68.バカばっかりの吹部
音出しのあと、チューニングをしていると、左側から白川先輩とすばる先輩の話し声が聞こえてきた。
白川先輩はサックスのマウスピースのねじを回しながら、ぼやいていた。
「またリード割れた……。最近リード、めちゃくちゃ高くなってるんすよ。しかもソプラノとアルト、両方使ってるから、出費も倍。しかも当たり外れあるし、育てなきゃならんし……やっと育ったと思ったら割れるし……。コンクール前で、マジ泣きそう」
それを聞いたすばる先輩が、PCやカメラをセッティングしていたOBの駒井先輩に声をかけた。
「駒井ー、白川がリードなくて困ってる。余ってるのあったら、渡してやってくれないか?」
駒井先輩は軽く振り返って言った。
「サックス棚の奥に、楽器屋のポリ袋に入ったままのがあるはず。なかったらごめん」
「ありがとうございます!」
白川先輩は嬉しそうに準備室へ走っていき、数分後、満面の笑みで戻ってきた。
「ありました〜! ありがとうございます〜!」
その瞬間、駒井先輩が手を出して言った。
「一万円な」
「えーっ!? 金取るんすか?」
「買ったの俺だから。すばる先輩は“渡してやれ”とは言ったけど、“金は取るな”とは言ってない」
「えーっ、かわいい後輩が困ってるんですよぉ〜」
白川先輩は裏声で高く叫びながら、内股になって昭和のぶりっ子ポーズでウインクをした。
それを見た駒井先輩は、顔を引きつらせながら言った。
「わかった、やめろ。気持ち悪い。リードはやるから」
「ありがとうございまぁ〜す♡」
ぶりっ子のまま頭を下げる白川先輩に、駒井先輩は言った。
「昼飯吐きそうになるから、お願い、戻って」
「うす! 先輩、助かります!」
元の口調に戻って敬礼する白川先輩。
その様子を見て、すばる先輩が笑いながら言った。
「駒井、白川。うちのたくみ君がドン引きしてるよ」
俺は思わず背筋を伸ばした。
「あ! 引いてません! 大丈夫です!」
すると白川先輩がニヤニヤしながら言った。
「鈴木もそのうち慣れますよ。“あ、吹部ってバカばっかりじゃん”って気づきますから」
「言っとくけど、頭とか成績の話じゃないよ」と、すばる先輩が続ける。「性格というか、素の状態の話ね」
「だ、大丈夫です。わかります」
そう答えて、俺は再びチューナーに目を落とし、チューニングを続けた。
白川先輩のこと、もっと怖い人かと思ってた。
……色々、誤解してたかもしれない。
するとすばる先輩が、俺と絵馬先輩に声をかけてきた。
「ちょっといい?」
俺たちが顔を上げると、すばる先輩は少し声をひそめて続けた。
「さっき絵馬ちゃんは、“のぞみ先輩が戻ってくる前提”で練習してたけど、万が一のことも考えて、午後は1stを練習しておいたほうがいいと思うんだ」
「わかりました。昨日の時点で、ホルンで全パート吹いてみました」
「え? どういうこと?」
「去年のコンクールで、突然ホルンがトランペットのパートを吹いたり、ユーフォと一緒に同じメロディをやれって言われたことがあって。
だから、今年も何かあるかもって思って、先に全部さらっておいたんです。
完璧じゃないし、読み替えが怪しいところもあるんですけど……」
すばる先輩はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……すごいね。たった一年で、そこまでやれるようになるんだね」
「夏コン、新人戦、定演、その他いろんな演奏会がありましたから。
あと……後輩が入ってくると、変わりますよね」
そう言って、絵馬先輩が俺を見た。
「……それもあるかもね。あらためて、たくみ君、ありがとう」
すばる先輩が俺に頭を下げてきたので、慌ててしまう。
「い、いや! そんな、大したことじゃ……!」
そのとき、音楽室の扉が開いた。
内田先生が戻ってきたのだ。
部員たちが「お願いします!」と声をそろえる。
先生は言った。
「続きをやる。換気のタイミングで休憩を取る。
換気計の数値が正常に戻り次第、合奏に入る」
今日の合奏は、3年生9人が順番に指揮を振る。
一人約15分として――135分、約2時間半だ。
トップバッターは田中先輩だった。
田中先輩の指揮は、いつもの優しい空気そのままだ。
むしろ余裕すら感じる。
指揮のブレスが深い。
吹いてるわけじゃないのに、まるでチューバを吹いてるときのようなアンブシュアと呼吸。
そのせいか、リズムが妙に安定して感じられる。
テンポの変わり目、リタルダンドのかけ方も的確だ。
振りが細かくて確実なので、とにかく安心できる。
……安心して音が出せる、って、こんなに楽なんだ。
もちろん、緊張感も大事だと分かっている。
でも、緊張しすぎて息が吸えなかったり、アンブシュアが崩れたりするよりは、よっぽどいい。
これが、内田先生になると話は別だ。
ちょっとでも音程がズレると、鬼のような目で睨まれる。
あの目、マジでピストルの弾が出てると思う。
でも、それが好成績を残してきた理由でもあるんだ。
緊張しながらも、何とか田中先輩の指揮で1曲通した。
これが本番だったら、終わってたかもしれない。
ていうか、本当に間に合うのか?
口、もうヘタってきた。まだ1人目なのに……。
続いて、山田先輩が指揮台に上がった。
全員と目を合わせる。その時間が長い。
緊張がじわじわ迫ってくる。
その顔は、いつもの部長の顔でもなく、演奏中の表情でもない。
無機質な――どこか、内田先生に似た表情だった。
そして、指揮棒を構える。
その構え方も、どこか先生に似ている。
テンポは速い。
ついていくだけで必死。音を抜いてしまった箇所もあった。
一瞬目が合ったとき、ビリッとくるような鋭さを感じた。
怖い……。
課題曲から自由曲へ切り替える間も、棒を構えるのが早かった。
でも、振り始めるまでに少し時間がかかった。
睨むように視線を巡らせているようだった。
メインメロディは指揮棒と体で、リズムや対旋律は左手で示している――そんな感じがした。
自分の演奏する箇所で、山田先輩の合図が必ず出ているのを感じる。
山田先輩を見ることで、聞こえないパートが何をしているかも、なんとなくわかる気がした。
指揮者って、そういう役割なんだろうか。
「指揮者って、何のためにいるんだろう」とずっと思ってたけど、昨日今日で少しわかってきた気がする。
簡単なことじゃない。
あの指揮台は、晒される場所だ。
前には奏者、後ろには観客。
両方に責任を負う。
演奏をまとめ、観客に届ける役割。
コンクールなら、さらに審査員もいる。
自分が指揮台に立ったとき、体調不良もあったけど、無意識に「そんなことできるわけないじゃん!」と泣いていた気がする。
四方八方から見られ、聴かれる。
責任はすべて自分にかかる。
内田先生だけじゃなく、他校の顧問もすごい人たちなんだと思った。
次の指揮は、コンマスの船田先輩。
内田先生とはまた違った緊張感が漂う。
内田先生が雷のような恐怖なら、船田先輩は冷たい吹雪のようだ。
間違えると、冷たく突き放されそうな緊張感。
期待に応えると頷く。
音程が合わなければ、細めた目が冷たくなる。
怖い……。
普段は優しい先輩が、指揮台に立つとこんなにも違うのか。
指揮台も怖いけど、先輩たちも怖い。
息も浅くしか吸えず、緊張で音は揺れる。
あの優しい先輩たちは仮面をかぶってるのか?
息苦しくなったところで、二酸化炭素濃度アラームが鳴った。
駒井先輩がアラーム音を止める。
自由曲が終わり、船田先輩が指揮台を降りたところで、内田先生が言った。
「休憩。窓全開」
部員たちは一斉に窓を開け、休憩に入った。
苦しかったのは、緊張と酸素不足だったのか。
船田先輩のせいにして、ごめんなさい。
心の中でそっと謝った。