第22話 冬の王宮、眠る黒竜伝説
静かな冬の王宮で、ニナとユリアが辿り着いた、ひとつの“伝説”。
それぞれの想いが、少しずつ形を変えていく。
冬が本格的に始まり、冷たい空気が王宮を包み込んでいた。遠くの山々には雪が積もり、白い霜が木々の枝先に光を宿す。
朝の庭園は息を潜めたように静まり返り、踏みしめる砂利の音さえ、どこか張り詰めて響いた。
舞踏会ののち、ルイス王子は西方の魔物征伐の援軍として王宮を発ったまま、まだ戻らない。
それでも、届く手紙は優しかった。
寒さに震えていないか、無理をしていないか、誰かに辛く当たられてはいないか――戦場にいるとは思えぬほど、細やかにニナを気遣う言葉が並ぶ。
その文字を指でなぞるたび、胸の奥が温かくなる。
けれど同時に、その優しさに縋るほど、彼を案じ、不安も静かに募っていった。
王宮では、表向きの空気だけは穏やかだった。
かつてニナに浴びせられていた令嬢たちのあからさまな敵意は、アレクシアの毅然とした一言と、ユリアの静かな意思表示によって、ひとまず影を潜めている。
ユリアに憧れを抱く令嬢たちの多さもあり、露骨な嘲りや嘲笑は、少なくとも人目のある場所では消えていた。
侍女たちの扱いもまた、王の介入によってある程度改善された。
風呂の湯が理不尽に冷やされることも、食事が意図的に遅らされることも、もうない。
――それでも。
必要以上に交わされない視線。
声をかけても返らぬ返事。
説明されない段取りと、回されない些細な情報。
保守側である王妃の第一王子派の影は、形を変えて今もなお、王宮の隅々に薄く伸びていた。
さらに気がかりなのは、舞踏会の翌日から、“シオン”の姿が王宮から消えたことだった。
急な用が入り、しばらく宮を離れているのだと、ユリアは淡々と告げたけれど――その声は、どこか硝子細工のように脆く、ニナの耳に残った。
護衛は別の侍女に替わり、あの日常に溶け込んでいたやさしい気配だけが、嘘のように遠ざかっていた。
(……シオンがいたなら、きっと明るく笑って、励ましてくれたはず……)
(……でもそんなふうに思ってしまう自分は、きっとずるい)
(……ルイス様がいるのに、シオンに甘えたら……いけないわ)
そう思えば思うほど、胸の奥が軋んだ。
そしてそれと呼応するかのように、ニナの胸を何より締めつけていたのは――ユリアの変化だった。
あれほど無邪気に笑っていた少女は、いつの間にか、どこか大人びた影を纏いはじめている。
ニナに向けられる眼差しは、以前と変わらず優しい。それなのに、ほんの一歩だけ――距離を測るような、ためらいが滲むようになった。
まるで、近づいてはいけないと、自らに言い聞かせているかのように。
特に伝説や神話の話題になると、ふいに視線を逸らし、話を変えようとする。
ときおり、胸の奥に違和感でも覚えたかのように、無意識に胸元を押さえることもあった。
二人の間に、言葉にできない、ほんのわずかな距離が生まれている。
だからこそ、ニナは思ったのだ。
このまま、何も知らずにいるよりも――向き合うべきなのだと。
ある日、ニナはあえて切り出した。
「……竜の伝説、少し調べてみませんか」
カイロスから聞いた、王族しか立ち入れない古い図書室。
古びた扉の奥、ほこりと静寂が眠る場所。
そこには、この王家にまつわる“語られぬ記録”が残されているという。
ユリアは一瞬、ためらうように視線を伏せてから、やがて小さく微笑んだ。
「……ニナと一緒なら」
その笑顔には、どこか隠しきれない不安の色が滲んでいた。
二人で扉を押し開けた瞬間、冷たい空気と、長い年月を閉じ込めた古文書の匂いが、ひそやかに鼻をかすめた。
膨大な文献の中、やがて一冊の古びた文書に辿りつく。
封じられた書は、なぜかユリアの手でしか開かなかった。
千年前に記された古文書にはこうあった。
⸻
――竜は黒し。
東天より来たる黒髪の乙女、国を救済せり。
竜は天を駆け、雲を裂きて雨を呼び、旱を潤し、地を豊かにせし。
また嵐を鎮め、魔を祓い、民を護りしという。
その姿は自在に変わり、
時に天を覆う影となり、時に人のかたちを取れり。
その力、人の理を超えしがゆえに、敬われ、同時に畏れられたり。
やがて竜は人の姿を取り、乙女と契りを交わす。
ふたりの間に子が生まれ、その血に竜の力が宿る。
その子ら、土地の民と交わり、この国の礎を築けり。
初め、民はその血を尊び、祈りと共にあった。
されど力あまりに強く、これを忌む者、また欲する者あらわる。
やがて人は竜の恩を忘れ、己が栄のためにその力を求めし。
――いずれ歴史は偽られ、真実は闇に沈まん。
されど、これを読む者よ、忘るるなかれ。
竜は黒くして清らか、乙女と共にただ平和を望みし者なり。
その慈しみこそ、この国の始まりなり。
⸻
ページの終わりを見つめたまま、ユリアの肩がわずかに震えた。
手にしていた古文書が微かに揺れ、ページの端が小さく擦れ合う音を立てる。
唇が開きかけ、けれど声にならない息が零れた。
「……黒、竜……?」
それは驚きか、安堵か、あるいは名もなき感情か。
かすれた声が、静まり返った図書室に吸い込まれていく。
彼女の瞳はわずかに潤み、胸の奥から漏れた吐息が、静寂な空気を震わせた。
伝説として語られてきたのは、銀に輝く竜と金髪の少女の物語だった。
その古文書に書かれたことがすべて真実だと、まだ言い切れなかった。けれど、少なくとも“信じられてきた歴史”とは違う可能性が、確かにそこにあった。
黒竜は忌むべき存在――そう教えられてきたニナ。
目を見開き、息を呑んだ。胸の奥で、長く抑えていた感情が一気にほどける。
「わたしたち、ずっと “黒竜は忌むべきもの” って教えられてきました。なのに……」
ユリアから渡された古文書を、そっと抱きしめる。
「きっと……政治の都合で伝説が改変されてきたのかもしれませんね。
黒竜が……良かった……あまりにも悪者とされていたから……これが真実なら、真に救ってくれた竜だったのですね」
昔からニナは、黒竜が悪とされることに、理由のない違和感を覚えていた。
幼い頃から、平民の中では「貴族の血を引く」と疎まれ、貴族の中では「平民の血を持つ」と蔑まれてきた。
そのため、常に弱い者の立場に立って物事を考えるようになっていたのだ。
だからこそ――彼女は黒竜の物語に、説明のつかない親しみと共感を抱いていた。
胸の奥にあったざわめきが安堵に変わり、目頭が熱くなる。
ニナが漏らす安堵の声に、ユリアは涙をこぼした。
驚きと共に、長く封じられてきた真実に触れた感動が混じる。
「ユリア様……?」
涙に気づいたニナは慌てて抱き寄せ、安心させたく微笑みながら背を撫でた。
理由は分からない。ただ、この涙には言葉にならない深い意味があるのだ。
ユリアは、いくつもの思いを胸に秘め、震える手でニナの頬をなでる。
「ありがとう、ニナ。……あなたが笑ってくれるなら、それだけでいい」
その言葉は、まるで恋人のささやきのように甘く、切なく響いた。
ニナもまた、ユリアを抱きしめ返す。
唐突なユリアの言葉に驚きながらも、心は静かに温まる。
「……わたくしこそ」
互いを支え合うように、心が静かに、固く結びついていく。
***
その夜。
しばらく姿を消していたシオンが、冷たい冬の夜風を伴い、力強く現れた。
「シオン……!」
「しばらく来れなくてごめん。……これからは俺が護衛する」
決意を宿した声に、ニナの胸は温かく満たされる。
「良かった……」
心から安堵した。
「ニナは……ルイス王子殿下のことが心配?」
静かに問われ、ニナは一瞬言葉を失い、やがて恥ずかし気に微笑みながら頷いた。
それはまるで、“好きか?”と問われたかのようだった。
シオンは悟る。
彼女の心が誰を想っているかを。
それでも茶目っ気を装い、言葉を続ける。
「殿下はいいよな。かっこいいし……俺も早く大人にならなきゃ。いつか追い抜いてやる。……今でも見た目は負けてないはずだろ?」
「でも……シオンは、シオンで十分素敵です」
ニナの微笑みに、シオンの胸は一瞬熱くなる。
それでも笑みを崩さずに返す。
「本当? 知ってたけどな。」
その瞬間、戸惑いながらも心から笑顔を見せるニナ。
シオンはその笑顔を見惚れるように見つめた。胸には、ただ彼女を守りたいという思いが満ちていた。
二人の笑い声が、夜の静けさに溶けていく。
少なくとも――ルイスは女性を見る目だけは間違っていない。
そして、強い男だ。
そう思うことで、シオンは自分を納得させるのだった。
それからというもの、彼は会うたびに小さな草花を贈った。
ルイス不在の間、せめてニナの笑顔を絶やさぬようにと。
その花は、ひそやかな想いのかけらとして、王宮での冬の日々をそっと彩った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
次回も秘密に関わる重要なお話になる予定です。
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それでは次回もお楽しみいただけますように。




