第23話 満月の祝福、崩れゆく月影
第二王子と、王女の想い。
満月の夜、ついに――すべてが交わる。
今宵は満月。
年が明け、冬はさらに深まった。空気は冷たく澄み渡り、吐く息は白く夜に溶けていく。
ニナに与えられた「月の離れ」は、名のとおり月を仰ぐために作られた小さな庭園を持つ。
枝を落とした樹々の間、凍てつく地面にはうっすらと霜が光っていた。
月は満ち、銀色の光が小道や庭の植木に反射して、静かな幻想的な世界を作り出している。
夜――。
ニナは胸を弾ませながら、その扉の前に立っていた。
今夜はユリアと月を眺める約束をしていたのだ。
けれど、月明かりに照らされて現れたのは――ユリアではなかった。
彼は、遠征から戻ったばかりのはず。本来なら凱旋の後は休む間もないはずの人が――それでも、ここに立っている。
「ルイス様……!」
思わず名を呼んだ声が震える。
驚くニナに、ルイスは静かに微笑んだ。
「会いたかった。無事でよかった、ニナ」
ルイスは酒も呑まず、宴を抜けてここへ来ていた。
「私こそ、ルイス様がご無事でよかった……」
無事に帰ってきてくれた――その安堵と喜びがこみ上げ、ニナは胸が熱くなるのを感じながら笑みが溢れた。
その笑顔を見た瞬間、ルイスの胸の奥に柔らかな痛みが走る。
冷たい夜気の中、彼の瞳だけがどこかあたたかく、言葉にできない想いをそのまま映していた。
彼は懐から小さな鉢植えを取り出した。
氷を思わせる淡い青の蕾が、一輪、寒気の中で光を宿している。
「これは……?」
「〈蒼光草〉という。春を呼ぶ花だ。君に贈りたかった。」
彼の声は静かで、けれどどこか照れくさそうだった。
「この花には、ひとつ言い伝えがある。――“愛する者の手で育てれば、どんな冬にも負けず花を咲かせる”」
「……私に?」
「ああ。君の春が、必ず来るように。」
ニナは両手で鉢を受け取り、そっと胸の前に抱いた。
その花の蕾は、まるで月光に応えるように、かすかに揺れた。
「殿下……ありがとうございます。大切にします」
「……ありがとう。そう言ってくれるだけでいい」
ルイスはその言葉に、ほんのわずか息を呑む。
彼女が花を抱く仕草のひとつひとつが、どうしようもなく愛おしくて――なぜこんなにも心を奪われるのか、自分でもわからなかった。
月光に照らされたニナの頬に、雪明かりのような白さが宿る。
その頬を指先でそっと撫でたい衝動を、彼はぎゅっと指を折り込み、静かに掌を握りしめて抑えた。
ルイスは手をそっと差し伸べ、躊躇うように一瞬だけためらってから、優しく尋ねる。
「握っても……いいか?」
震える手を差し出すと、指先が触れ合い、絡めるように重なって、互いの体温が凍てつく空気の中でほのかに伝わる。
「……ずっと、会いたかった」
ニナは胸の奥がきゅっと締めつけられるように甘く苦しくなった。
その瞳は王子としてではなく、一人の青年としての熱を帯びていた。
ルイスはその瞳を見返し、かすかに唇を震わせる。
言葉の代わりに、視線で「もう離したくない」と告げるように。
その一瞬の沈黙が、どんな言葉よりも深く、二人の間を満たしていた。
「……私も」
小さく震える声が夜に溶けていく。
彼はそんなニナを、愛おしげに見つめる。
「母とよく、この離れから月を眺めたんだ。まさか……君と見る日が来るなんて」
思い出を口にする声音には、照れも、切なさも混じっていた。
彼の視線が、ふとニナの髪に落ちる。
月光に縁取られた黒髪が風に揺れるたび、まるで夜の神秘が彼女を包んでいるように見えた。
ルイスはその光景を、ただ息を潜めて見つめていた。
ルイスはそっとニナの肩に手を添える。
触れた瞬間、彼女の身体がわずかに跳ねるのが伝わった。
「君のことばかり考えていた」
ニナは顔を上げ、凍てついた空気の中、月光に照らされた彼の横顔を見つめる。
視線が絡んだまま、互いに逸らせなくなる。
「ルイス様……」
その時、雲間から月が顔を出し、庭園は銀色に染まった。
二人は肩を並べ、夜空を仰いだ。
だが、もう月はほとんど見ていなかった。
ルイスの視線は静かにニナの横顔へ向けられ、抑えきれぬ衝動に駆られる。
「……ニナ」
名を呼ぶと同時に、彼はそっと唇を重ねた。
驚いたニナの頬は赤く染まり、突然のことに、体は小さく震える。
けれど、その温もりに抗えず、胸の鼓動に押されるように、彼女はゆっくりと瞼を閉じてしまった。
互いの鼓動を感じ合う。
唇が離れたあと、ルイスの瞳はわずかに潤み、そのまなざしには、言葉では言い尽くせぬ慈しみが宿っていた。
そして二度目の口づけは、より深く、確かめ合うように――。
胸の奥に、ゆっくりと確かな熱が灯る。
小さな吐息、絡み合う指先、手のひらに伝わるぬくもり――
それらすべてが、初めて結ばれる恋の証だった。
ニナの腕の中の蒼光草は、月光に照らされ、かすかに淡い光を放った。
それは、まだ固い蕾のまま――けれど、二人の春を静かに約束するように。
その瞬間、世界から二人きりが切り離されたようで、
冬の夜の月光が、静かに祝福していた。
**
その刹那、庭園の外れにたたずんでいたユリアは、息を呑んだ。
月光に浮かび上がる二人の影。重なる唇。
喉が塞がれたように声が出ず、ただ立ち尽くす。
「……先に‥引き返して」
かろうじて侍女にそう告げると、彼女は背を向けた。
足は震え、視界はにじみ、どうにか人影のない回廊まで辿りつくと、壁に手をつき、息を吐き出す。
――そして、その時だった。
月光が彼女を射抜いた。
白銀の輝きが輪郭を溶かし、影が揺らめき、衣擦れの音すら消える。
髪は銀にほどけ、瞳は夜の闇を宿す色へと沈み、
少女の姿は、静かに――少年へと変わっていく。
その変化は痛みではなく、まるで運命に導かれる儀式のように、静かで、抗えぬものだった。
そこに立っていたのは――シオン。
その瞬間、抑え込んでいた感情が一気にあふれ出した。
ずっと秘密を抱えてきた。
自分はユリアであり、同時にシオン。
竜の血に選ばれた、決して語れぬ宿命を背負った者。
「……見守るはずだった。
ルイスの隣で笑うニナを、祝福しようと決めていたのに」
月光に濡れた頬を、透明な涙が伝う。
その時だった。
遠くで雷鳴が低く響き、月は雲に隠れ、やがて細やかな雨が降り始めた。
「……それでも……」
低い声は雨に紛れ、誰に届くこともない。
シオンは雨に打たれながら、
ただひとり、立ち尽くしていた。
――秘密を抱えたまま、
手を伸ばすことすらできずに。




