85.失われる音、残される旋律
絵馬先輩と2人でパート練習の教室に入った。
俺は気になって尋ねた。
「内田先生のいきなり『アルヴァマー』って、よくあることなんですか?
去年のコンクール前とかも、あんな感じでした?」
絵馬先輩は少し笑って答えた。
「うん、あるある。
どこの学校でも似たようなことはあるみたいだよ。
コンクールの曲で行き詰まった時の突破口というか、箸休めというか…。
初心を思い出す時間みたいなものかな。」
「そうなんですね…。びっくりしました。
『コンクールの曲だけを練習しろ!』って言ってましたよね?」
「まあ、集中しろってことだろうね。
ただ、今日のはちょっと驚いた。
去年なんか、超キレまくって、途中で合奏を放り投げて、 夕方まで帰ってこなかったこともあったし。」
「えー!?これからの練習でも、あるんじゃないですか?」
「なんか…様子が違うんだよな…。
『同じスタートラインに立つ』とか『仲間』とか。 去年までの内田先生の立場では、そんなワードは全く出てこなかった。
どっちかっていうと、威厳とかカリスマとか統率、 そういうイメージだったからなあ…。」
「保護者からのクレームとか?」
「それはない!内田先生、保護者からの評判、すさまじく良いから!
見たことない話し方と笑顔で話すよ。 『人間、ここまで違う?』ってくらい。
正直、違う意味で怖い。 多重人格なんじゃないかって疑ってる。」
「マジっすか…。」
「うん、3年の先輩ならもっと違和感持ってると思うよ。」
3年の先輩…
俺はふと、つぶやいた。
「のぞみ先輩、大丈夫かな…。」
せっかく『アルヴァマー』で勢いがついたのに、 気持ちの切り替えがついたかもしれないのに。
その時、教室の戸がノックされた。
噂をすれば…内田先生。
聞かれてたかな?怒られる…?
俺たちは2人してビクビクしながら先生の言葉を待った。
「おのれらに伝えることがある。
高橋は家庭の事情でコンクールには出ない。 ホルンの不足分については早急に対応する。」
…え?
先生は「以上」と言って出ていこうとした。
俺は慌てて引き止める。
「どういうことですか?家庭の事情って…?」
先生は淡々と答えた。
「それ以上のことは話せない。」
「でも、巻き取る、任せろって言ってたじゃないですか!」
「…。」
「信じて待ってたのに…!」
「…申し訳ない…。」
沈黙。
何で?
絵馬先輩が声を絞り出す。
「LINE送ってるのに、既読にならなくて…。 先生、のぞみ先輩は、無事ですよね?」
先生は伏し目になりながら答えた。
「無事だ。」
でも、その言葉はどこか曖昧だった。
絵馬先輩は強調するように確認する。
「『怪我もせず』無事なんですよね?」
先生は少し間を置いた。
「…無事だ。」
俺はその間に気づき、すぐに聞いた。
「今の間は何ですか!?のぞみ先輩に何かあったんですか?」
「たくみん!」
絵馬先輩が強めの口調で俺を呼ぶ。
俺は驚いて、一旦冷静に戻った。
絵馬先輩は言った。
「実は…のぞみ先輩の家庭の事情を、少し聞いていたんだ。
お父さんが『自分の実家に帰って、おじいちゃんおばあちゃんと暮らしたい』って言ってて…。
でも、のぞみ先輩とお母さんは、こっちで学校や仕事をしたいから…って揉めてるって。
たまに、それがエスカレートすることがあるって…。
だから、のぞみ先輩に何かあったんじゃないかって心配してるんです。」
俺は驚いて、言葉を失った。
先生は静かに話し始めた。
「高橋を何とかコンクールに出させてやりたいと思っていた。
高橋もそれを望んでいたんだ。
コンクールまでの短期間だけでも、私の家で預かる手続きを進めていた。
校長先生にも許可を取って、もう準備は整っていた。
とりあえず制服だけ持ってきてって伝えようとした矢先に…。
子ども家庭支援センターが介入し、緊急安全確保となった。」
俺は息を飲んだ。
「LINEが既読にならないのは…おそらくだが、 スマホ類は警察が預かっているかもしれない。
実際、私と高橋の担任、校長先生に、 子ども家庭支援センターの担当者と警察が来て、事情説明があった。」
先生の声は静かだったが、その奥には悔しさが滲んでいた。
「まずは、高橋には安全に暮らしてほしい。 気持ちと体の健康を取り戻すことに専念してほしい。
それだけを伝えるのが精いっぱいだった。
せっかく相談しに来てくれたのに…私の力が足りなかった。」
先生は深く頭を下げた。
俺は頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「いや、俺の方こそ…ごめんなさい!
事情も知らずに責めるばかりで…先生、めっちゃ動いてくれたのに。
校長先生まで協力してくれてたなんて…。」
校長先生をあまり当てにしていなかったけど、 思わず「意外にやるな、あいつ」と思ってしまった。
「私たちにできることはありますか?」
先生は答えた。
「音楽室にある高橋の私物を渡してほしい。
あと、これは他のパートには言わないように。 私から説明する。
それと、もし、高橋のことを聞いて回るような 見知らぬ人がいたら、学校に連絡してほしい。
それが今は高橋の身を守ることにつながるから。」
俺は震えながら聞いた。
「のぞみ先輩のお父さんですか?」
先生は答えた。
「そうとも限らない。人を雇って探させることもある。 何をしてくるかわからない。」
…俺は言葉を失った。
普段はちょっと抜けてて、明るい先輩だったのに…。
そんな苦労を抱えていたなんて、思いもしなかった。
最近、様子がおかしかったのに気づいてたのにな…。
それなのに、何もできなくて、動けなくて、助けになれなかった。
丁寧に教えてくれた。
音でカバーしてくれた。
だから俺、ちゃんとやろうって思えた。
学校も行こうって、立ち直れたのに…。
俺と絵馬先輩は、内田先生とともに音楽準備室へ向かった。
先生はのぞみ先輩の楽器を持っている。
俺は楽器ケースの中を確認した。
マウスピースは自前のもの。
楽器のお手入れセットがまとまったポーチ。
楽譜入れ、チューナー、チューナーマイク。
その他、鏡やリップクリームが入った小さいバッグ…。
こんなもんだろうか。
内田先生は、それらをまとめて、 よくある無地のベージュのエコバッグに入れた。
のぞみ先輩…いなくなっちゃうんだ。
物がなくなったスペースを見て、さらに力が抜けそうだった。
寂しくて、不安になる。
先生が静かに言う。
「おのれらは、おのれらのやるべきことをやればよい。 気持ちは曲にのせる。
どうしようもないことに揺さぶられる気持ちを持ったまま 自由曲をやる。
それは私も同じ。わかったな。」
俺は声を出す気力もなく、ただうなずいた。
内田先生は「よし」と言い、先に音楽準備室を出て行った。
あと15分で合奏だ…。
音楽室には、少しずつ部員が集まり始めた。