前で起きた出来事を理解できずにいた。


――庭の騒ぎを、王宮の高いバルコニーから静かに見下ろすレオニス王。


黒雲に覆われた庭、稲光、恐怖に震える人々――すべてを見据え、王は低く呟く。


「……ついに、この時が来たか。

ユリア……いや、シオンよ。

これは試練だ。おのれ自身と戦え」


その声は誰に届くこともなく、王だけの祈りとして庭の騒乱に溶けていった。


やがて光に包まれ、ユリアは人の姿に戻る。

肩で息をつき、涙に濡れた顔を伏せた。


ルイスは、もう一人の暗殺者へと踏み込む。

だが――。


解き放たれた暗殺者達は、口元に薄い笑みを浮かべた。


次の瞬間、己に術を施す。

身体は崩れ落ちるように消滅し、血も遺体も、痕跡すら残らなかった。

名誉のための自害――忠誠の果てに自ら選んだ終焉だった。


ルイスに支えられたニナは、痛みに震えながらもユリアへと歩み寄る。

血に濡れた手で、そっと彼女を抱きしめた。


ユリアは、半ば気を失っていた。


確かに見た。

ユリアの背に生えた黒い翼、黒く染まった腕。


伯父カイロスの言葉――

「ユリアを守れ」


その使命の意味を、ようやく悟る。


(ユリア様……あなたが、黒竜……)


兵士たちは、距離を保ったままユリアを取り囲む。

恐怖と命令の狭間で、剣や槍を構え、誰も踏み出せずにいた。


ニナは、ユリアを守るように抱きしめたまま離れなかった。


ルイスもまた、凍りつく。


忌むべき存在と伝えられてきた黒竜が――

確かに、この目の前にいた。


しかも、

あの少女の中に。

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