69.備えの練習と魔法の音
窓を全開にしているので、音は出してはいけない。
軽く気分転換のため、校内を歩いてみた。
今日活動している部活は、どうやら吹奏楽部だけらしい。
体育館も校庭も静かだ。
トイレに行っても、パートの教室へ行っても、全く人の気配がなかった。
音楽室へ戻ると、絵馬先輩とすばる先輩が話し始めた。
「たくみん、ちょっと私、この後1stをやってみる。
さっきで3rdは暗譜したから。」
「たくみ君も2ndができたら、3rdもやってみるといいかもしれない。
1stと3rdという作り方もあるかもしれないし、
1stなしの2ndと3rdでもいいかもしれない。
必要な部分だけ1stを入れるとかね。
ちょっとやってみないとわからないし、
全体との調和で最終判断は内田先生になると思うけど。」
「え…?」
のぞみ先輩が戻ってくるのが前提じゃないの?
「たくみ君、誤解しないでね。
まだ感染症は流行ってるから、
たくみ君が抜けるかもしれないし、絵馬ちゃんが抜けるかもしれない。
どうにもならない状況を想定しつつ準備するんだ。
本当は一人も欠けてはならないけど、コロナで色々学んだんだ。
フォローできるよう、日頃から共有する努力が必要なんだよ。
さっきまでの合奏で、僕がのぞみちゃんの代わりで3人体制の感覚がつかめたと思う。
今度は2人でやってみるといい。
いずれにしろ、冬の新人戦では2人になるから。
その頃はもしかしたらインフルエンザも流行る。
対策をしてもかかることはある。
備えての練習も必要なんだ。」
「冬の新人戦って何ですか?」
色んなことを想定して練習するのはわかった。
サッカーと同じだから。
でも、冬の新人戦って?
すばる先輩は
「1、2年生だけで挑むコンクールだよ。
そっちも金(賞)で、その先に行けたことはないんだけどね。」
と苦笑いした。
絵馬先輩は
「ずっと『今年こそ!』って言ってる。
何が足りないんだろう?」
と悔しそうに、不思議そうに言った。
「魔力だな。」
後ろから突然声が聞こえて振り返ると、OGの宮田先輩だった。
声が低かったので、この教室にいるはずのないおじさんかと思った。
宮田先輩が普通の声に戻して言った。
「さっきまで全国常連の中学の近くに行って、
吹部の練習の音を聞きに行ってたのよ。」
そんなスパイみたいなことまでやるんだ。
確かにサッカーの時も、相手の試合映像を見てマークする相手と方法を練っていたけど、吹部も同じ?
「片方はもう、1音1音を1人ずつロングトーンで楽譜をさらっていくの。
リズムとか関係なしに、音が重なった時の感覚を体で覚えさせてるみたいな感じだった。
気が遠くなったから、もう1つの中学に行ったんだけど、そこがすごかったの。
…魔法だわ。」
魔法…。
頭の中は「?」だらけだった。
「一瞬で魅了する、っていうのかな。
技術が、音程が、指揮との一体感が、とかそんなことはどうでもよくなるような
吸い込まれる感じ。
どうやってそんな風になるのかわからなくて、
練習が見えるところに入ろうとしたら、
警備員さんに呼び止められたから、道に迷った振りして逃げてきた。」
すごいなこの人。
幼稚園の先生になりたいって言ってたけど、探偵にもなれるんじゃないか?
「だから肝心なところは全くつかめなかった。」
と言って、宮田先輩は音楽室を出て行った。
「魔力…魔法…。」
ホルンメンバーはそんなことをつぶやきながら考え込んでいるうちに、
二酸化炭素濃度が通常に戻ったので、合奏準備に入った。