第24話 春風の舞う花の下で
春が訪れていた。
城下の庭園にはアーモンドの花が咲き誇り、東洋から伝わった桜がほのかな香りを放ちながら花びらを舞わせている。離れの部屋の窓辺から差し込む春光は柔らかく、ニナの寝顔を包み込んだ。
まぶたを開けると、すぐ傍らに優しい眼差しがあった。
「……おはよう、ニナ」
艶やかな指先が髪を梳き、温かな掌がそっと頭を撫でる。広い肩幅に抱き寄せられた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
「おはようございます、ルイス様……」
言葉を返すと、彼は愛おしげに唇を寄せた。だがすぐに理性が勝り、わずかに視線を逸らす。
――昨夜、互いの温もりを確かめ合ったばかり。
それでも朝の光に照らされるニナはあまりに柔らかで、彼は再び求めてしまいそうな自分を必死に抑えていた。
頬を染めたニナも、恥じらいながら彼の胸に身を寄せる。その仕草が愛おしく、彼は衝動を押し殺すように髪を撫でるだけにとどめた。
あの冬の夜、遠征から帰還して以来、数ヶ月。
幾度も思い出を重ねてきたはずなのに、甘い夢はまだ醒めない。
ルイスは王宮にいる時はほとんど毎日のように、この月の離れを訪れていた。
ここはかつて母の面影が残る部屋――けれど今は、ニナの優しさがそれに重なり、静かな幸福で満たされている。
どんなに疲れた日でも、扉を開ければ彼女が迎えてくれる。
その笑顔に触れるたび、彼の心はゆるやかに癒されていった。
時に彼は、言葉もなくその腕に彼女を抱き寄せた。
指先が髪を梳けば、花の香りのように甘い吐息がこぼれる。
ただそれだけで、胸の奥のざらついた痛みが溶けていく――。
戦と政の間を生きてきた彼にとって、この小さなぬくもりこそが、世界のすべてに勝る安息だった。
「今日は……ずっと君といたい」
低く囁く声に、頬が熱を帯びる。
「わたしも、午後まで時間がございます」
答えると、ルイスは穏やかに微笑んだ。
「では、花木を見に行こう」
―――ルイスの帰還により、宮廷での冷遇は幾分やわらいだ。
だが、二人の中が深まるほど、陰口は増えていった。
“改革派の魔女”“娼婦”――人々は、第二王子がひとりの娘に心酔しているように見たのだ。
ニナは目立ちたくなかった。けれど避けられない。
そのたびにユリアやシオン、そしてルイス自身が支えとなってくれた。――――
その日の昼前、ふたりは人目を避け、人気のない桜の木の下に腰を下ろした。
広げた布の上には、簡素ながらニナが用意した食事が並ぶ。桜の花びらがひらひらと舞い降り、彼の銀の髪と、彼女の黒の髪に淡い彩りを添えていた。
もしその場に誰かが居合わせたなら、目を奪われずにはいられなかっただろう。
桜の花片に包まれた乙女は、黒髪が春光を受けて艶やかに揺れ、頬には可憐な紅が差している。
隣に並ぶ青年は、端正な顔立ちと鍛えられた体躯を持ちながらも、彼女に向ける眼差しはあまりに優しかった。
咲き誇る桜と寄り添う二人――その光景はまるで絵画の一場面のようで、儚く眩しい輝きを放っていた。
「君とこうして過ごす時が、一番安らげる」
ルイスは桜を見上げながら静かに告げる。
「遠征や政務に追われても、不思議と力が湧いてくるんだ。……未来のことを考えられるようになった」
「未来……ですか?」
ニナが問い返すと、彼は少し照れたように視線を逸らす。
「まだ口にするには早いかもしれない。だが、君が隣にいてくれるなら――どんな困難も越えていける気がする」
――だがニナは、彼が王を志していることも、宮廷で密かに改革派と接触を重ねていることも詳しく知らなかった。
監視下に置かれ、改革派の養父カイロス侯爵にさえ接触を禁じられている彼女を、ルイスは心配し、政治に巻き込みたくなかったのだ。
ただ、自分も彼の支えのひとつになれるならと、静かに微笑み、彼の手を包む。
「……わたしにできることがあれば、いつでもお力になりたいです」
ふと風が吹き抜け、ニナの暗い髪がほどけた。
淡い光を受けた横顔は、可憐さと気品を同時に湛え、咲き誇る花々さえ霞ませるほどだった。
その姿を包み込むように桜の花びらが舞い、まるで春そのものに愛された精のように映る。
その美しさに、ルイスは一瞬、息を呑んだ。
銀色の髪が陽をにきらめき、整った面差しに花びらが触れるたび、王子の冷ややかな美貌は、さらに艶めいた色を帯びていく。
⸻
やがて風が落ち着き、花の雨も静まる。
「……少しでもお役に立てれば、嬉しいです」
それは、王を目指す彼を知らずに口にした、謙虚な誓いの言葉だった。
ルイスの瞳がふと揺れる。
「ニナ……君は本当に、強いな」
「……けれど、ひとつだけ願ってもいいか?」
彼は小さく息を吸い、花びらの舞う中で彼女を見つめた。
「そろそろ、“様”づけはやめてくれないか」
「え……?」
ニナは瞬きをして、頬を赤く染めた。
「で、ですが……それは……」
言葉を探すように目を伏せると、彼は微笑んで指先で彼女の髪をすくい上げた。
「恋人に“様”と呼ばれるのは、少し寂しい。君の口から“ルイス”と呼ばれたいんだ」
その声音は冗談めいていながらも、どこか甘く切実だった。
桜の花びらが二人の間を舞い、ニナの唇が震える。
「……ルイス……」
その名を呼んだ瞬間、彼の瞳が静かに細められ、唇の端がゆるやかに弧を描いた。
「……ああ、それでいい。君の声で呼ばれるだけで、胸の奥が温かくなる」
花の香がふたりを包み、時が止まったかのようだった。
彼は彼女をそっと抱き寄せた。
その腕の中にある温もりが、すべての答えのように思えた。
ニナは驚きに息を呑んだが、すぐにその胸の音に耳を傾ける。
彼の心臓が、確かに自分と同じ速さで脈打っている――それが嬉しかった。
花びらに包まれるふたりは、春の幻のように儚く、美しかった。
――幸福だった。だが幸福が深まるほどに、ニナの胸にはかすかな不安も芽生えた。
この静かな時は、永遠に続くのだろうか、と
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