第8話 夜の密会
「行ってらっしゃいませ、旦那様。行ってらっしゃいませ、坊ちゃま」
執事長の挨拶に続き、使用人たちが一斉に頭を下げる。
その光景は圧巻の一言だ。
実家の伯爵家よりも雇っている人数が多いのはもちろんのこと、動きが洗練されていて無駄がない。
「では留守は任せた。ウィリアンヌ嬢はいつも通り過ごし、困ったことがあれば妻を頼りなさい」
「はい。痛み入ります。ご当主様のご無事をお祈りいたします」
わたしのような者にまで気遣ってくださるユミゴール公爵様に深く頭を下げる。
公爵様は全ての使用人の顔と名前を覚えているほどの類を見ない人格者で、誰に対しても横暴な態度を取らないことで有名なお方だ。
この方の期待に応え、御子息であるケネス様の妻として恥ずかしくない女になることが目下の目標である。
「母上、行って参ります」
「気をつけて。お父様の仕事を見てしっかりと学びなさい。いずれはあなたのお役目になるのですからね」
「心得ています」
公爵夫人との挨拶を終えたケネス様がわたしの元へ。
何か言わないと。
今日から数日間は会えないのだから何か気の利いたことを。
「行ってくる」
「あっ、はい。い、行ってらっしゃいませ。ご無事で戻られる日を心待ちにしております」
全然ダメ。やり直したい。
なによ、この棒読み。
これじゃまるで、わたしがあらかじめ読み原稿を用意しておいたみたいじゃない。
視線は逸らさなかったけれど上手く気持ちが言葉に乗らない。考えれば考えるほどに発言が薄っぺらくなってしまう。
ケネス様は何を思ったのか神妙に頷き、踵を返された。
嫌われたかしら。
少なくとも好感度は下がったような気がするわ。
だって、わたしならわたしのような女は嫌だもの。
自分だけが相手《ケネス様》 の気持ちを知っているくせに、自分の気持ちを相手《ケネス様》 に伝えようとしない。そんな浅ましい女なんて願い下げだわ。
小さくなる馬車を見つめながらも反省会は続いた。
ケネス様のおっしゃる通り、まだ心の距離は離れているということね。
もっと上手に気持ちを伝えられると思っていたのに。
これがトラウマというものかしら。
その日はずっと憂鬱な気持ちで過ごした。
ふと気づくまでもなく、お屋敷は静かだ。
公爵様とケネス様がいらっしゃらないだけでこんなにも屋敷全体が変わるなんて、いかにあのお二人の存在が大きいのか痛感させられた。
夜はもっと静かだった。
理由は簡単でマジックアイテムが深夜0時を過ぎてもしゃべり出さなかったからだ。
鉄の棒を限界まで伸ばしても角度を変えてもまるでダメ。
「壊れたのかしら」
しばらく考えたわたしは一つの答えを導き出した。
ケネス様がお屋敷にいらっしゃらないからだ。
きっとそうに違いないわ。
これまで1日たりともしゃべらなかった日はないもの。
拍子抜けしてベッドに倒れ込む。
……拍子抜け?
待って、待って。
わたしがケネス様の心の声を聞くのを楽しみにしていたっていうの?
あの出立の時、何を考えていたのか知りたかっただけよ。
そうじゃないと次にお会いした時にどんな反応をすれば喜ばれるかが分からないもの。それ以上の他意はないつもりだった。
マジックアイテムと話さない夜はこんなにも暗く、静かで、怖いものだったかしら。
いいえ。わたしは思い出したのよ。夜の恐ろしさを――
マジックアイテムは一時的に孤独を忘れさせてくれていたにすぎない。
ケネス様が不在になったことで、わたしの心の問題は何も解決していないということに気づくことができた。
「……頼りすぎていたというわけね」
翌日もレッスンに身は入らず、教育者には叱られてばかりだった。
こんなことで精神状態に異常を来すなんて軟弱な心身ね。
いっそのこと滝にでも打たれてみようかしら。
今夜も一人、静かな夜を過ごすと思うと気分が落ち込んだ。
食欲が減退しているから食事は進まない。せっかく、わがままを言って料理を一口サイズにしてもらっているのに申し訳ないことこの上なかった。
湯浴みも着替えも済ませ、後は寝るだけ。
今日も小箱はお話ししてくれないから早々に眠ってしまおうと思ったのに、目が冴えてしまって一向に睡魔がやって来ない。
眠らなきゃ、と焦れば焦るほど寝付けないのだから人間の体とは不思議だわ。
このまま朝を迎えてしまうのかしら。
明日は庭園でお昼寝するのもいいかも、なんて考えているうちに眠気がやってきて、まどろみの中に落ちていけるような感覚――
が、一瞬にして覚醒した。
ジジ……ジジジ……ジジ……
布団をめくり上げ、小箱を掴む。
マジックアイテムが反応している。
つまり、ケネス様が近くにいらっしゃる。それとも本当に壊れた!?
確認する術は一つしか思い付かなかった。
わたしはナイトガウンを羽織り、静かに扉を開けた。顔だけ出して廊下を覗いてみる。
廊下にはひんやりとした空気が循環している。屋敷の中は昼間とは違う顔をしていて、わたしの不安心を煽ってきた。
お、お化けなんて出ないわよ。
意を決して部屋の外へ。
そして足音を立てないようにケネス様のお部屋の方向へ進んだ。
わたしが履いているスリッパの擦れる音だけが聞こえる。
こんな夜中なら起きているのは警備の方々だけかしら。
やっとのことでケネス様のお部屋に辿り着いたわたしはそっと扉に耳を近づけ、中の音が聞こえないか試した。
「……誰だ」
「ひっ」
背後からの声に飛び上がる。
まさか、泥棒!? それとも誘拐犯!?
窓から差し込む月明かりに照らされている金髪の美丈夫――ケネス様だった。
「ケネッ――」
しーっと片手でジェスチャーされてしまい、わたしは両手で口を抑えた。
「こんな時間に、こんな場所で何をしている」
ケネス様は廊下を見回し、ランプの灯りがこちらに近づいていることを確認された。
「とにかく、中へ。この状況を人に見られるのはマズい」
ケネス様に背中を押されて部屋の中へ押し込まれる。
あ、ちょっと待って。わたし、男性のお部屋に入るのは……初めてで、あっ。
踏み入ってしまった。
こんな日付が変わった夜に。
寝間着にナイトガウン、スリッパという薄着で。
髪を降ろし、メイクもしていない無防備な格好で。
恥ずかしい。消えてしまいたい。
「ウィリアンヌ、俺の部屋の前で何をしていた」
「あの、えっと、その。音が聞こえて。ケネス様がお戻りになられたのでは、と」
「それで来たというのか」
部屋の中には明かりが灯っていないからケネス様の表情は見えない。
きっと、ケネス様もわたしのことは見えていない。
だからこんなにも流暢にお話されているのだと思う。
ぺちんと音が聞こえた。
多分ケネス様が額を押えられた音だ。
きっと、はしたない女だと呆れられたでしょうね。
「部屋まで送ろう。もう遅いから早く休め」
「一つだけ! 一つだけ教えてください」
無言の圧で「なんだ?」と聞かれているのだと確信して続ける。
「どうしてケネス様はお屋敷に? お帰りは明日のはずでは!?」
「それは――っ。いいから部屋に戻れ」
わたしはケネス様に手を引かれ、見回りの兵に気づかれないようにお部屋まで送っていただいた。
◇◆◇◆◇◆
ジジ……ジジジ……
『そんなのウィリアンヌに"ご無事で戻られる日を心待ちにしております"と言われたからに決まっているだろう』