67.張り詰めた音色
昼休みになると、内田先生が「一回休憩にしよう」と言って、音楽室を出ていった。
俺は、ホルンのすべての管のつば抜きをし、バルブオイルを差す。
昨日塗ってはみ出していたグリスを拭き取り、クロスで楽器全体を丁寧に磨いた。
昨日は疲れ果てて、楽器の手入れなんてろくにできなかった。
それなのに今日は朝から吹きっぱなしだったから、さすがに不安になっていた。
一通り手入れを終え、楽器をケースに戻す。
ケースの中で少しでも休ませてあげたほうが、ホルンも楽になれるような気がした。
のぞみ先輩のことが、やっぱり気になる。
でも、今は考えても仕方ない。
先生に託したのだから、俺は俺のやるべきことをやるだけだ。
気持ちを切り替えようと弁当を取り出したとき、背後から声がかかった。
「鈴木、お前、なんかおかしいぞ」
白川先輩だった。
「あー……。暑いのと、2日続けて合奏してるから、ちょっとキツいっすね……」
「それだけか?」
うっ……。
今、俺からのぞみ先輩のことを勝手に話すのは、やっぱり気が引ける。
白川先輩は俺の目をじっと見て、続けた。
「鈴木さ、指揮台から見てて思ったんだけど、音がすごく出るようになってきた。
楽器が鳴るっていうか、ちゃんと響くようになってきてる。いい成長してると思ったよ。
すばる先輩が引っ張ってるのかもしれないけどさ。
ただ……音色がちょっとトゲトゲしてたというか、張り詰めてるというか。
その辺の“感じ”が気になった」
何も言ってないのに、ここまで見抜くとか……。
超能力者?
それとも、音楽やってると、こういう感覚が身に付くのか?
俺が黙っていると、白川先輩がポツリと言った。
「高橋のこと、気にしてるんだろ?」
声を出さずにうなずいた。
「あいつ、どうしたんだろうな……。
まぁ、3年の最後のコンクールだし、受験もあるし、いろいろ不安なんじゃないか。
引退が遅れれば勉強に影響も出るし。俺も正直、不安だよ」
「いずれ、俺も通る道ですね……」
「だな。だからこそ、今年は金賞のさらに先――全国の景色を見たいんだよ。
でも、今のままじゃ、音がまだ合ってないんだ」
「……本当に、すみません」
「え? いやいや、お前一人の話じゃないって。俺も含めた全体の話さ。
まあ、まずは飯だ。午後も長いからな、しっかり食って、休もうぜ」
「はい」
そのとき、黒沢や田中先輩、それに昨日話した男子部員たちが近くにやってきて、
わちゃわちゃと騒ぎ始めた。
なんとなくその輪に入って、俺も弁当を広げた。
「今週末、花火大会ありますよね? みんな行くんですか?」
上履きを見た感じ、質問してきたのは1年男子だ。
すると一気に教室みたいにみんな喋り出す。
「3年は仲のいいグループで行くみたいだぞ」
「俺、近所の河川敷で場所取りしてる」
「うちはマンションのベランダから見る」
「小学校の友達と久々に集まる予定だよ」
この花火大会は、東京の中でもそこそこ有名なやつだ。
隅田川のより少し早い時期に、毎年開催される。
小学生の頃は、サッカー練習が終わる頃に花火が始まって、
そのままグラウンドで母さんたちと見てたっけ。
母さんがコンビニでいろいろ買ってきて、久実と一緒にお菓子を食べながら眺めてた。
あれは、いい時間だったな――。
今年は……そんな気分になれない。
もうサッカー場にも行けないし。
「鈴木はどうするんだ?」
誰かに聞かれた。
ぼーっとしてたせいで、誰の声か分からなかったけど、
「うーん……疲れそうだし、家でネット中継見るつもりです。生放送あるんですよね」
と答えたら、
「じゃあ、うち来いよ! うち、ベランダから見えるんだ!」
顔を見たら、やっぱり1年男子だった。
「え、でも、夜遅くに行くのは迷惑じゃないか?」
「大丈夫大丈夫! うちの周り、花火の時は民が場所取りするからさ。
父ちゃん母ちゃんもベランダでビール飲みながら大騒ぎしてるし、
隣の家の人たちも、実家帰るって言いながら結局みんなベランダ集合してる。
だから友達呼んで見るの、全然アリなんだって! 一緒に見ようよ!」
ものすごい勢いでまくし立てられて、思わず、
「お、おう」
と答えると、黒沢ともう2人が「俺も俺も!」と手を挙げた。
「じゃあ、5人でうちで見ようぜ!
親は放っといて、俺らだけで楽しもう!」
「おー!」
……家から花火が見えるって、いいな。
いい家なんだろうな。
「クロ! 鈴木に俺の住所送っといてー」
「おう!」
思いがけない展開だった。
正直、顔と名前がまだ一致してない子も多いけど……。
「各自、好きなもの持ってきていいからな。
コンビニ弁当でもお菓子でも。食べながらのんびり見よう!」
「なんか、それいいね!」
「人混みよりいいかも!」
「今年は風流〜!」
「イエー!」
友達が欲しいって、思ってた。
いたら楽しいだろうなって思ってた。
でも……サッカー部のときのトラウマがまだ、俺の中で生きてる。
今は楽しくても、いつ壊れるか分からない。
またしくじったら、今度こそ居場所がなくなる気がして……。
黒沢以外、名前知らないし……。
途中入部だと、自己紹介のタイミングもなかったしな……。
でも――ちょっと、流されてみようか。頑張って。
「お前ら、喋ってる間にあと5分で昼休み終わるぞー」
白川先輩の声で我に返った。
昨日に比べて、今日は昼休みが短い。
たぶん昨日は俺の体調のせいで、長めにとってくれてたんだろう。
「コンクール期間中は、昼食30分が普通だ。
今のうちに慣れておけ。練習、飯、練習――トイレと飯以外は全部練習だ」
「うげ〜」と声を上げる1年たちに、
「そこは“はい”だろが」
と白川先輩が笑って言って、全員があわてて「はいっ!」と返事をする。
いろいろ考えながら食べていたら、あっという間に時間が来た。
急いで弁当を片付けて、うがい、音出し。
そして、午後の練習
へ――。
少しだけ、気持ちが切り替わった気がする。
無理やりでも、こういう時間って大事なんだな。