87.不安と喪失/進める
少し音を出してチューニングした後、譜面を眺める。
ホルン2人じゃ足りないことくらい、入ったばかりの俺でもわかる。
かといって、今からどこかのパートからホルンに移動させるのか?
OBの駒井先輩は、高校の吹奏楽部でサックス希望だったのに、トロンボーンへ変更されたことで即退部したと聞いた。
みんな、それぞれに楽器への思い入れがあるんだろう。
だから、1年生が複数いるパートでも誰ひとり選ばなかった。
俺にとっては好都合だった。
入りやすかったし、受け入れてもらいやすかった。
でも、のぞみ先輩がいなくなった今、プレッシャーがのしかかる。
のぞみ先輩の音がないことで、大きさを実感する。
しかし、俺の今の力じゃ、とてもじゃないけどカバーできない…。
もっと実力が欲しい。
「おい。」
白川先輩だった。
「さっき内田先生が来て、高橋が家庭の事情で出られなくなったから、 音が足りなくなった分、サックスパートでテナーを増やす。
それに加えて、アルトの1人が一部の箇所を吹く。
だから心配するな。
今日の合奏ではホルン2人で演奏し、その後、足りない部分を補う調整をする。」
絵馬先輩は即座に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
俺は意味がわからなかった。
白川先輩はそれを察したようで、ゆっくり説明してくれた。
「鈴木、今日はできるだけやってみろ。
その上で、サックスは足りないところを『音』で協力する。」
「あ、ありがとうございます…。」
のぞみ先輩の分を吹いてくれるという意味は分かったけれど、 音や楽器の違いはどうするんだ?
いいのか、そんなことで?
…あ、内田先生がいいって言ったのか。
対応が早いな…。
「私も。」
後ろから声がした。
振り向くと、2人の女性の先輩だった。
ちらっと上履きを見る。
3年生と2年生。
3年の先輩が話し始める。
「白川と話は同じだけど、のぞみちゃんが家庭の事情で コンクールに出られなくなったって聞いたの。
トランペットの2nd担当が持ち替えでフリューゲルホルンを吹くから、 明日、一緒に練習しよう。
今日はそのための合奏をやるって。
どう頑張っても無理って思うかもしれないけど、 後ろからも左からも協力して入るからね。」
そこへ船田先輩と山田先輩も来た。
船田先輩は落ち着いた様子で話す。
「どうしても音が足りない場合、クラリネット3rdも 一部のパートを吹くことになってる。
分担という意味もあるけど、響きを出したい、厚みを持たせたいと思ったら もっと大胆に変更することもあるかもしれない。」
そう言って、俺と絵馬先輩を見つめる。
「まあ、不安はあるだろうけど、大丈夫。 余計な力や不安は抜いていこう。
特に藤村さん。どうしようもないことはどうしようもないんだから。 頼ることも大事だよ。」
左を見ると、絵馬先輩の目が潤んでいた。
そうだよな…。
いきなり先輩がいなくなり、1stになり、3年の先輩がパートリーダー。
1人だけ2年生で、突然こんな状況に放り込まれるなんて…。
不安にならないはずがない。
プレッシャーがないはずがない。
しかも、短い時間で…。
俺は自分のことを「考えているつもり」になっていただけだった。
一番理解しなきゃいけないのは、絵馬先輩の立場だったんじゃないか?
なんとなくだけど、少しずつ状況が飲み込めてきた気がする。
内田先生が入ってきた。
指揮台に上がる。
「先に一部のメンバーには話したが、高橋が家庭の事情で 引っ越すことになり、コンクールには出られなくなった。
そのため、ホルンの音が弱くなっている。
楽器の持ち替えや演奏箇所の変更があるかもしれないが、対応してほしい。」
部員は「はい」と返事をした。
今日は基礎合奏から指揮を振るらしい。
多分、先生はもう切り替えようとしている。
「基礎合奏、8ページ、全員フォルテ。」
「はい!」
譜面を追いつつ、内田先生を見る。
先生は、全員を1人1人見ているようだった。
急に目が合ってしまい、俺は慌てて譜面に目を戻した。
…やばい…。
いつも船田先輩や山田先輩がやることを 内田先生がやるだけで、こんなに緊張するとは…。
これだけで、今日の練習は終わりそうなほどの集中力を使ってしまった。
でも、本当の練習はここから。
「次、自由曲。」
基礎合奏のページを閉じ、自由曲の譜面を開く。