第10話 芽生える光ー夕立の名残りに
夏の午後、孤高の王子ルイスの胸に
小さな揺らぎが生まれる。
静かに差し込むニナの存在が、
彼の心に淡い光を灯しはじめる。
夏の陽が王都セリオンの屋根瓦を照らし、街の上に白い光の波が流れていた。
王宮の中庭を渡る風には湿り気が混じり、遠くで雷が低く鳴る。空の端には、夏の雨の予感が漂っていた。
その日、ニナはユリア王女の使いとして、王立図書館へ向かっていた。
王宮の北側、緩やかな丘の上に建つその図書館は、“知の聖堂”と呼ばれる壮麗な建築だった。
白い大理石の壁に蔦の葉がやわらかく揺れる。
古の学者たちが刻んだ文様がアーチを飾り、扉をくぐれば、ひんやりとした静寂が満ちていた。
――まるで、時が眠る場所のように。
外交記録の閲覧許可を得て、ニナは重ねられた書架の間を歩く。
高い天井、石造りの柱、漂う羊皮紙の香り。
灯り取りの窓からこぼれる光が、舞い上がる埃を金色に照らしていた。
書架の影を抜けたとき、ニナはふと足を止める。
奥の閲覧席で、銀の髪が柔らかく光を返していた。
――第二王子、ルイス・アヴェルシア。
彼はひとりで、静かに古書を読んでいた。
周囲の誰も近づかない。護衛の姿もない。
ただその背に、圧倒的な孤高と品位が漂っていた。
(……殿下)
思わず身を引いた瞬間、ルイスが顔を上げた。
「……レイザルト嬢?」
低く静かな声。
咄嗟に礼を取ると、ルイスは眉をわずかに上げた。
「用があって? ここは侍女の立ち入る場所ではないはずだが」
「王女様のご指示で、外交記録を拝見するようにと――」
言いかけて、ニナは小さく頭を下げる。
彼の目は透き通る氷のようで、息をするたび心を見透かされそうだった。
だが次の瞬間、ルイスは書物に視線を戻しながら静かに言った。
「……あの時より、落ち着いて話すな」
「え?」
「初めて会った時。ずいぶん警戒していた。……まあ、無理もないが」
皮肉めいた口調。けれど、その声の奥には柔らかな色があった。
「その頃の私は、ルイス殿下を誤解しておりました。失礼を――」
「誤解?」
彼はわずかに微笑み、頁を閉じる。
「人は、見た目で判断する。……それは、私も同じだ」
その言葉に、ニナの胸が小さく鳴った。
――見た目で、判断する。
彼の瞳には、遠い痛みが宿っていた。
(どうして、そんな表情を……?)
胸の奥が静かに締めつけられた。
しばしの沈黙のあと、ルイスは一冊の書を手に取り、ニナへ歩み寄る。
「これか? 外交記録の旧版だろう」
「あ……ありがとうございます」
差し出された本を受け取る。
指先がかすかに触れた瞬間、胸の鼓動が跳ねた。
ニナは思わず頁を開き、小さく呟く。
「……この条約文書、前年の議事録では“王都会議”と記されていたはずです。こちらでは“北方会議”に……」
ルイスの瞳が、一瞬だけ驚きに揺れた。
噂で聞いた“ユリアの侍女”の聡明さ――それが虚言ではないと、彼はこの瞬間に悟る。
「侍女にしては、ずいぶんと見識があるな」
「……王女殿下のためです」
「ふむ」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「それにしても、外交文書まで目を通すとは……君、本当に退屈していることはなさそうだな」
「退屈など……王女殿下のお役に立てるなら、それが何より楽しいのです」
「ふふ……“楽しむ”のが君の武器なら、王女も敵わないな」
ニナは思わず微笑み、頬を染めた。
その表情に、ルイスの胸の奥で何かが静かに揺れた。
***
図書館を出た瞬間、世界は灰色に染まっていた。
ざあっと、空が割れたように雨が降り出す。
石畳を叩く雨音、傘を求めて走る人々のざわめき。夏の夕立だ。
庇の下で立ちすくむニナの肩に、ひとつの影が差す。
「……まったく。タイミングが悪いな」
外套を広げ、ルイスが傘代わりに差し出していた。
厚手の布が彼女の肩を包み、濡れた髪がその胸元に触れる。
「殿下……」
「風邪をひかれると困る。ユリアが怒るだろうからな」
淡々とした声。
けれど外套越しに伝わる体温は、静かに彼女の心を震わせた。
二人は雨に濡れた石畳を歩く。
午後の光に反射した屋根や庭園の緑が、しっとりと輝く。
濡れた葉の雫が、歩くたびにかすかに光を散らす。
雨音だけが、二人の沈黙をやさしく包み込んでいた。
背の高いルイスは、ニナの歩幅に合わせて歩いていた。
微かに吹く風が湿った髪を揺らし、濡れた石畳の匂いを運ぶ。
「……綺麗」
思わず声が出たニナに、ルイスはちらりと目を向けるだけで、また前を向く。
だが、その眼差しは、冷たさはなく、柔らかく――。
その滲み出た優しさに胸が震えた。
(そんな顔をされるなんて……)
沈黙の中、互いの存在を確かめ合う時間が、静かに流れる。
言葉はいらない。隣にいるだけで不思議と温かい――そんな静かな距離感が二人を包んでいた。
庭園を抜け、噴水の水面に残る雨滴が光る。
二人の影は水面に揺れ、そっと寄り添うように長く伸びる。
王宮の門が近づく。
雲の隙間から差し込む金色の光が、濡れた石畳を柔らかく照らす。
夏の午後の終わり――それは、まだ名もない何かの始まりだった。
***
ニナを王女の居住棟まで送り届け、ルイスは静かに踵を返した。
夕立の名残を含む風が吹き、濡れた石畳が淡い光を返す。
そのとき、廊下の柱の陰から軽い足音が近づいた。
「殿下、少々お耳に入れておきたく」
現れたのは、保守派の中でも古くから発言力を保つ名門伯爵家の、若き嫡男。
その背後には取り巻きの令嬢たちが控えており、どうやら先ほどルイスとニナが並んで歩くのを見ていたらしい。
ざわり、と空気が微かにさざめく。
「……先ほどの黒髪の侍女。レイザルト侯の養女でございましょう?
三大貴族とはいえ、平民の血を引く娘。あれほど親しくされては……
他の令嬢方が心穏やかではないでしょう。何かと面倒が」
口調は丁寧、声音は柔らか。
だがその実、まるで“殿下のためを思って忠告している”という体裁を保ちながら、しっかりと人を見下していた。
ルイスの足が止まった。
「……平民の血、か」
「左様です。
やはり身分は守られねば。
どれほど立派そうに見えても、血が混じれば粗野さが滲むものです」
令嬢たちが小さく扇子を揺らしながら頷く。
──悪気がない。
だからこそ、たちが悪い。
ルイスはゆっくりと青年に視線を向けた。
瞳は凍てつくように静かだ。
「君は、地方の辺境領を巡察したことはあるか?」
「え? い、いえ。私は内政が得意でして。荒事は……」
「そうか」
一拍。
次の瞬間、空気がひやりと冷え込んだ。
「私は、何度も外に出た。
雨にも風にも晒されながら、家族を守るために働く人々を見てきた。
平民と貴族に、本質的な違いなどなかった」
青年が息を呑み、目を大きく見開く。
そして、周囲の令嬢たちも動揺して視線をそらす。
「で、殿下……?」
「身分は秩序を保つために存在する。
人を貶めるための道具ではない。
──忘れるな」
その瞬間、周囲の空気が震えた。
滅多に政治的な言葉を口にしない第二王子が、はっきりと保守派に刃を向けたのだ。
青年は一度言葉を失い、驚きのまなざしを残しつつも必死に体裁を保とうと背筋を伸ばした。
「……ご意見、深く胸に刻みます。 本日は、失礼を……」
そう言いながらも、顔色は青い。
令嬢たちに目で合図を送り、静かに立ち去る。
慌てたふうではなく、プライドを残したまま退く様子に、かえって冷たい余韻が残った。
ルイスはわずかに眉を寄せ、背中を見送った。
⸻
静寂。
濡れた風が彼の髪を揺らす。
外套から落ちた一滴の雨粒が、石畳に静かな輪を描いた。
(……外へ出れば分かる。
誇り高く、逞しい平民もいる。
怠慢で傲慢な貴族もいる。
もちろん、逆もまた然り――身分に関わらず、だ)
図書館で見たニナの聡明さが脳裏に浮かぶ。
“平民の血”などではなく、彼女自身の力であそこに立っていた。
(兄上をとりまく派閥は……
古い秩序に縛られている。しかし──)
ふと、濡れた外套の肩口に残った黒い髪が視界に触れる。
それは雨に濡れたニナの髪が、ほんの一瞬だけ寄り添うように触れていた名残だ。
ルイスはわずかに視線を伏せる。
胸の奥に、言葉にならぬ熱がひそやかに灯る。
(もし。
変えられる可能性が、私にあるのなら……)
ルイスの口元に、かすかな微笑が零れた。
夕闇の軒先から、雨上がりの光が差し込む。
石畳に映る淡い黄金のきらめきが、彼の横顔の一部を照らして瞬く。
──彼女との出会いが、その火を大きく育ててゆくことを、
この時のルイスはまだ知らなかった。
濡れた外套の重さだけが、静かにその予兆を告げていた。
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