第01話 二つの使命
冬の朝日が、レイザルト侯爵領の谷間をやわらかく照らしていた。
畑には冬作の作物が整然と並び、果樹園の枝には保存用に吊るされた実が赤銅色に光を返す。
冷たい空気の中、村人たちは朗らかに仕事に励み、子どもたちの声が凍る朝を明るく染めていた。
市場には東方から届いた香辛料や宝飾品が並び、石畳の大通りには活気ある声が満ちる。
――その繁栄を支える知略の主こそ、ニナの伯父にして養父、カイロス・レイザルト。
三大貴族の一角としての誇りと責任が、この地に静かに息づいていた。
窓辺に座るニナ・レイザルトは、まだ夢の余韻に包まれていた。
黒く輝く翼を広げ、空を舞う竜。
大地に暮らす人々が小さく見えるほどの高みで、彼女もまた宙に浮かんでいるような、不思議な感覚――。
「……あの夢は、何の兆しかしら」
小さく息を吐きながら独りごちる声に、胸がわずかに高鳴る。
今日は伯父から呼び出しを受けている日だった。
父は東方の商人、母は貴族の令嬢。
両親の不和と困窮ののち、十五歳で母方の伯父カイロスの養女となったニナは十九歳になった。
社交界には顔を出さず、教養を磨きながら伯父の補佐を務めてきた。
けれど今日だけは、これまでと違う。
ずっと覚悟してきた瞬間が訪れるのだ。
扉が軽くノックされ、侍女の声が響く。
「ニナ様、侯爵様がお待ちです」
ニナは小さく肩を正し、指先にわずかな緊張を覚えながら深呼吸した。
「はい、行きます」
身支度を整えて部屋を出ると、侍女クレアが恭しく頭を下げた。
ニナは微かに笑みを浮かべ、目を細めて自然に声をかける。
「いつもありがとうございます、クレアさん。寒い朝に呼びに来るのは大変でしょう?」
侍女は小さくため息をつき、しかし嬉しそうに笑った。
「……本当に、ニナ様は変わりませんね。侯爵令嬢になって暫く経つのに、どなたに対しても頭を下げて……。こんなに気さくで、社交界で浮いてしまわないか心配です」
ニナは軽く首を振る。
「だって、皆さんのおかげで私は暮らしているのですもの。感謝を伝えるのは当たり前でしょう?」
言葉とともに、頬にわずかな紅を帯びさせる。
クレアは苦笑しながらも、どこか嬉しげに肩をすくめた。
「……あぁ、本当にニナ様は。あまりに自然に優しいので、このまま社交界でやっていけるのかと心配してしまいます」
ニナは小さく笑みを浮かべた。
「ふふ……ご心配ありがとうございます。でも、優しいなんて――私、当たり前のことをしただけなんです」
指先でそっと髪を整えながら、にこやかに答える。
クレアは呆れ半分、微笑半分で首を振る。
「やっぱり分かっていらっしゃらないのね」
短いやり取りのあと、ニナは小さな温もりを胸に抱えて廊下を進む。
――誰かを見下すような生き方は、きっと自分には似合わない。
同時に、柔らかく光る窓辺の景色に胸を震わせ、これから会う伯父のことを思い浮かべる。
彼のために役立たねばならない。
恩を返すためなら利用されることも覚悟している。
けれど、その瞬間が今日訪れると思うと、緊張と期待がないまぜに胸を揺らした。
手を軽く握りしめ、指先に意志を込める。
***
書斎に入ると、威厳ある侯爵が机の向こうに座っていた。
銅色を帯びた深い栗髪が朝の光を受けてやわらかく艶を返し、鼻梁にかけた細身の眼鏡が知性の影を映す。
その瞳は、紅を含むブロンズ――静かな熱と理性が共に息づく色だった。
紳士的で穏やかな顔立ちの奥に、人を見透かすような知略の光が宿る。
領民の前で見せる親しげな笑みはなく、ニナに向けられた視線はただ静かに重かった。
「ニナ」
低い声が響く。
「今日から、君に二つの使命を託す」
ニナは背筋を正し、心臓の鼓動を押し殺すように頷いた。
微かに息を整え、唇を噛みしめて覚悟を示す。
「一つ目――王宮でユリア王女殿下に仕え、守ること。
君の眼と心で、殿下を支えよ」
ニナの胸に、幼い子どもの頃の記憶が蘇る。
休暇のたびに訪れていた邸宅で、一緒に遊んだ少女――ユリア。
明るく、無邪気に笑い、陽光のように周囲を照らす子だった。
その可愛らしく優美な笑顔が、温かな光となって、ニナの心をそっと満たした。
「二つ目――第二王子ルイス殿下を味方につけること。
殿下の信頼を得よ」
ルイス――若くして騎士団を率い、英雄と讃えられ、王国一とも言われる美しい王子。
輝く銀髪、凛々しい姿――噂の数々が胸をときめかす。
使命の重さに息を呑むが、伯父の眼差しには確かな信頼だけが宿っていた。
カイロスは歩み寄り、言葉を重ねた。
「ニナ、君には特別な力がある。魔法ではない。
だが、人を癒し、和ませ、導く力だ。
存在そのものが周囲を安らげ、信頼を築く」
そして静かに付け加える。
「ここ二百年以上、竜に変じる者は現れず、魔力も衰えつつある。
だからこそ――君のような存在が必要なのだ」
ニナは胸が熱くなるのを感じた。
魔力はない自分に、そんな評価があるなんて――。
しかし、内心ほっとする自分もいた。
尊敬する伯父が、決していい加減なことは言わない。
人を癒す、特別な力――心から自然に湧き出るものだった。
「……ありがとうございます……伯父様。
わかりました、全力を尽くします」
瞳をしっかり見開き、声に力を込める。
カイロスは厳しさを湛えつつも、微かに笑みを浮かべた。
「よし。春になれば、王宮で君の力を示すのだ」
その言葉が、背中を押す。
胸の奥で燻っていた不安が、希望に姿を変えて灯った。
――豊かな大地、賑わう市場、民の笑顔。
三大貴族の威厳と温かさ。
そのすべてを背負い、今ここから歩み出すのだ。
「準備はいいか」
伯父の問いに、ニナは力強く頷く。
「はい」
外の光が窓越しに差し込み、彼女の髪をやわらかく照らした。
冬を越え、春に新たな世界が待つ。
王宮での使命、未知の出会い、そして二つの運命――。
静かに、しかし抗いがたい力で、彼女の物語が動き出した。
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