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第25話 氷解の庭と、蒼い熱

――満月の口づけの夜から、春が来るまでに起きていたこと。

それは、恋人になったその翌日から、花が咲くまでのとき。


誰も間違っていないのに、想うがゆえにすれ違っていく――言えない想いだけが、静かに胸に積もっていく季節だった。



満月の夜にルイス王子とニナが唇を重ねてから、まだ一月も経たないというのに。

王宮では、いつの間にか当たり前のように、ひそやかな噂が生まれていた。


「第二王子殿下のお相手は、あの侍女ですって」

「あの侯爵家の血筋とはいえ、平民の血も混じった娘でしょう?」

「……“改革派の魔女”、いえ、“娼婦”などと――」


冷たい言葉は、回廊の石に吸い込まれ、また別の誰かの口から零れ落ちる。

まだ冬の名残を引く風が、硬く、ニナの衣の裾を揺らしていた。


そのすべてを――

王女ユリア、またシオンは、黙って聞いていた。


(……ニナ、大丈夫かな)


彼女――彼にとって、ニナが笑ってくれることだけが、今も確かな救いだった。


王にも掛け合った。

けれど噂は、命令ひとつで消えるほど、単純なものではない。


ならば――

せめて、ニナを直接傷つける声だけでも、止めよう。


ユリアは数名の令嬢を静かに呼び出し、

王女らしい穏やかな微笑のまま、けれどはっきりと告げた。


「……私の侍女に、何かご不満でも?」

「ニナへの陰口は、今後いっさい、私がお許ししませんわ」


声は柔らかい。

だが、その場の空気は、確かに凍りついた。


それは――王宮中の令嬢たちが、憧れと敬意を向けてやまない“白金の王女”の声だった。

見下すようでもなく、怒鳴るでもない。ただ静かに、しかし逃げ場のない一言。

令嬢たちは一斉に息を呑み、膝が震えるほどの緊張とともに顔色を失った。


令嬢たちは深く頭を下げた。

それ以来、少なくとも“表立った”悪意だけは、ぴたりと止んだ。



それでも――

噂そのものは、簡単には消えなかった。


シオンは、そのことを知っていた。

そして、どうすればニナが、少しでも元気になるのか――そればかり考えていた。


氷の残る庭で、彼女に声をかけようとした、そのとき。


――本当は、わざとつまずいて笑わせるつもりだった。

なのに。


「な、ニナ……そこ、まだ――」


言い終える前に、足元が盛大に滑り、

派手に、情けなく、しかも完全に予想外のかたちで転んだのは、シオン本人だった。


「わっ――!」

「し、シオン!? 大丈夫ですかっ!」


痛みより先に、必死な声が胸に飛び込んできて、息が止まる。


「だ、大丈夫……たぶん……」


「“たぶん”じゃありません!」


頬を赤らめて、本気で心配して怒るニナの顔を見て、

シオンは思わず吹き出してしまった。


「はは……ごめん……計算、失敗した……」


「もう……っ。けがでもしたら……心臓に悪いです……」


そう言って、ニナも、かすかに笑った。


その一瞬を――

偶然、目にしてしまった者がいた。


第二王子、ルイスだった。


シオンに向けられた、ニナの無防備な笑顔。

気を許した、あの柔らかな横顔。


(……あの顔を、私はまだ、見たことがない)


胸の奥で、何かが、静かに軋んだ。

それが嫉妬なのか、不安なのか――

ルイス自身にも、まだ言葉にならなかった。



それから、数日後の夕刻。


離れの前でニナを待っていたルイスの視界に、

少し遠くから歩く二人の姿が映った。


ニナの歩幅に合わせるように、身を屈めるシオン。

楽しげに言葉を交わしながら、自然に並び歩いている。


――近い。


(……また、か)


ルイスは、感情をそんなに表に出す男ではない。

だが、そのときだけは、違和感が、確かな重さをもって胸に残った。


ニナがこちらに気づき、微笑みながら軽く会釈をする。

ルイスは何も言わず、ただ歩み寄り――


迷いのない動作で、ニナの肩を引き寄せた。

逃げ場を与えないほど、はっきりと。

“恋人としての距離”を、誰の目にも分かるかたちで。


ーーシオンの前で、あえて。


ニナは一瞬だけ目を見開き、

(……あれ? 今日は、少し……。シオンが、見ているのに……)


理由も分からないまま、微かな熱が頬にのぼり、落ち着かなくなる。

心臓が、いつもより早く脈打つ。

それでも何も言えず、静かに身を預けた。


シオンは、その光景をまっすぐに見つめたまま――

その胸の奥で、何かが軋んだ。


喉の奥に、言葉にならない熱いものがせり上がる。


(……ああ。そうか)


自分でも名付けられぬ感情が、確かな「痛み」として形を持つ。

奪われたくない。

触れられたくない。


ーー奪えないと知っているのに。


微笑みたいのに、笑えない。

悟ったような静けさだけが、顔に残る。


それでもシオンは、何も言えず、

ただ一度だけ、ニナに視線を残し――

騎士として静かに一礼し、その場を去った。



そして、ある日の夕暮れ。


黄昏の光が差し込む静かな居室。

向かい合うように立つ、第二王子ルイスと、王女ユリア。


銀と、白金。

銀の髪は夕陽に溶けるように淡く輝き、

白金の髪はその隣で、やわらかな光を返している。

美しいふたりが並び立つだけで、王家の血の誇りと壮麗さが、部屋の空気を静かに満たしていた。


年の差は七つ。

ユリアにとって彼は、従兄弟であり、義理の兄であり、

そして――ただ背を追い続けてゆくべき人でもあった。


戦場での武名。

迷いのない決断力。

人を惹きつけてやまない、静かなカリスマ。


そのすべてを、ユリアは認めていた。


「ユリア。……少し、いいだろうか」


「兄様。どうなさいました?」


一歩だけ、距離が縮まる。


ルイスは、わずかに視線を伏せ、言葉を選ぶように口を開いた。


「……頼みがある。護衛騎士シオンに、伝えてほしい」

「ニナと、必要以上に親しくするな、と」


ユリアのまつげが、かすかに揺れる。


「噂になれば、彼女が傷つく。……私は、それが耐えられない」


穏やかな声だった。

だがそこに、隠しきれない独占の色が、静かに滲んでいた。


(……そんな顔、するんだ)


尊敬すべき“兄”の、これまで見たことのない感情が、そこにはあって――

ユリアの胸は、きゅっと締めつけられた。


それでも、彼女は微笑む。


「……承知しました、兄様」


小さく頭を下げた。


「ニナ様を思われるお気持ち……とても、尊いと思います」


ユリアはそう言って、ほのかに唇を緩めた。

声は、ほんのわずかに揺れていた。


「すまない。君には、いつも気を遣わせてしまうな」


「……いいえ……」


わずかな沈黙。

それから、胸の奥を整えるように、静かに続ける。


「……おふたりを、心から祝福しております」


祝福の言葉とは裏腹に、心のどこかが崩れていくのを感じていた。


ルイスは、わずかに逡巡してから、

深く、静かに一礼した。


「……感謝する」


衣擦れの音が、夕暮れの光の中を遠ざかっていく。


――扉が、静かに閉じる。


その音は小さかったのに、

ユリアの胸には、不思議なほど重く響いた。


彼女は、その場から動けなかった。

胸に残った、痛みを、ただ静かに抱えながら。




それから、シオンは確かに、ニナに距離を置くようになった。


笑顔は、変わらない。

声も、態度も、優しいまま。


ただ――

一歩、踏み込まなくなった。


「……それじゃ、また」


そう言って、必ず先に離れていく。


(……あれ?)


ニナは、小さな違和感を覚えたが、深くは考えなかった。


――ルイス様に、心配をかけたくない。

――シオンも、きっと、気を遣ってくれているだけ。


そう思い、追いかけなかった。

いや、自分には引き留める資格は無いと思っていた。


それが、誰よりも――シオンには、つらかった。



薄曇りの午後。

氷の割れかけた池のほとりで、シオンは、ひとり呟いた。


「……俺が距離を置いたほうが、ニナは幸せなんだよな」

「……分かってる。分かってるんだけど……」


手の中に残る、触れられなかった距離。


ふと、雲の切れ間から光が落ち、

割れた氷の表面が、きらりと小さく輝いた。


その光に照らされながら、

少年は、ただ黙って空を見上げていた。


――そしてその頃。


ルイスの胸の奥では、

ニナを守りたいという想いと、

抑えきれない独占欲が、静かに重なり続けていた。


春は、もうすぐそこまで来ている。

けれど、それぞれの心の氷は解けきらずに残っていた。

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