第29話 夕刻の対峙 ― 第二王子ルイスの覚悟
夕刻の王宮は、前日の王都を揺るがした大規模な魔物襲来の余波に揺れていた。
塔の上では見張りの騎士が増員され、
渡り廊下には急ぎ足の兵士と官吏が行き交う。
遠くからは、城壁の補修を急ぐ槌音がかすかに響く。
侍女たちは顔をこわばらせ、
すれ違うたびにひそひそと囁き合っては、
すぐに口をつぐんで背筋を伸ばした。
王宮全体が、何かを恐れ、何かを疑い、
息を潜めているようだった。
その混乱のただ中――
ルイスは、その張りつめた空気を切り払うように歩いていた。
王妃である義母への礼を欠くことなど、本来ありえない。
たとえ――自分の実母を、宮廷から追いやった張本人であったとしても。
だが今日だけは、胸を満たす怒りと不安が、それを押し流す。
――ニナが狙われた。
毒という、卑劣な手段で。
扉の前で息を整える。
この対話次第で、何かが大きく動く。
そんな予感が胸に重く沈んだ。
「……第二王子ルイスです。お話があります」
「入りなさい」
凍てつくように澄んだ声が返る。
⸻
扉の向こう、ヴァレリアは窓辺に立っていた。
彼女の身にまとう気品は光を歪めるほど濃く、
夕陽に照らされた横顔は、王妃という立場そのものを象徴する威厳に満ちていた。
ルイスは深く一礼した。
「失礼いたします、母上」
そして、顔を上げる。
真っ直ぐに。
「母上……単刀直入にお尋ねします」
わずかな沈黙。
空気が張り詰める。
「――ニナ嬢を狙った昨夜の襲撃に、母上は関わっておられますか」
部屋の空気が、一度死んだ。
ヴァレリアの胸奥に、硬い何かが落ちた。
しかし表情は、王妃の仮面から一寸たりとも揺らがない。
「……無礼ですよ、ルイス。
私は王妃。妄言で貶められる立場ではありません」
「妄言ならば、否定してくださればそれで済みます」
ルイスの声は低く、揺らがない。
その誇り高さは、紛れもない王族の血の響きだった。
ヴァレリアは肩をわずかに引き、美しい所作で応じた。
「私は、そのような卑しい陰謀に手を染めません。
ただ……王家の血を守るための“必要な均衡”というものはある。
あなたも理解しているでしょう?」
「理解など……できません」
ルイスは、言葉を吐き捨てるように答えた。
「ニナ嬢は無辜の女性です。
彼女を害することが“均衡”だというのなら――
その考えこそが、最も間違っています」
ヴァレリアは黙した。
その沈黙は冷徹というより、底知れぬ深さを感じさせた。
「ニナ嬢は明らかに狙われた。
これは事故ではありません。
宮廷中が噂しています――保守派の仕業だと」
普段なら決して声を荒げぬ男が、震える声で告げる。
ニナの青ざめた顔――その記憶が胸を刺した。
ヴァレリアは眉ひとつ動かさない。
「それで?
私にどうしろと?」
「……母上が関わっていないのなら、それでいい。
ただ――止めていただきたいのです。
これ以上、彼女が危険に晒されることがないように」
ルイス自身、その願いが義母にとってどれほど無理か知っていた。
それでも――わずかに、信じたい気持ちがあった。
ヴァレリアは薄く笑った。
気品ゆえに冷たさが際立つ、残酷な笑み。
「止める……?
あなたの振る舞いが、彼女を標的にしたのですよ、ルイス」
その言葉に、ルイスは驚かなかった。
すでに理解していた事実が、ただ刃の形を帯びて突きつけられただけだ。
「保守派の焦りを甘く見すぎている。
改革派に近づき、改革派の象徴であるカイロス侯爵の養女を庇い、表で守り、連れ歩く。
その行動すべてが“挑発”なの。
第一王子派にも、保守派にも、王都のすべての目に」
その声には一滴の情もない。
まるで冷たく研がれた刃のようだった。
ルイスは唇を噛む。
「……それでも、彼女を守りたい。
それが間違いだとは思いません」
「覚悟はあるの?」
ヴァレリアが一歩踏み出す。
細い影が、ルイスの胸を真横に切り裂くように落ちた。
「保守派を敵に回すとは、こういうことよ。
弱みを突かれ、愛する者を奪われる。
歴代の王たちが……証明してきたこと」
息が止まるほど鋭い言葉。
だがルイスは視線を逸らさない。
「……あなたは政治には向かないわ」
「それでも、私は守ります」
ルイスは、静かでありながら強く響く声で言った。
「覚悟なら、あります。
どの派閥を敵に回しても。
私はニナ嬢を守ります。
二度と、こんなことは起こさせません」
夕陽の赤が、彼の気高い横顔を照らした。
ヴァレリアは、ほんのわずか、瞳を揺らした。
しかし――すぐに消した。
「……政治に泣き言を持ち込まないことね。
あなたの覚悟が本物かどうか、見てあげるわ」
その言葉を受け、ルイスは一瞬だけ目を伏せた。
だが、それは怯えではない。
胸の奥に湧いたものを、静かに飲み込むための沈黙だった。
顔を上げたとき、
その青い瞳は澄み切り、微塵の揺らぎもない。
「脅しには屈しません」
低く、しかし明確な声。
感情を切り捨てたのではない。
最初から退くという選択肢を持たぬ者だけが放てる、静かな断定だった。
「変革を――より加速させるだけです」
言葉と同時に、口元がわずかに引き締まる。
それは覚悟を固めるための仕草ではない。
すでに定めた道を、ただ確認するような、揺るぎない確信。
その青い眼差しには、迷いも逡巡もない。
前だけを見据え、進むと決めた者の澄んだ光が、静かに宿っていた。
「やれるものなら、やってみなさい」
女王のような冷たい声音が返る。
ルイスは一度、静かに息を吸う。
剣を抜くよりも静かに、
だが剣を抜くよりも強い覚悟で。
その視線は逸れなかった。
挑発ではない。
己の道を進むと告げる、無言の宣誓だった。
ヴァレリアは手を一度払った。
「もう下がりなさい。
あなたと口論しても、生産性がないわ」
冷徹。
突き放す声。
不器用なまでに感情を隠す王妃。
ルイスは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる――その一瞬、
王妃の表情が微かに揺れた。
静寂の中、ヴァレリアは胸に手を当て、小さく息を吐いた。
やがて、自らの揺らぎを鎮める。
視線は落とさない。
弱さは誰にも見せない。
たとえ、この部屋に自分しかいなくても。
「……皮肉ね。
私が守ってきた均衡は、あの子の覚悟ひとつで崩れてゆく」
だがヴァレリアは目を閉じるだけだった。
「以前のように、弟として、騎士としてテオドリクの傍に寄り添っていれば……
それで良かったはずなのに――」
小さく、乾いた笑み。
「……本当に、あの子は変わった。
いえ……本来のあるべき姿だとしたら――」
――あの子もまた、王の器になりつつある……?
「……余計なことを考えるわね、私も」
その一言で、すべてを切り捨てるように。
最後の夕陽が王妃の頬を掠めて消えたとき、
ヴァレリアはふいに顔を上げた。
急ぎ羽織を掴み、人目を避けるように王宮を出ていく。
向かう先は――王都グラシエラ邸。
父に、どうしても確かめたいことがあった。




