91.準備と緊張、夏の始まりと戸惑い
家に着いた。
母さんは仕事。 久実も学校か。
終業式だろうから、もうすぐ帰ってくるのかな。
バックから通知表を取り出し、机の上に置く。
キッチンへ行き、冷凍チャーハンをチンして、牛乳と一緒に食べた。
そのまま部活へ向かう。
…暑すぎる。
もう日傘を買ってもらおう。 真昼間を歩くのは危険かもしれない。
水筒で水分補給しながら、学校へ向かう。
音楽室に入ると、黒沢を含め、明日の花火メンバーがすでに集まっていた。
「鈴木ー!」
呼ばれたほうへ近づき、座る。
「鈴木さ、何かゲームとか持ってる?」
「ん?スマホの?それともSwitch?」
「できればSwitchのほう。ちょっと早めに集まって、 花火が始まるまで一緒にやろうよ。」
「いいね!何やるの?」
「みんなが何持ってるのか聞いてさ、 それぞれ違ってたら、体験会みたいなのやってみない?」
「壊れたら大変だから、貸し借りはなしで、 持ってる人がいたら対戦したり、 協力プレイができるものなら一緒にやったり。」
「おお、平和だな。」
「だろ?貸し借りとか、壊れるとかで揉めるのは嫌じゃん?
でも、自分は持ってないけど、どんなゲームか気になったり、 協力プレイができるなら、試してみたいって思うし。」
みんなで一斉に話し始める。
「スプラトゥーンあるよ。」
「スマブラ!」
「どうぶつの森、ちょっと前だけど。」
「藤井聡太の将棋のやつ。」
「ピクミン!」
「太鼓の達人いいぞ。」
「ポケモン スカーレット・バイオレット。」
「ぷよぷよテトリス。」
「みんなバラバラだな。
こうなったら、学校でやってるビブリオバトルみたいに、 ゲームの紹介をしようぜ。」
「それ、ちょっと面白そう。」
「本だとだるいけど、ゲームなら楽しい。」
「俺、Switch Liteなんだ。」
「俺も。」
「あればいいよ。」
みんなでゲームと弁当を持ち寄って遊ぶことになった。
ちょっと楽しみになってきた。 たまには、こういう時間もあるんだな。
そんなふうに盛り上がっていると、内田先生が入ってきた。
後ろから、20代後半から30代前半ぐらいの男性が1人。 さらに、その後ろに男性が2人。
山田先輩の号令で挨拶をし、座る。
内田先生が話し始めた。
「おのれら、譜面は一通り読んできているな?
自分のパートだけでなく、全パートだ。
先日、課題として出した。 時間は十分にあったので、当然できていると思う。」
花火メンバー5人、顔を見合わせる。
…一斉に下を向く。
俺だけじゃなかったか。
安心したものの…これはまずいか?
「それを前提に、今後の練習を進める。
こちらの方は ステージセッティングの技術 を持っている。
指揮台から椅子の位置、向き、譜面台の高さ、椅子や楽器の距離まで、 音響を総合的に考えて配置するプロだ。
その置き方で、音楽の響きは全く変わる。」
海外の有名オーケストラでは、こうした専門家が常駐し、 奏者が勝手に配置を変えられないほど 尊重される仕事 らしい。
「こちらの方は、個人の情報、例えば 身長、座高、視力 を考慮し、 最強の音響を作り出すためのセッティングをする。」
今日は 身長、座高、視力測定 を行う。 データ収集後、分析し、それを実証実験する。
場所は 体育館 。
本番と同じサイズのステージとして 体育館を使用する 。
さらに、本番で使用する 譜面台と椅子 を企業が用意してくれたため、 それを運搬する作業も兼ねるとのこと。
…色々意味が分からなさすぎて、 わからないところがわからない。
ステージって、体育館のステージに上がるの?
それで音響がわかる??
本番と同じ大きさの椅子と譜面台??
他のメンバーを見ると、たぶん俺と同じような感情だろうなと思った。
だよな、わからないよな…。
内田先生は、ステージセッティングの担当者を紹介する。
「ステージセッティングを専門とする会社の社長、千葉さん。挨拶!」
山田先輩の 「起立!礼!」 の声。
「よろしくお願いします!」 と部員全員で挨拶。
千葉さんが話し始めた。
「千葉と申します。
ステージセッティングの コンサルティング会社 を経営しています。
譜面台は 譜面を見るためだけでなく 、 使い方次第で 音響の味方 になる。
ステージとの相性、楽器のベルの向き、指揮との関係、曲の特性、 ホールの設備など、微妙な調整が音楽を大きく変える。
データを集め、AIを活用して最適解を提供します。
今年こそ全国大会へ行けるよう応援します!」
と笑顔で語った。
社長…?
大学を卒業したばかりの若手社会人で、 内田先生の教え子なのかと思っていたけれど、 全然違った。
後ろには、同じくらいの年齢の男性が1人と、 40代くらいの男性が2人。
千葉さんが話し始める。
「後ろにいる2人も吹奏楽経験があり、音大出身です。
その経験と知識を活かし、コンクールで結果を出したい学生を応援するため、 今はステージセッティング専門のAIエンジニアとして、 また会社の経営をしています。
本日は3名で、データ収集、分析、実装、実験、検証 を一気に進めます。
どうぞよろしくお願いします。」
そう言って、頭を下げた。
後ろの2人も、お辞儀をする。
部員は声を揃えて、
「よろしくお願いいたします!」
と挨拶した。
吹奏楽部出身ということ以外、話がまったく理解できなかった。
内田先生が指示を出す。
「これからパートごとに、身長、座高、視力を測る。
測定が終わったら、校門前に止まっているトラックから、 椅子と譜面台を体育館の中央へ運ぶ。
すでに舞台サイズのテープの目印 を貼ってある。
椅子と譜面台を並べ終わったら、打楽器を運搬し、 その後、譜面と譜面台を持って行くように。」
部員は「はい!」と返事をした。
俺は急いでスコアを取り出す。
他のメンバーもスコアを開く。
「マジか…。聞いてたけど、こんな展開になるなら 先に言っておいてくれれば…。」
「ほんとそれ。 次これやるよ、って言ってくれたら、せめてヤマかけて聞いておくのに…。」
「ヤマかけってテストの感覚じゃん。」
「だから気が重かったのかぁ…。」
すべての言葉に うんうん とうなずいてしまった。 ほんと、それだよ。
さっきの社長たち3人は、機械とパソコンをセッティングしていた。
眼科にあるような視力測定器 、 身長と座高を測る椅子。
測定データが自動でPCへ送信される仕組みのようだ。
消毒が必要なため、1人約1分前後 の時間がかかる。
…ということは、スコアが見られるのでは…?
タブレットを出して、音を小さくして音源を再生し、スコアを見る。
気づくと、近くのメンバーも同じことをしていた。
…だよな。こんな展開、予想してなかったし。
と思っていた矢先、内田先生の声が響く。
「終わったものから、椅子と譜面台をセッティング!
まだ呼ばれないパートは打楽器を廊下に出せ!
今スコアを読んでる場合じゃない!」
俺らのことだ。
慌ててタブレットとスコアをバッグにしまい、 音楽室の隅へ寄せる。
測定は スコアの上から順番 に進められていく。
呼ばれて、その場へ行く。
身長測定。
頭の上に こん と測定器が乗せられると、ピッ という音が鳴った。
「OK。」
隣の座高測定器に座ると、同じように測定が完了する。
次は視力検査。
機械をのぞくと、空の映像が映し出される。
それを見ている様子で、視力や遠視、乱視の判定 が自動で行われるらしい。
社長さんがPCの画面を確認し、「OK」と言うと、 隣にいた内田先生が指示を出す。
「打楽器運搬へ回れ。」
打楽器パートの人たちと、ティンパニやスネア、木琴類を運び出そうとする。
しかし—。
「あー!そこ持たないで!」
打楽器の先輩に注意され、驚く。
「そこ、持っちゃうと、音程が狂いやすくなるんだ。
持ちにくいけど、ここを持って。
当日は 軍手 持ってきてくれる?」
早口で指示された。
「はい!」
返事をして、言われた位置を持つ。
…重すぎる。
ティンパニ1つで 3人がかり になった。
ただ運ぶだけじゃなく、持ってはいけない場所 がある。
さらには 分解して運ぶ ものまであるらしい。
もうすでに 頭がいっぱいいっぱい だった。
音楽室から玄関を通り、校門前へ。
トラックが止まっていた。
ここから、譜面台と椅子 を出す。
普段使っているものとは違い、やたらと重い 。
これが 舞台で使うもの なのか…?
何度も往復して、体育館へ運ぶ。
体育館に入ると、中央に 大きなビニールシート が張られていた。
もしかして ここが舞台 なのか…?
ステージの上に上がるんじゃなくて、コートをステージに見立ててる ってこと?
舞台って、こんな広いの?
…そういえば、小学校のオーケストラ教室も、 大きなステージだったけれど…。
こんなに広かったっけ?
呆然と立ち尽くしていると、内田先生の声が響く。
「次!打楽器運搬!」
さっき音楽室から廊下に出した楽器を、 今度は体育館まで運ばなくてはならないのか…。
練習前に、もう疲れてるんだけど…。
なんて言えない。
先輩たちは キビキビと動いている 。
あわてて楽器を持ち、運搬にかかる。
女性の先輩は ティンパニをすいすいと運んでいる 。
階段も 余裕 で上っている。
俺は 男3人 なのに、 絶対落としてはならない というプレッシャーで、 トロトロと動いているように見えたと思う。
やっとの思いで 階段を越え、体育館へ運び込む 。
そこへ PCを持った社長と社員2人 が現れる。
画面を見ながら、譜面台の高さ、位置、角度を調整し、 写真を撮って、また調整する作業を繰り返している。
内田先生の指示が飛ぶ。
「各々、音楽室で チューニング後 、 楽器と楽譜、つば抜き用タオルだけ持って、ここへ集合。
10分以内!」
内田先生の指示が飛び、部員たちは「はい!」と返事をし、 急ぎ足で音楽室へ戻る。
楽器を取り出し、音出しもそこそこに済ませ、 チューナーで B♭の音だけ を合わせる。
譜面と楽器を手にし、体育館へ向かった。
体育館の中央は、すでに きれいにセッティングされたステージ に変わっていた。
椅子や譜面台が整然と並び、打楽器も配置されている。
その瞬間、 独特の緊張感が襲ってくる。
ただの練習じゃない。 これは、コンクール本番を想定した環境 なのだ。
空気が違う。
立っているだけなのに、全身がこわばる。
吐き気がこみ上げそうになる。
…もう、吐きたくない。