第5話 一歩前進
ユミゴール公爵家の朝は遅い。
それは公爵家の皆様の寝起きが悪いというわけではなく、食事の質が高く、量が多いことが主な理由だそうよ。
では昼食、夕食はどうだ、と問われれば実家の伯爵家と変わりない時間帯だ。
昼食、夕食と違って朝食の準備をコックたちに早朝からやらせるのは酷だというユミゴール公爵様のご配慮によってこういうしきたりになっているらしい。
さて、わたしの手元にはスープが配られたところだ。
立ちこめる湯気の中から濃厚なコーンの香りがする。
ケネス様の挙動を確認してから、スプーンへ手を伸ばす。
万が一にも旦那様より先に食事に手を付けないためだ。
ケネス様が一口召し上がってから、わたしもスープを口へ。
コーンの甘みが口の中いっぱいに広がり、懐かしさも相まって心まで温かくしてくれた。
今日も美味しい。
公爵家の食事は全てが超一流。その上、食材や調理器具、食器は地方領から仕入れ、還元してくださっている。
今日のスープに使われているコーンはわたしの地元で取れたものに違いない。この年齢まで毎日のように飲んできた馴染みのある味だった。
「昨日はすぐに寝たのか」
珍しいことがあるものね。
食事中に話しかけていただけるなんて。
ちらりとケネス様の方を盗み見る。
瞳を閉じて、一つ一つの料理を堪能するように口を動かしておられる。一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに逸らされてしまった。
いつも通りのケネス様に安心する。
あの魔法の箱に閉じ込められているわけではなかったのね。
愛らしく、お優しい小さなケネス様も好きだけど、やっぱりこちらのケネス様の方がケネス様らしいと思う。
「なんだ。俺の顔に何かついているのか?」
「あ、いえ」
不機嫌そうに見えるが、より深く観察すると困っているようにも見える。
あの小さなケネス様がおっしゃる通り、本当はただの口下手だけだったり……?
なんて考えながらもケネス様からの質問に答えた。
「昨日はあれから少し夜更かしをしてしまって」
「なにをしている」
ぴしゃりと。
重々しい、冷ややかな口調にダイニング内が静まり返る。
わたしもスプーンの動きを止めてしまった。
ケネス様は怒ったような、それでいて瞳の奥……本当に奥の方で心配してくださっているような、そんな読み取りにくい表情をしていた。
「今日は早く寝るんだ」
「は、はい」
それからは会話のない、いつも通りの淡々とした食事風景になった。
これでは料理の味も分かったものではない。
談笑しながらの朝食ならもっともっと美味しく感じるのでしょうね。
なんてことを考えながら、出され続ける料理の数々を横目にフォークとナイフを置いた。
ごめんなさい。こんなことを言いたくはないのだけれど。
毎日、毎日、とにかく量が多いですわ。
この量が女の体に入るはずがないと誰しも考えれば分かるはずなのに、どの料理もきっちり一人前が提供されてくるのだ。
違う、違うの。食べたい気持ちはあるのよ。
本当にもう入らないの。
残すのは料理の作り手にも、食材の作り手にも申し訳ないと思うわ。だけど、どうやっても入らないの。
わたしと同じ量を綺麗に平らげてしまうケネス様のお腹はどうなっているのかしら。
「なんだ、食べないのか」
「はい。もう十分です」
ケネス様は不満顔。
それはそうよね。だってほとんどの料理が手つかずで残されているのだもの。
厨房の方へごめんなさい、をしてからナプキンで口元を拭いた。
「どうだった?」
突然の問いかけには慣れたものだ。
同様にナプキンで丁寧に口元を拭ったケネス様は決まってわたしに、どの料理が一番美味しかった? という意味合いを隠し持った「どうだった?」という質問を投げかけてくる。
最初は戸惑ったけれど、今ではすぐに返答できるように考えながら食べているから問題はなかった。
「お魚のムニエルが好みでした」
「そうか」
それだけ言ってケネス様は立ち上がった。
すでに食後の紅茶を飲み終えてしまっているらしい。
わたしは片付けられる料理たちを尻目にティーカップを傾け、今日の予定を思い出す
あ、今日の屋敷教育の時間を伝えるの忘れちゃった。
◇◆◇◆◇◆
今日も寝ぼけ眼をこすりながら深夜を待つ。
途中、何度かうたた寝してしまったけれど、椅子に座っていたから熟睡することはなく、その時を迎えることができた。
ジジジ……ジジ……ジーー
ダイヤルを回し【ケネス=ユミゴール】にセットして、鉄の棒を伸ばす。
この棒はケネス様のお部屋の方角に向けると、よりお声がはっきり聞こえると気づいた。
『昨日の夜は夜更かししたと言っていたな。今日はもう寝ているだろうか』
「こんばんは、小さなケネス様。言いつけを守らないウィリアンヌをお許しください。どうしても小さなケネス様とお話ししたくて起きていました」
『少し顔色が良くなった気がする。寝不足は翌日の体調に影響を及ぼすというから、健康に気遣って早く寝て欲しいものだ』
今日も小さなケネス様はお優しい。
本物のケネス様は今頃は夢の中かしら。
『あぁ……また俺はウィリアンヌに酷いことを言ってしまった。だって、あんなに直視されては誰だって緊張するだろ』
だって、だなんて可愛らしい。
今日も始まった一人反省会に耳を傾ける。
ノイズ音の混じったケネス様の声は悲観的で、いつもの満ち溢れる自信を欠片も感じさせないものだ。
それから小一時間は反省と言い訳を繰り返し、明日は頑張って目を見て話そう、という結論に落ち着いたようだった。
「魔法の力で箱の中に閉じ込められた小さなケネス様が望むのなら、わたしも目を見てお話ししてみますね」
本物のケネス様にとっては不愉快かもしれないけれど、小さなケネス様の願いを叶えられるのなら挑んでみよう。
『今日は魚料理が気に入ったと言っていたな』
そんな言葉の後ろで何か雑音が聞こえた。
声の聞こえる穴に耳を近づけて音の正体を探ってみる。
どこかで聞いたことのある、馴染みのある音。
ふと視線を書斎机に向けると羽根ペンが目に入った。
「……何かを書いてらっしゃるの?」
きっと紙にペンを走らせている音だ。
つまりメモを取っておられる。
なにを、って?
それはもちろん……わたしの食の好み、を。
自分で言っていて恥ずかしいわ。
耳の先端まで熱を帯びているのが分かる。
今はランプの灯りはなく、窓から差し込む月明かりだけが頼りの闇夜だから良かったものの、これが昼間だったならわたしは部屋から一歩も出ることはできなかったでしょう。
『昨日の朝はエッグベネディクト、おとといはクロワッサン、その前は――』
ペラペラと紙をめくる音も聞こえる。
つまり、ケネス様はわたしの好みを全てノートに記されているということだ。
一気に気恥ずかしさが込み上げ、思わず両頬を覆ってしまった。
ひんやりとした手のひらが頬の熱を奪ってくれるような、そんな温度差があった。
『どう考えても朝食は多い。それは重々、承知しているんだ。許してくれ、ウィリアンヌ。でも、せっかく伯爵領から出てきたのだ。美味しいものをいっぱい知って、食べて欲しいと思うことはいけないことなのだろうか。いや、いけなくない。いけないはずがない!』
お気持ちは嬉しいですが、それは無理難題と言いますか……。
いいえ。諦めてはダメ。ねじ込むのよ、ウィリアンヌ。
ケネス様のお気持ちを聞いてしまった以上、やり遂げるのがあなたの義務よ。
翌日の朝食時、わたしはケネス様と料理長に一つ提案を願い出た。
考え抜いた苦肉の策だ。
「全ての料理を一口サイズにしていただくことは可能でしょうか」
わたしの提案にお二人とも目を丸くされた。
特にケネス様はわずかに、本当にわずかに眉と鼻が動いた気がする。
「一口サイズであれば全ての料理を食べることができる、と思います。いいえ、食べます。食べられます。食べたいのです! なので、どうかお願いできないでしょうか」
料理長が困ったように目配せすると、ケネス様は切れ長の瞳をわたしに向けてくださった。
わたしも小さなケネス様とのお約束があるからじっと見つめ返す。
数秒と経たない短い時間――
先に音を上げたのはケネス様だった。
わたしから逸らした瞳で料理長を見て小さく頷かれる。
料理長は満面の笑顔で「もちろんでございます」と言ってくれた。