私の隣の君
はじめまして、もしくはお久しぶりです。
篠陽と申します。
拙い文章ではありますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
私には好きな子がいる。
同じ高校の同じクラスの、私の隣の席に座る少し猫背で眼鏡をかけた男の子。
彼を好きになったきっかけはなんだったんだろう。
初めて彼を見たのは、高校の入学式。彼は新入生代表だった。彼は足を震えさせ、唇は真っ青になりながら、一歩一歩壇上に上がっていった。そうして始まった彼の祝辞はお世辞にも順調とは言えなかった。結構な頻度で噛むものだから聞き取りづらいし、文章がまるまる飛んでいるであろう所もあった。
みんなが憐れみと心配の目を彼に向ける。話なんて誰ももう聞いていなかった。どこからともなくひそひそと話し声が聞こえる。汗でびっしょりの手で、原稿をシワだらけにしている彼は、今にも倒れるんじゃないかと思った。けれどそれでも、かっこ悪くてみっともなくとも、涙を流さず、投げ出さず、話し終わった後、もう誰も聞いていないだろうに「ありがとうございました」と綺麗な礼をした彼を、私はほんの少しだけかっこいいと思った。
それからというもの、私は彼を少しだけ目を追うようになった。運良く私と彼は同じクラスで、しかも隣の席だった。
彼はすごい。隣になって一年間、彼はいつもテストでクラス1位だった。先生から100点の答案を受けとる彼はいつも飄々としているが、席に座ると誰にも見られないように下を向いて少しにやける。そして、間違った問題があると少し下唇を噛む。隣の私にしか見えないだろう彼が可愛くて、見たくて、気がつけば私はテストを楽しみにしていた。
彼は優しい。彼はお人好しで誰かに頼まれると断れない人だ。いつも頼まれると、少し困ったように眉を顰めながらはにかんで「いいよ」と言うのだ。そして、彼はそれらの頼み事を完璧に対処して出来てしまう。分からないと言われれば、分かるまで教えてあげ、掃除当番を変わって欲しいと言われれば、誰よりも真面目に掃除をする。だから、休み時間になると彼の席は大人気になる。この前はありがとう。ごめんこれお願いできない?そんな言葉ばかりが隣の席から聞こえてくる。それらを聞くごとに私はイライラした。
私にはなんで、彼が誰彼構わず助けるかが分からなかった。みんなを助けていれば、みんな助けられることを当たり前と思うようになる。そうすれば、みんな何のためらいもなく彼を頼るようになる。頼む時の「ごめん」と、助けてもらった後の「ありがとう」は、ベイマックスの「痛い」と「もう大丈夫だよ」と同じ、ただの起動と終了の記号に成り下がる。それは絶対良いことじゃない。人の優しさを当たり前に享受する人もいけないと思うけど、それを助長する彼にも問題がある。
現に彼の周りには、自覚があるかは知らないが彼に依存してる人ばかりになってしまっている。あれでは彼は助けてくれる人であって、友達と言えない。みんな、彼を助けが欲しい時しか見ない。
一度、彼が筆箱を忘れたことがあった。誰もそれに気がつかなかった。彼は一人俯いていた。普段助けている人に助けて貰えばいいじゃないか、なんて思って気がついた。
いつも助けてばかりで、なんでも自分で出来てしまう彼はきっと助けを求める方法を知らないのだ。
その時、私は絶対に彼に頼らないことにしようと決めた。彼が困った時、私が助けられるように。私は彼と対等でありたかった。優しくて、強い彼を支えてあげたかった。
でもそれは即ち、告白できない事を示していた。告白も一種の頼み事だ。私を好きになってください、付き合ってください。彼はきっとその瞳の奥に不安と苦しみを隠しながら、笑ってOKしてくれてしまうだろう。私は彼にそんな顔をさせたくなかった。
せっかく一年間も隣の席だったのに、結局私が彼と話したのはほんの数回だった。そしてそんな怠惰な私に神様はもう一度チャンスをくれるわけなんてなかった。
私が高校2年に上がった時、私のクラス名簿に彼の名前はなかった。
それからというもの、廊下で彼を見かけることがあっても、話すことはおろか挨拶を交わすことさえなくなった。元々挨拶を交わす程度の仲だったのだ。当たり前と言えば当たり前の話である。夏休みを明けた頃から彼を見かけることはさらに少なくなっていった。
そして10月、私が彼を学校で見かけることはなくなった。風の噂で彼は学校に来なくなったのだと聞いた。私は俄かに信じられなくて、昼休み、彼の教室に向かった。自分の意思で彼の元に行くのは初めてのことだった。
ドアから覗くと彼の教室は昼休みとあって、まばらに人がいるだけだった。その中に彼はいなかった。きっと図書館とかグラウンドにいるんだろう。そう自分に言い聞かせる。放課後にまた来ようと振り返ると、ちょうど教室に入ろうとした人とぶつかってしまう。
「「ごめん」なさい」
お互いの声が重なる。気まずい沈黙が二人の間にあった。よく見ると去年の同じクラスだった男子だった。隣の席に来ていたのを何回か見たことがあった。
「久しぶり!うちのクラスになんか用?」
いい機会だと思った私は彼のことを聞いてみることにした。
「.....っている?」
彼は首を傾げて私越しにクラスへ大きな声で尋ねた。
「あいつって今日来てる?」
クラスのみんなが私の方を向く。
「知らなーい」
「多分いないと思うよ」
「今日もいないよ」
はっきりした事を言ってくれたのは彼の席の周りの人だけで、残りはみんな知らなかった。知らないと答えた人の中に、隣の席で見たことのある顔もちらほらあることに気がついた私は愕然とした。
それからの事を私はあまり覚えていない。気がつけば私はパジャマに着替え、ベッドに寝転び、天井を見上げていた。ずっと頭の中をぐるぐると同じ考えが回っている。
なんで彼は学校に来なくなったのだろう。もしかしたら彼は困っていたのかもしれない。もしかしたら私なら気がつけたかもしれない。私がもっと話しかけにいけば、仲良くなれば、きっと...。
対等でありたい。助けになりたいなどと言いながら、結局はこの様だ。いくら理由を並べようと私は、恥ずかしくて好きな人に話しかけられないただの弱虫で、彼を一人ぼっちにしたみんなの一人に過ぎないんだ。
あの時、声をあげていれば。あの時、話しかけていれば。後悔ばかりで天井が滲む。どれだけ考えても、悩んでも、過ぎた事を変えることなど出来るわけはなくて、結果、真っ赤になった目をこすりながら私は朝日を見た。
時計を見れば時刻は6:00を回っていた。今寝てしまえば遅刻は免れないだろう。彼の事を考えていて遅刻なんて彼を悪者にしてしまうようで、嫌だった。冷たい水でグジャグジャになった顔を洗う。
いつもは7:00過ぎまで意地でも起きない私が、急に起きてきたことに母は驚いていたが、何も聞かずコーヒーとトーストを出してくれた。母と二人、静かに食べる。
なんとなく家にいるのも嫌で、早めに家を出ることにした。母には日直の仕事と言った。母は少し悲しそうな、心配するような顔をして、早く帰ってきなね、と送り出してくれた。
家を出ると秋の風が目に沁みる。周りにはまだ早いからか誰もいなかった。学校に行ってもやる事もないので、遠回りして行くことにした。
いつもと違う街並み、違う空気、私はこの街にもう何年も住んでいるはずなのに、そこは知らない街のようだった。
歩いていると遠くに見覚えのある制服が見えた。少し丸まった背中が見える。
私は走り出していた。神様は私にもう一度だけチャンスをくれたみたいだ。
走る。走る。
彼の背中が次第に大きくなっていき、もう少しで声が届く、そう思った時、私は立ち止まってしまった。
学校に行くわけでもないのに制服を着る彼に、ただの元クラスメイトが話しかけてもいいのだろうか。傷つけてはしまわないだろうか。拒絶されないだろうか。そう思うと声が出なかった。
彼がまた遠くなっていく。追いつくのも怖いけど、それ以上に見失ったらもうチャンスはない気がして、彼のはるか後ろを、今度は歩き始めた。
彼は学校の前を通り過ぎて、学校の裏にある山に入って行った。百段にも及ぶ階段を登らないといけないその山は普段は誰も寄りつかない。彼はどんどんとその階段を登って行った。彼は慣れた動作で素早い動きで上がるものだから、私は置いて行かれてしまった。
私がやっとのこと、階段を登り切った時には彼は階段すぐに設置されているベンチにいた。立ち止まった私と、座った彼の目が合う。
「久しぶり」
彼の声を久しぶりに聞いた。それだけで、私は泣きそうになった。
「久しぶり」
そう言う私の声は震えていた。うまく笑えない。次に何を言われるかが怖い。
「声震えてるけど大丈夫?」
私に聞きたいこと、恨み言はいっぱいあっただろう。なんでついてきたのか、放っておいてくれ。そんなセリフを予想していた。でもやっぱり彼は優しかった。その優しさが、甘くて、苦くて、下を向いて顔を歪める。
「ごめんなさい」
やっとのこと絞り出たのは謝罪の言葉だった。自分でも何に謝っているのかなんて分からない。でも謝らなきゃいけないってそう思った。
彼が近づいてくる気配を感じる。彼は私の手を引いてベンチに連れて行った。
二人隣同士で座る。
「大丈夫?」
彼は俯いたままの私を心配そうに見ている。私は小さくうなづいた。
「そっか」
そう言って彼は空を見上げた。彼はきっと私の泣き顔をできるだけ見ないようにしてくれているのだろう。
私も続いて空を見る。二人、穏やかな静かさの中、青空を見上げ続けていた。
どのぐらいそうしていただろうか。とっくに私の涙は止まっていた。遠くからチャイムが聞こえてくる。
「学校始まっちゃったよ、僕のことはいいから。早く行きな」
彼は私の方を向いて微笑んでそう言った。
「君は行かないの?」
私は彼を横目に見ながらそう言った。まだまっすぐ向き合う勇気はなかった。
「行かないよ」
「なんで?」
「なんでだろう」
「真面目に聞いてるんだけど」
「僕だって真面目だよ」
「じゃあ教えてよ」
「ごめん、無理」
「私だから無理なの?」
「君だけじゃない、誰にだって無理なんだ」
淡々と会話が進む。いつまで経っても煮え切らない彼に私は少しずつ苛立っていた。
「なんで?何で無理なの?」
「なんでだろう」
「ねぇ、答える気ある?」
「あるよ」
「なら答えてよ」
「ごめん」
「謝って欲しいんじゃない、
ただあなたのことが知りたいだけ」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ」
「なら教えてよ!」
私は彼の目を見て叫んでいた。一度吐き出された言葉はもう止まらない。
「嫌なら嫌って言ってよ。嫌いなら嫌いって言って。どっか行って欲しいならいなくなるよ。でも、もしあなたの隣にもう少しだけでもいていいって言うなら教えて欲しい。あなたがなんで困ってて、なんでここにいるのか。私はどうしたらあなたに近づけるのか。あなたのために何かできるのか。」
やってしまった。彼はギョッとした顔で私を見ていた。後悔が溢れ出す。そんな時なのに、私は初めて彼と向き合った気がした。
「ごめんなさい。あなたを責めるつもりはなかったの。あなたが学校に来てないって昨日聞いて。去年一年間も隣だったのに、私何も知らなくて。何か出来たんじゃないかって、出来るんじゃないかって。それでこんな所まで着いてきちゃって、ほんとごめんなさい」
彼に向けて頭を下げる。
「謝らないで。顔あげて。こっちこそちゃんと答えられなくてごめん。ただ本当に分からないんだ。なんで学校に行かないのか、何に困ってるのか、ちゃんとした答えがなくて、自分でも分かってないんだ」
顔を上げると彼の目は入学式の時と同じように、瞳を揺らしていた。
「どういうこと?」
私なら分からなかった。でも彼が真剣に答えようとしてくれているのだけは分かった。
「僕の話を少し聞いてくれる?」
そう言って彼は空を向いて話し始めた。
「僕はさ、医者一族の一人っ子として生まれたんだ。小さい頃から人のために生きなさい、人を助けなさいって言われて生きてきた。両親は僕にすごい期待を寄せてくれてて、僕はその期待に答えられるのが何より嬉しかった。
でもそんなに僕は優秀じゃなかった。中学受験に失敗して、地元の公立に行くことになったんだ。その時から両親が僕に期待することは無くなった。それまで厳しかった二人はいきなり優しく、心配ばかりをしてくれるようになった。でも、これまで期待ばかりされて、求められてきた僕には受け入れられなかった。
僕は弱い。周りの人に嫌われるのが怖くて、失望されたくなくて、いいえを言うことができないし、ここぞと言う場面で緊張しちゃう。みんな僕を頭が良いと言うけど、僕は本来もっと頭の良い学校に行く学力はあったんだ塾の中でもトップクラスだったし、先生も落ちるはずもないって言ってくれた。やっとまた親が期待してくれる。そう思った。でもテストの日、僕は熱を出した。受けられなければ、合否なんて最初から存在しない。病院に行ったら心因性って言われたよ。僕は期待に応えられるだけの能力も心もなかったんだ。
なのに結局高校に入っても僕は生き方を変えられなかった。周りに頼られて必死にそれに応えて、自分を維持する。そんな毎日だった。
ある日さ、筆箱を忘れた事があったんだ。ロッカーの中に鉛筆だけはあったんだけど、消しゴムがどうしてもなくて。周りに借りようとも思ったんだ。でも失望されるかも、そう思うと言えなかった。
そしたらさ、隣の席の子が消しゴムを貸してくれたんだ。その子はいつも僕の事を睨んでばかりだから、嫌われてると思ってた。
それから時々、その子を目で追うようになった。その子は少ない友達を大事にしてて、いつも楽しそうにしてる。
その子は強い。自分の意見をはっきり持ってて、でもそれを人に押し付けることはなくて、いつも周りを気遣ってる。その子の友達もみんなそういう子ばかりでお互いがお互いを見てて、すぐに「大丈夫?」って言うんだ。それを見てて、僕の周りにはそんな友達はいるのかなって思った。僕がいなくなっても誰も気が付かないんじゃないか、心配してくれないんじゃないかって不安になった。それなら僕は何をやっているんだろう。何をやってきたんだろうって。
段々と学校が怖くなっちゃってさ、少しずつ行かなくなっていった。そしたらどんどん人に頼られることもなくなってって、気がつけば毎日ここに来るようになってた。制服を着てるのは、ただ制服まで着なくなっちゃったら戻れなくなりそうって勝手に思ってるだけなんだ。
かっこ悪くてごめん。長く聞いてくれてありがとうね。初めて人に話せた気がするよ。でも大丈夫?また泣かせちゃった」
「え?」
彼に言われて気がついた。私の頰は濡れていた。なんで泣いているのか私には咄嗟には分からなかった。彼を憐れんでいるわけではなかった。悲しいわけでもなかった。ただ悔しかった。
「ううん。大丈夫。あなたは何も悪くないの。ただかっこいいなって」
「え?」
今度は彼が聞き返す番だった。
「だってさ、私があなたの立場だったら絶対周りのせいにしてたと思う。お前らのせいだって。私のせいじゃないって。でも、あなたは決して周りを責めなかった。それってすごいことだと思う。もしかしたらあなたは今のあなたのことが嫌いなのかもしれない。でも私はあなたのことが好きだよ。あなたのその優しさが、強さが、弱さがかっこいいと、私は思うから」
やっと言えた。
彼は口を固く閉じて、膝の上で手をぎゅっと握っていた。
「ごめん、それを聞いても僕は僕を嫌いだよ」
「うん。それで今はいいよ。私だって私のこと好きじゃないし。でも知っていて欲しかった。あなたのことを好きな人がいる事を。それにね、私はこれから先、あなたに勝手に期待すると思う。それで勝手に失望すると思う。でもね、その度にまた期待するよ。それをちゃんと言葉で、態度で伝えていくから、だから安心して」
「なにそれ」
君は笑い出した。その幼い子供のような笑顔に私もつられて笑い出す。
ベンチから立ち上がって、君の前で、君に向けて手を差し出す。
「だからさ、私と友達になってよ」
「喜んで」
君は私の手を取って立ち上がった。
二人隣同士、青空の下、階段を降りる。
もうすぐ冬だというのに、やけに暖かい昼だった。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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