第21話 月下のバルコニー、政治の影と恋
平民として生まれたニナは、侯爵である伯父に養女として迎えられ、王宮に送り込まれた。
与えられた使命は――
「王女を支え、王子の心を味方につけること」
舞踏会の夜、
伯父カイロスの計算を越える出来事が起きる――
王子ルイスが、最初の一曲をニナに申し込んだ。
熱を帯びた瞳で見つめ合う二人――
国の運命は、静かに軌道を外れ始める。
舞踏会の喧騒から離れた大広間奥のバルコニー。
水晶灯が揺れ、夜気が流れ込むそこに国の要人たちが集っていた。
揺らめく光が大理石に影を落とし、場の空気にゆるやかな緊張を映し出す。
「にぎやかな夜ですこと」
王妃ヴァレリアが金糸の扇を動かし、艶やかに口火を切る。
「けれど――王宮にあの娘を招き入れるとは。平民の血を引く養女が舞踏会の中央に立つなど、前代未聞です」
マルセロ・グラシエラ公爵は眉をひそめ、静かに息をついた。
「……若者の戯れとはいえ、宮廷に不穏の種を撒く恐れもありますな……」
視線は軽くカイロスの方へ向いたが、口調には重みと慎重さが漂っていた。
言葉は穏やかでも、その背後に潜む警戒は、誰の目にも明らかだった。
「若者の社交に目くじらを立てることもありますまい。……もっとも、国の均衡を乱さぬ限りは」
カイロスは穏やかに杯を回し、表情を変えない。
ただ、眼鏡の縁へ指先がそっと触れた――思案に沈むときの癖を、彼自身も無意識のままに。
フェルナンド・ラディエンス辺境伯の目がわずかに細められ、唇に含みのある僅かな微笑が浮かぶ。
「……均衡といえば――」
辺境伯は低く言葉を紡ぐ。
「北方国境の巡回隊が例年より多く魔獣を討伐しており、隣国の商隊は軍馬を買い集めています。我が領の兵力はどちらに備えさせるべきか」
王妃は涼やかに笑い、扇を小さく打ち鳴らした。
「魔物は辺境伯のお力で鎮められるでしょう。……けれど人の心の魔を抑えるのは、扇ひとつでは叶わぬこと。問題は、宮廷に入り込もうとする異物です」
その「異物」に、フェルナンドも思わず視線を鋭くした。
「若者たちの動向を監視するのも務めではあるが」
レオニス王は杯を傾け、低く言葉を落とした。
「だが、国境に漂う不穏を見落とすことはできぬ」
カイロスは静かに息をつき、柔らかく言葉を添える。
「……どれもまだ兆しにすぎません。
ゆえにこそ、内を騒がせるのは得策ではない。
ただ隣国の動きが真実なら、魔物より人の軍の方が恐ろしい。内に騒乱を抱えれば、外敵に付け入られるのは歴史の常です」
マルセロ公爵は低くうなずいた。
「外患を防ぐためにも、まずは内を整えることが肝要……。
宮廷に不安定な存在を置けば、国境と同じく“揺らぎ”が生じましょう」
王妃は小さく扇を閉じ、暗黙の警告を含ませた。
「余計な芽は摘むべきでしょうね」
誰に向けられた言葉か、場にいた誰もが理解していた。
そのとき、カイロスと王の視線がふと交錯した。
意味を測りかねる沈黙――それ以上のものは、誰にも読み取れなかった。
バルコニーに漂う空気は、舞踏会の弦の調べよりもはるかに重く冷たい。
華やかな旋律が奥の広間で軽やかに舞うほど、ここに満ちる沈黙は鋼のごとく硬く、
その場の誰も明言しない“わずかな不穏”だけが、密やかに空気の底へ沈んでいった。
***
舞踏会も終盤に差し掛かり、賑わいはまだ続いていた。
けれどルイス王子と踊ったニナは人の熱気に疲れ、隠れるようにひとり静かな空気を求めて回廊へ出ていた。
高窓から月明かりが射し込み、長い影を大理石の床に落としている。
胸の奥ではまだ、先ほどのダンスの余韻が波打っていた。
ルイスの手に導かれ、音楽に身を委ねたひととき――。
青のドレスに込められた想いを知らされた時の、胸がいっぱいになる感覚。
「……わたしが……?」
特別な感情を持つ人から向けられた好意。
こんなこと、現実のはずがない。戸惑いと甘い夢の名残が胸の奥で混ざり合い、足元がふらつきそうだった。
またニナは伯父カイロスの言葉を思い出す。『ルイス王子を味方に……』と。
あれも政治に絡む一手なのだろうか。けれど――少なくとも今夜の彼は、そんなものを越えて自分を見てくれていた。そう思いたかった。
小さくつぶやいた瞬間――
「何を悩んでいる?」
不意に声がして、ニナは振り返った。
そこに立っていたのは、いつの間にか彼女を追って来たルイスだった。
月光に照らされた横顔は、昼間の明るさよりも大人びて、静かに輝いて見える。
「今夜の君は、本当に……きれいだ」
その瞳が真っ直ぐにニナを見つめる。
言葉を失ったニナは、視線をそらすしかなかった。
「でも……わたしは、ただの……」
声が震え、自分でも続きが言えなかった。
「ただの、じゃない」
ルイスが一歩、近づく。
「君はニナだ。誰の娘でもなく、誰の代わりでもない」
甘く、真摯な視線が胸に突き刺さる。
逃れられないその眼差しに、息が詰まった。
ただ、どうしようもない不安が溢れた。
「あのような場でルイス様が改革派の娘と踊ったとなれば、ルイス様のお立場が難しくなるのでは……」
ニナは心配で胸が締めつけられた。
「心配していたのか……これは私の意思で行ったことだ。改革派への理解は元からあった。
だがそれ以上に――ただ君と踊りたかったんだ。」
耳に届いたその言葉が、胸の奥を震わせた。
言い返す余裕もなく、ルイスがそっと彼女の手を取る。
冷たい夜気の中、その掌だけがあたたかく、心を満たすようだった。
「……許してくれるか?」
囁きとともに、ルイスはニナの手の甲へ、静かに唇を落とした。
心臓が高鳴り……息が詰まるほどだった。
けれど――その甘美な空気を、遠くからひそかに見つめる影があった。
回廊の柱の陰。
シオンはただ目を逸らすこともできずに二人を見つめていた。
夜風が突然強まり、回廊のカーテンを荒々しくはためかせた。
ニナとルイスは顔を上げ、不思議そうに風の行方を追う。
ただ、月だけが静かに見下ろし、三人の運命を照らしていた――。
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