59.僕の音、先輩の音
内田先生の「次」という声が聞こえた。
次の先輩が楽器を置いて指揮台に向かう少しの間、すばる先輩に相談した。
「すみません、お願いがあるんですけど。」
「どうした?具合悪いのか?」
「いえ、体調は大丈夫です。先輩の演奏の音、録音させてもらえませんか?」
「えっ!?」
すばる先輩が思わず出した声に、みんなの視線が集中した。気まずい…。
すばる先輩は一瞬考えて、
「ちょっと待ってね」
と言って立ち上がり、楽器を椅子に置いて、前の内田先生のところへ行った。
こそこそ声で話をし、内田先生がポケットからスマホを出して何か操作し、すばる先輩へ渡した。
それを受け取ったすばる先輩は戻ってきた。
「たくみ君、チューナーマイク貸してくれる?」
そう言われて、はい、と返事をしてチューナーからマイクを抜いて渡した。
すばる先輩はそのマイクを内田先生から借りたスマホに接続し、マイクの部分をすばる先輩の持つホルンのベル部分にクリップでくっつけた。
すばる先輩がホルンに音を出さない程度に息を吹き込むと、スマホの画面が反応した。
すばる先輩はこそっと言った。
「参考になるなら、やってみる。どこまでできるかわからないけど、間違えると思うから、丸暗記しちゃだめだよ。」
「ありがとうございます!」
楽器を持って正面を見た時、指揮担当の2年生と目が合った。待たせていたんだ。
ごめんなさい、と思った。
会釈すると、うなずいてくれた。
指揮担当の2年生は前を向き、礼をして指揮台へ上がった。
2回目の通し練習。
さっきはついていけなくて見落としたりしたけど、今度は出せない音があったとしても、見落とさないことを目標に。
指揮棒が上がる。
楽器を構える。
指揮棒と指揮者の呼吸を見る。
頭の音の出し方のタイミングがつかめた。
それでも、やっぱりまだまだ怖くて、音は細いし、すぐ息切れするし。
ritやtempo Iでは、目が楽譜と指揮の往復でいっぱいで演奏どころではなくなる。
さっきから勇気を出して音を出しても細いかかすれているか、そんなことの繰り返し。
ただ、さっきと違うのは、楽譜で迷子にはならなくなった。
今、どこにいるかがわかるようになった。
吹けてないけど、指揮者がやろうとしていることがなんとなくわかった。
思い切って、全音符や2分音符で自分が出せる音域のところだけ出してみる。
すると、溶け込むというか、合わさるっていうのはこういうことか?という感覚ができた。
多分、同じ音を大きく太く出してくれているすばる先輩が、左から出してもらえてるからだ、というのは理解している。
一人の時にこれをやれるようにするのは大変だけど。
ホルンはこういう時いいと思った。
ベル部分が横だからダイレクトに聞こえるんだ。
不思議なのは、ベルが横向きについているのに、どうして前とか全体に響くんだろう?
しかも楽器古いのに、こんな音出る?
あ、あれか。使いこまれている方がなじむっていうやつなんじゃない?だから、音が出るんじゃ?
俺のはまだちょっとピカピカしてるから、まだなじんでいないとか?
邪念のうちに課題曲が終わる。
次の自由曲。
メロディは白川先輩のソプラノサックスも良かったけど、オーボエ…めっちゃかっこいいわ。
自分のせいで、ホルン、特にのぞみ先輩と白川先輩にとって思い入れがあったメロディがなくなってしまった。
そんな、いたたまれない思いを払拭してくれたように感じたのは俺だけだろうか。
こんな音色でこんなメロディが聴こえてきたら、俺、客席で聴いてたら多分聴き入るはずだ。
俺の立場で決して口にはできないが、「これ、オーボエだ!」って思った。
俺が、私が、っていう主張が必要なんだろうな。
それと技術。
オーボエの先輩たちが内田先生の無茶振りに応えたのは、技術だけじゃない。
1回目には気が付かなかったけど、白川先輩とはだいぶニュアンスが違う。
同じ楽譜を吹いているのに。
何だろう…。
オーボエの先輩たちには色々思うところがあってこのメロディを自分たちなりに吹いたんだ、ってことは分かった。
やっぱり邪念、雑念だらけで全く集中していない。
あわてて譜面にかじりつく。
装飾音符は自分でやると遅れることがわかっているので、まずはなしで音を出せるところを出すことを目的にやる。
ちょっとでも混じれるように。
ちらっと指揮を見ると、振り方が変わっている。
ここで気が付いたが、変拍子で振り方を変えるっていうのがこれのことか。
だからといって、それが演奏に直結するほど俺に実力があるわけではない。
途中から譜面にかじりついて、聴こえる音に合わせて少しでも音を出す、指を動かす。
最後の音になってようやく指揮者を見た。
かろうじて、音を切るタイミングや切り方のイメージがつかめた。出来てないけど。
指揮者が指揮台を降りて礼をする。
内田先生の「次」という声が聞こえた。
左にいるすばる先輩がスマホのボタンを押し、耳に当てて音を確認していたようだった。
立ち上がり楽器を置き、スマホを内田先生に渡してこそこそ声で話した後、戻ってきた。
すばる先輩は俺にだけ聞こえる声で、
「マイクありがとう。
ちょっと間違えているから、後で一緒に確認しよう。音源は送ってもらうから。」
「ありがとうございます。」
3人目が始まる。
その前に、また俺はすばる先輩に
「すみません、楽器交換してもらえませんか?」
と言うと、
「えっ!?」
とすばる先輩の驚いた声が出た。
こそこそ声で
「そっちの楽器のほうがうまくいくと思って…。」
「いやいや、そうじゃないよ。それに楽器はたくみ君が持ってるやつのほうがお金かかってる分、よく響くように作られてる奴だから。」
「あ、でしたら、それが本当はどれくらい響くか、聴いてみたいです。
俺の腕だとこれしか鳴らせないのに、すばる先輩だったらきっと違う音が出る。」
「コンクール前に楽器を変えるのってリスクあるんだけど…。」
すばる先輩が困惑している。
「ちょっと待ってね。」
と言って、すばる先輩が再度立ち上がって内田先生に相談しに行った。
内田先生は「はぁ!?」と反応し、額にはわかりやすく青筋が立ち眉間にしわが寄った。
うわぁ…めっちゃ怒られる…。やっぱだめだったか…。
すばる先輩が席に戻ってきて
「1回だけね。」
と言って、つば抜きをして渡してくれた。
俺は驚いたが、あわててマウスピースを外し、つば抜きをして楽器を交換した。
指揮者はやっぱりさっきと同様、ホルン…俺が落ち着くのを待っててくれていた。
全体を見て、後ろを向き、礼をした後、指揮台へ上がった。
俺はさっきまですばる先輩が吹いていたホルンを構えた。
指揮者を見て楽器を構える。
頭の音だけは指揮者を見てできるようになったと思う。
すばる先輩の音はさっきより、音が響いてくる。
対して俺は、やっぱりほっそい音、しかもさっきより細い音になっていた。
こんなに吹きにくいというか抵抗感を感じる楽器だったとは…。
それをさっきは、すばる先輩があんだけ音出してたのか…。
やっぱり只者じゃないんだけど。
俺の借りてる楽器で演奏してもらったのを録音してもらったほうが良かったな…。
すごく響くのに、俺は楽器の良さを消している。
雑念のみの合奏が終わり、軽く気分が沈む。
「たくみ君、楽器、いいかな?多分、コンクールまで、楽器は変えないほうがいいと思うんだ…。」
「…はい、ありがとうございます。すごくよくわかりました。」
「…なんか、大丈夫?」
「あ!大丈夫っす!」
「僕はね、3年間やってきたんだ。たくみ君はまだ1か月。焦る気持ちはわかるけど、比べるものじゃないよ。
よく言う「自分がライバル」ってやつ。
自分が練習で少しずつでも上手くなったり、理解が深まればそれでいいんだ。
人や道具の力を借りつつ、レベルアップしようという意思を持つことのほうが大事だからね。
たくみ君には今、それがある。だから多少の無茶ぶりでも挑戦してみているんだよ。」
と、すばる先輩が笑った。
「え゛っ!」
俺の驚いた声で、みんなの注目を集める。
さっきからこのパターンが続いている。
「ごめんなさい、無茶振りだって気づかなくて…。
自分のことしか考えてなかったです…」
「無茶振りは言い過ぎたかな…ごめんごめん。
上手くなろうともがいているなら、いくらでも手を貸すよ。
何も考えずに、なんとなく練習しているだけなら、僕は何もしなかったけどね。
だから大丈夫。できる限り協力するから、安心して。」
「ありがとうございます。」
思わず頭を下げた。
性格がイケメンだから、顔もイケメンなんだな。
いいなあ…。
「おのれら」
内田先生が話し始める。
俺のせいでうるさくしてたから怒られるのかな…と思ってビクビクすると、
「指揮も見てないが…、コンマスの存在を忘れていないか?」
…はっ!
完全に忘れてた!
ていうか、見てどうなるの?
見て何をすればいいの?
楽譜見て、指揮見て、コンマスも見る?
今はすばる先輩の音を聴いて、自分の音を出すのが精一杯なのに。
本当は他のパートの音も聞かなきゃいけないんだよね?
頭が一個ショートしそうなのに、どうすればいいんだ?
コンマス見て何かしなきゃいけないの?
もう無理だよ!
…という俺の混乱。
内田先生は続けた。
「お前らが演奏で迷った時、今コンマスは音で、しぐさでいろんな合図を出しているが、
それを察知できているのは数人程度…。
演奏をもっとやりやすくしていることに気づけ。」
…え?
今度は心の声で呟いた。
うっかり声に出して注目されるのは、さすがにもう進歩してないと思ったから。
そうだったんですね…ごめんなさい…。
あちこちからいろんなことに注意しろって指示かと思ったら…。
ただ、残念なことに、俺、山田先輩を見ると楽譜で迷子になる…。
それでも、見てみる必要があるから、今、内田先生はそう言ったんだよな?
楽譜でまた迷子になるかもしれないけど、注意されたんだし、一回やってみよう。
また、こっそり左のすばる先輩に
「すみません、今度は指揮だけじゃなくて、コンマスを見ると楽譜に戻れないかもしれません」
と言うと、
「わかった、指差すね。
もしよければホルンの音を聴きながら、一度楽器を置いて、指揮とコンマスを見てみるといいよ。
僕も指揮とコンマスを見てるんだ。」
えっ!
思わず声が出て、また注目を浴びる。
進歩してない…。
「譜面を受け取ったのはいつ?いつ譜読みしたの?」
「さっきだよ。
あ、でもスコアはりなが持ってたから、もう少し前かな。
音源も家で聴いてたから、なんとなくわかってた。
細かいところはわからなかったから、コンマスを見ながら調整して演奏してる。」
…すごいな…。
できるイケメン…。
「細かいところはわからなかったから、コンマスを見ながら調整して演奏してる」
俺も言いたい。
内田先生の「次」という声で4人目。
俺は楽器を持たず、構えないでいることに緊張したけど、今回はコンマスと指揮を見る。
この緊張感のある合奏空間で、楽器を吹かず膝に置く勇気。
午前中、体調を崩しておいて良かった。
その言い訳で、ホルンの上手い先輩の音で、自分が吹いたら合奏はこうなるんだってわかるし、
指揮とコンマスに集中して勉強できる。
指揮が構えた時、俺は楽器を構えなかった。
指揮担当の先輩は一瞬戸惑ったようだったので、お辞儀をすると理解したような表情になった。
指揮が動くと音楽が始まった。
楽譜をほとんど見ずに、最初の指揮を見て、山田先輩を見て気づいたことと言えば…。
楽器の上げ下げといったタイミングだったり、
山田先輩が視線で楽器のパートリーダーに合図を送っているのかな?と思ったり、
体の動きが大きい時があったけど、
それが音楽に乗っているからなのか、合図なのかはわからなかった。
他のパートをちらちら見てみると、ほとんどの人が指揮を見ていない。
譜面から目を離せない人も多い。
自分がそうだからわかる。
それでここまで音楽ができているってすごいことなんじゃないの?
それとも、内田先生はこれでも足りないって言ってるの?
何が足りないんだ?
俺が足りないのは痛いほどわかるけど…。
他の人はできてると思う。
これに俺が入るのが怖くなった。
あっという間に4人目が終わる。
すばる先輩が
「さすがに4回目ともなると、しんどくなるなあ…」
と言った。
疲れが全く音色に出てなかったから意外だった。
まだまだ大丈夫な人だと思ってた。
「まじすか?」
「うん、3年間この練習で1回は出血する。
卒業してまで出血するとは思わなかったけど」
と言うと、口に当てたハンカチに点々と血がついていた。
「うわ!」
思わず声に出して、また注目を浴びる。
俺は心の声を口に出さない練習も必要だ。
4回目は吹く。
まだまだ譜面から離れられないけど、色々やってみることでわかることがたくさんある。
頑張れ、俺!
わかることが増えるように、今のうちに失敗しておくんだ。
ていうか、今日の段階で指揮を見ている人はほとんどいなかった。
午前中の体調不良は意味なかったじゃん…。
だから内田先生は1年も指揮をやれって言ったのか。
それ言ってくれたらーーー…。
合奏に集中するというより、毎回何かしら思うことがあって、雑念だらけ。
一度も集中できていない。
なのに疲労しているのは何なんだろう?
5回、6回と繰り返すうちに、なんとなく掴めたり、音が出せるところが増えてきたりした。
7回目の途中で二酸化炭素濃度計のブザーが鳴った。
そのため、一度30分ほど休憩になった。
窓を開け、音楽室の扉を開ける。
音楽室だけでなく、パート練習の部屋まで行って仮眠をとったり、
そこまで行かずとも廊下や踊り場の隅で寝転がったりする先輩もいた。
すばる先輩は駒井先輩のところへ行って、PCで撮影の経過を確認していた。
この勢いでまだまだ練習あるの?
今日、帰り歩けるかな?