57.譜面の中で迷子になって
コンマスの船田先輩が、
「ちょっと先に内田先生に話してくる。それまで、りなちゃん、お願い」
と言って出て行った。
山田先輩が指揮台に上がる。
改めて、すばる先輩と山田先輩を見比べて、「よく似てるなあ」と思った。
「チューニング後、4拍でB♭ durやります。クラリネット2nd、チューニングB♭の音、お願いします」
と言うと、船田先輩の隣のクラリネットの先輩が立ち上がり、音を出した。
その音に合わせて、チューバ、ユーフォ、バスクラ、バリトンサックスと低音から中高音へ順に音が重なり、しばらくして止まった。
山田先輩が指揮を振り始め、スネアの4つのカウントのあと、音が出てくる。
隣から太く響く音がして、俺は一瞬止まった。
すばる先輩の音だ。
同じホルンなのに、まるで違う音が聴こえた。
いつも聴こえる、のぞみ先輩の繊細に伸びる音とはまた違って、
何というか…支えられてる、包まれてる、そんな気持ちになる音だった。
ホルンって、こんな音も出せるんだ……。
音階練習が終わっただけで、今日一日の勉強はもう終えたような疲労感。
でも、本番はここからだ。
内田先生と一緒に船田先輩が戻ってくる。
気のせいか、船田先輩の目の開きが半分になってる……何があったんだろ?
内田先生が指揮台に上がらず、そのまま話し始めた。
「おのれら、指揮練をアンサンブルの合奏と勘違いしてないか?」
……うわ、めっちゃ怒ってるじゃん。
「指揮に合わせて合奏することが目的だ。
指揮を見る。同時にコンマスも見る。打楽器が主体ではない。
指揮だ! 指揮!
指揮が下手でも、しくじっても、合わせにいけ。
これは、意思疎通の練習でもある。
午前中は、1年がいきなり初めてだったんだから、うまくいかなくて当たり前。
だからといって、指揮者を無視してコンマスと打楽器が仕切るのは違う。
音楽的に前に出るのと、リードするのとは違う。
誰かに委ねるのではない。
全体が、自分の意思で合わせて演奏すること。
そのうえで限界があるなら、フォローが必要なら、そのとき改めて考える。
オーボエは2人でやること。
強弱をつけるには人数が必要だ。
ソロでもいいが、この人数と実力では、弱い。
ホルンは今日は仕方ないとして……
山田、すばるの演奏から吸収するように。
コンクールの演奏は、指揮に合わせるのが基本。そこは絶対だ。
演奏におけるすべての責任は、指揮者である私が取る。
演奏が悪ければ、それはすべて私の責任だ。
コンクールまでに、自分で表現したい音、音楽があるなら、
合奏中にどんどん主張しろ。
良ければ片っ端から採用する。
もっと、譜面で、音符で、遊ぶんだ!」
「はい!」と部員の声。
ホルンは、何かOKだったんだな。
オーボエパートは……目がくたっとしてる。
その中で、1年生は居心地悪そうだ。
色々、痛いほど分かる。俺もそうだから。
内田先生が「2年、前へ集合」と言い、2年生たちが前に集まってくじを引き、ホワイトボードに名前が書かれていく。
その間、俺はすばる先輩に聞いた。
「譜面で遊べって、どういうことですか?」
「それができたら苦労しないんだけどな……。譜面が演奏できて、かつ……」
「かつ?」
「このメロディに込めたい思いを乗せる、ってことかな?」
「俺、正直それどころじゃないですけど……」
「うん、わかってる。今は、譜面をさらっていこう」
「はい……」
そういえば、前に合奏で白川先輩が演奏してて、
内田先生、それに合わせろって言ってたな。そういうことか。
譜面の音を出すだけで四苦八苦、音色も雑だし、音程もふらふら……。
「気持ちを乗せる」って、いつになったらできるんだろう。
気がつけば、2年生の順番が決まっていた。
ホワイトボードを見ながら、先輩の顔と名前、楽器を覚えていけるだろうか?
いや、譜面で精一杯で、それどころじゃないか。
2年の先輩って、絵馬先輩と北野先輩以外、名前も顔も楽器もわからない。
……こんなんで、大丈夫だろうか。
内田先生が話し始めた。
「2年からは、課題曲から自由曲まで通す。
1年生同様、2年生も初めてだと思うが、
昨年、上の学年が指揮していたのを見ていたはずだ。
スコアが配られた時点で、『この時期にこの練習が来る』と意識して、
全体をつかむ練習くらいはしていたはずだが……」
音楽室が静かになる。
2年生の1人目の先輩が礼をして、指揮台に立った。
まずは課題曲。
指揮棒を見る。楽器を構える。
俺は頭から4小節目までしか覚えていない。
まずは、そこだけでもできるようにしよう。
指揮者の呼吸と棒を見る。
息を吸って、音を出す。
たった数秒の間に、色んなところに目を動かさないといけない。
音も聴けと言われるし、自分の音も出さなきゃならない。
でも、今いちばん怖いのは「音を出すこと」だった。
やることが多すぎて、パンクしそうだ。
それに、自分がこの中で出す音が合ってるのか、わからない。
そもそも「何がわからないのか」が、わからない。
――ふと、左から聴こえてきた音。
それは2ndホルンの、つまり俺が担当している音。
すばる先輩が吹いてくれている。
ホルンが合奏に混ざると、こんなふうに響くんだ……。
音があるって、こんなに違うんだ。
左のすばる先輩の音を頼りに、楽譜を目で追いながら、
出せる音を出すようにした。
もしかしたら、何とかなるかもしれない……。
右も左もわからなかった俺が、
左にいるすばる先輩の音のおかげで、少しずつ自分の出すべき音が見えてきた。
ritのマークの上には、自分が書き込んだ「見る!」のメモ。
それを見て指揮に目をやる。
だんだんテンポがゆっくりになるのが分かる。
けど、その部分の楽譜はまったく頭に入っていなかった。
演奏はできなかった。
ただ、指揮を見て、すばる先輩の音を聴いていた。
「こうすればいい」っていうのは、分かった。
――でも、それが「できる」のは、いつになるんだろう?
指揮を見て、すばる先輩の音を聴いて、演奏に戻ろうとした瞬間、
どこを吹いてるのか分からなくなった。
譜面で迷子になる。
「今、みんなどこ吹いてるんだ……?」
完全に見失ったとき、左から
「ここだよ」
という声と、楽譜を指す指が見えた。
小さい声で「ありがとうございます」と言い、楽譜にかじりつく。
1、2、3、4……と数えながら小節を追うけど、
なかなか音を出すタイミングがつかめない。
分かってる。
けど、今度は「勇気」が出ない。
tempo Iにも「見る!」とメモしてある。
指揮を見たら、また見失う気がする……。
でも、見なかったらもっと危ない。
ritとtempo Iは絶対に覚えないとダメだ。身をもってわかった。
今度は、指揮と楽譜をちらちらと交互に見て、見失うことはなかった。
でも、テンポについていけなくて、練習で出せた音さえ、出せなかった。
まるで大縄跳びに入れないときみたいな感覚。
走り込むとか、ジャンプするとか、高さとか、リズムとか……
どこかで失敗しそうで、足がすくむ。
集中が切れて、そんなことを考えているうちに、最後の小節で音が鳴る。
課題曲、終了。
ほとんど吹いてない。
音、出してないのに、神経だけがやたら疲れた。
間を置かず、自由曲へ。
最初は楽器を構えない。
クラリネットの旋律から始まり、本来ならホルンとサックスが引き継ぐはずだったメロディを、今回はオーボエパートが担当することになった。
音楽室に入ってきた時には、へとへとに疲れていたオーボエの先輩たちが、いまはしゃんと胸を張って楽器を構えている。
昼休みに言い渡された無茶ぶり。たった1時間のパート練習で、いきなり合奏。
……正直、すごいと思った。
指揮が動き始める。
クラリネットの出だし2小節後、オーボエが入る。
大きく息を吸って、吹き始めた。
2人で吹いているのに、まるで1人が吹いているかのように聞こえる。
音が――きれいだった。
このメロディ、もともとオーボエのために書かれていたんじゃないか、と思うほど自然に響く。
ここからは見えないけれど、のぞみ先輩と白川先輩はどう思っているんだろう。
あの二人だって、ああやって揉めたあとの演奏を引き継がれるのは、きっと複雑な気持ちのはずだ。
そんなことをぼんやり考えていたせいで、自分が楽器を構えるタイミングを逃し、
どこを吹いているのかも分からなくなった。
ホルンパートが一斉に楽器をおろした。
――あ、8小節休みのところだな、と察知する。
そこからカウントして、先輩たちが構えるのに合わせて、自分も構えてみる。
一刻も早く合奏に溶け込めるように。
すばる先輩の音を頼りに、「この音を俺が出せるようになれば、ホルンが良くなる」って、ようやく少しだけつかめた気がした。
和音の練習では、パート練で順番に音を出してもらって、丁寧に見てもらえば理解できる。
でも合奏になると、いきなり「その音を一発で出す」ってことが、うまくできない。
周囲のせいにしても意味がないけど、
いろんな音に引っ張られて、自分の音に迷いが出て、わからなくなる。
「指使いは合ってるけど、これ、こんな音だったっけ……?」
音符とドイツ音名の一覧表を見て、チューナーで確認して、って作業を繰り返すけど、
それをやっていると、今度はリズムが分からなくなるという悪循環。
でも今日は、すばる先輩の音が導いてくれた。
「ああ、これが俺が出すべき音だったんだ」って、自覚できた。
……もちろん、それが「できるか」はまた別の話ではあるけど。