第30話 柱の影 ― 罪の継承、父と娘
王都セリオンの中心部――。
歴史ある貴族街の最奥に構えるグラシエラ本邸は、今もなお“王家の柱”と謳われる家の威容を保っていた。
燭台の炎が、古き紋章を刻んだ壁を揺らす。
夜気を遮る厚い帳の内側、王都グラシエラ邸・当主の私室。
その扉を押し開けたヴァレリアの瞳は、普段の王妃の面影を潜め、ただ鋭い光を宿していた。
「――父上。あれは……やりすぎです」
抑えた声。
しかし震えは隠せなかった。
「レイザルト嬢への毒殺未遂……証拠こそ薄くとも、宮廷は既に囁いております。
誰の目にも、我らの仕業だと映ってしまう」
机上に積まれた書状を押さえつつ、当主はゆっくりと目を伏せた。
その顔には父としての柔らかさはなく、ただ“柱”として国と家を支える者の冷厳な影が落ちていた。
「ヴァレリア。お前は感情で語っている」
「感情ではありません」
即座に言い返したが、視線は揺れた。
唇を噛み、押し出すように声を続ける。
「……確かに、あの娘は憎い。改革派の象徴だから。
しかし――」
言葉が喉に詰まった。肩が小さく震える。
「カイロスの姪を……私が殺したいはずがないでしょう」
かすかな呟きだった。
だが、ヴァレリアが父の前で“レイザルト侯”を名で呼んだのは初めてだった。
ぱちり、と燭火が爆ぜる。
当主は深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
「……我らグラシエラは王家の柱。国の根幹だ。
柱が揺らげば国が傾く」
淡々と続く声は、鋼のように硬い。
「柱を守るためには、余計な枝は切り捨てねばならぬ。
かつてキリウス王の最期も、国を守るための“不可避”とされた。今回は、その繰り返しだ。魔物の毒に紛れさせただけのこと」
「父上……っ!」
ヴァレリアは息を呑み、拳を握った。
「……あれが“偶然の暴走”だとでも思っているのか?」
ヴァレリアが顔を上げる。
父の瞳は氷のように澄んでいた。
「暗殺者は、前々から我らが傍に潜ませていた者だ。従者に偽装させ、あの娘の背中を常に見張らせておいた」
ヴァレリアの息が止まる。
「ただし、今回の魔物襲撃そのものは、想定外だった。だが――」
当主は淡々と続ける。
「だからこそ好機となった。
混乱の中、暗殺者が“今”と判断し、動いたのだよ。
将も兵も奔走していた。喧噪の只中で、ひとりの侍女の異変など誰も気に留めぬ」
その声は揺るがない。
まるで国の歯車をひとつ動かすだけの、機械の宣言だった。
「改革派が国政を握れば、真っ先に粛清されるのは我らだ。
そうなれば――王妃ヴァレリア、お前とて生き残れぬ」
冷酷な言葉。
しかしその奥に、娘を生かそうとする意志が微かに滲む。
ヴァレリアは息を呑んだ。
憎悪と愛情、反発と理解が胸の中で渦を巻く。
そして、父が背負う重荷への、どうしようもない哀れみが込みあげる。
「……では次は、誰を狙うおつもりなのですか」
長い沈黙。
揺れる燭火の影。
父は短く答えた。
「――あの若い英雄だ」
名を聞くまでもなく、ルイスのことだと分かった。
ヴァレリアは動けなかった。
愛しい子の顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられる。
――
(ルイス……。
あの子は、八つの頃からすでに泣かなかった。
母が宮廷を去ったあの日ですら)
私が追いやったのだ。
“政治の均衡のため”と信じたかった。
だが、真実は違う。嫉妬もあった。私の、醜い感情が。
下級貴族の娘にすぎなかった彼女が王に寵愛され、側室となり、
その実家までも立場を弁えず宮廷で幅を利かせ始めたとき――
(私は、威信を守るために。
そして胸の奥の痛みを誤魔化すために。彼女を排した)
その日、ルイスは泣かなかった。
ただ小さな腕で剣を抱き締め、震える指を隠すように柄を握っていた。
夜、そっと毛布を掛けたとき。
彼は気付いていたのに振り向かなかった。
(憎まれていると思った。
けれど違ったのだ。
弱さを見せたくなかった。誇り高い子だから)
短い時間ではあったが、病弱なテオドリクと並んで剣を振っていた頃――
(ルイスはいつも、ほんの少しだけ誇らしげに微笑んだ。“兄上、もう一度”と)
胸が痛む。
(私は……また政治の都合で、あの優しい子を脅かすのか)
喉が焼けつくように苦しい。
ヴァレリアは目を閉じた。
(……逃れられぬなら。
せめて、あの子の誇りだけは守らせて)
(暗闇の中で刺させてはならない。
光の下で、逃げ場のある場所で。
あの子なら、きっと剣で応じる。
……それが、今の私にできる、最後の情けだ)
胸の奥がきしむ。
私は――
なんて愚かなのだろう。




