54.衝突する意志—求められる「何か」
ep.51/51.立っていられないほどの緊張 の続き
指揮練の終わりと、重い空気
残りの一年生二名の指揮練が終わった。
課題曲を二回。
色々と弱っているうえに、技術も未熟なため、ほとんど演奏できなかった。
まだ11時過ぎだったが、内田先生は言った。
「お昼休憩とする。始めるのは13時から。
次は2年生からだ。途中休憩や換気を挟むが、今日は一日これをやる。
18時まで続ける。」
返事も聞かず、音楽室を出ていった。
ホルンOBのすばる先輩と、サックスOBの駒井先輩が近づいてきた。
すばる先輩が提案する。
「ホルンのパート練習の部屋、さっきたくみ君と休憩してたときにエアコンを入れたから、まだ涼しいはずなんだ。
そこでホルンとサックスのメンバーで昼食をとりながら話してみないか?
この後の指揮練では、課題曲と自由曲、両方通すでしょ?
一緒に演奏する部分について、午後の合奏前に解釈や表現をすり合わせたり、 ブレスをずらして取るなら、誰がどこで取るか細かい部分を詰めておくのもいいんじゃないか?
午後の指揮練は合奏練習でありながら、個人練習でもあると思ってやってみたらどうかな?」
すると、のぞみ先輩が言った。
「ホルンだけじゃダメなんですか?」
駒井先輩が少し冗談めかして返す。
「えー、俺がいるから?」
しかし、のぞみ先輩は真剣な表情で言った。
「どっちかっていうと、今日は白川と話すのはしんどい。」
その言葉を聞いた白川先輩は、無言のまま額に血管が浮き出ていた。
……白川先輩は、言い返すことすらしなくなったな……。
気を使ってくれているんだろうか。
居づらい。 やりづらい。
こんな空気の中にいるくらいなら、俺は1人で階段とかで食べたいんだけどな……。
午後は、できる限り音を出す。
それに、みんなの音を聴きながら、自分の音を出して混ざっていく感覚をつかむというのも、 考えてみれば贅沢な練習かもしれない。
この前みたいに先生のいる合奏で、 「1小節でみんなを待たせる」 なんてことはないから、気楽っちゃ気楽だ。
できれば今日のうちに、なんとなくつかめたらいいな……。
そんな気持ちの変化が出てきたのが不思議だ。
食事をめぐる衝突。
すばる先輩が、やんわりと場をまとめようとする。
「まあまあ、ホルンとサックスはよく一緒に演奏するから、 昼食を共にするのも、コミュニケーションの一環としてありだと思ったんだけど……。」
しかし、のぞみ先輩はきっぱりと言い放った。
「ごはんぐらいは楽しく食べたいです。 ホルンパートだけで話をしたいです。」
いつも柔和なのぞみ先輩が、ここまで厳しい態度になってしまうとは……。
駒井先輩が切り込むように話し始めた。
「サックスパートだったから白川に味方してるって思われても仕方ないけど、言うわ。
せっかくホルンパートに入った後輩が、精神的に追い込まれてることに、そろそろ気づけ。
『自分ができるから、頑張ればできる』って押し付けるな。
頑張ることと、無理を飲ませることは違うだろ?」
のぞみ先輩は譲らなかった。
「最初から低めの天井を作ってしまうのは、成長を妨げると思うんです。」
ここから、駒井先輩とのぞみ先輩の言い合いが続いた。
「お前も分かんねーやつだな! 3年間続けているやつと、入って1か月そこそこのやつが、同じように吹ける譜面じゃねえだろ。
冷静になれよ。
頑張ってどうにかなるとか、個人の理想とかで金賞や全国は行けねえよ。
もし審査員のコメントに『ホルンパートのグズグズが気になりました』ってあったら、お前の責任だぞ。」
「分かってます。」
「いや、分かってねえ。」
「たくみんは、ホルンの音がきれいだって入部してくれました。 スタートラインのマウスピースを鳴らすことも、比較的スムーズにできました。
松下さんが指導してくれたおかげ、というのもありますが。
基礎練習も長時間集中して、唇が紫色に腫れ上がるくらいまでやっていますし、 指使いも頭に叩き込もうと努力しています。
毎日毎日、音が伸びやかになって、響くようになっていくのを感じています。
今回の自由曲の譜面は、とても素敵なメロディをホルンが与えられています。
ゆっくり練習を積み重ねれば、間に合います。
それを一緒にコンクールで演奏して、全国へ行きたい。
それは無茶でしょうか?」
「無茶だよ。あと1か月程度でできる譜面じゃない。」
「編曲はホルンの松下さんです。 松下さんは、最初にたくみんの指導をされています。
ホルンでは演奏不可能な楽譜ではありません。」
「自由曲が決まったのは、新入部員が入る前だろう。
一年初心者を巻き込むなら、できるところはやらせて、 できないところは演奏でも精神面でもフォローしていくのが先輩の役割だ。
少なくとも、うちの中学はな!」
割って入るように――
「3小節目から練習番号1まで、ホルン、サックスはカット。 その部分をオーボエに変更。 オーボエは午後の指揮練から、その形で演奏すること。」
内田先生の声だった。
いつの間に……。
それに、いきなりオーボエって……。
「えっ?」 という声が漏れたり、顔が青ざめたり、ショックを受けたり、凍りついたり――
それぞれのリアクションを、なぜか冷静に見ている自分がいた。
本音を言うと、俺はだいぶホッとしてしまった。
オーボエパートの人が、はっと気づいたように――
開きかけたお弁当を途中で置き、あわててスコアを見たり、
「コピー、パート譜!譜読み!
3人で同じメロディなんだな?
ホルンがF管でアルト(サックス)がE♭管? 何度変えればいいんだ?!完全5度?」
と、相当パニックになりながら、タスクを書き出していた。
「先生、すみません!
何度上げ下げしたらいいかわからないんですが、どうしたらいいですか!?」
と、オーボエ担当の先輩が尋ねると――
内田先生は、短く言った。
「原曲のスコアを見て。」
オーボエの先輩は、慌てて音楽準備室に入り、スコアを持ってくる。
「先生、コピーさせてください。
その後、切ってパート譜を作成するので、 それを再度コピーお願いします。」
「職員室へ行って、『内田の許可あり』と、 中にいる先生へ伝えて、許可を取ってからコピーする。」
「はい!」
そのまま、走って出ていった。
内田先生は、ホルンとサックスパートのところまで歩いてきた。
「議論も、パート練も、セクション練も、大いに結構。
だが、時間が限られている。
お前らで最適解を出せることを期待していたが、これ以上は待てない。
裏で喧嘩しようが、言い合いしようが、合奏がまとまっているならそれでいい。
だが、音楽はまとまらず、人間関係まで壊れるとなれば、話は別だ。
音楽全体にまで悪影響が広がる前に、手を打たせてもらう。
コンクールはな、曲は出来て当たり前。
それ以上の『何か』が、大きく評価されるんだ。
今のままだと、その『何か』が消える。」
……『何か』って何だろう?
今の空気では、とても聞けない。
この前の感情解放の「喜怒哀楽」ってことか?
ショックを受けている先輩たちの前では、聞けなかった。
すばる先輩なら答えを知っているだろうか?
顔を見ると、うーん……と腕を組んで考えている。
内田先生は、
「以上。」
とだけ言った。
そして、再度音楽室から出ていった。
白川先輩は、力なく言った。
「マジかよ……。」
サックスを膝に置き、うなだれる。
のぞみ先輩は、何も言わず音楽室から出ていった。
すばる先輩が、後から追っていく。
絵馬先輩の顔を見ると、呆然としていた。
「絵馬先輩、俺……」
思わず声をかけると、はっとした様子で――
「たくみんのせいではないよ。」
と言った。
俺、何も言ってないけど――
そういう言葉が欲しそうな顔をしてしまっていたんだろうか?
『何か』ってなんですか?
それは俺が吹けたら、出せるものだったんでしょうか?
考えても、わからない。
そして、音楽室の空気が重い。
「はーい、お弁当を少しは食べようねー!」
元コンマスのOG、宮田先輩が呼びかける。
「緊張して食べられない、吐いちゃうかも……。
そういう人もいるかもしれないから、無理には言わないけど。
でも、胃液が逆流して楽器に入ったら、楽器は終わるよ。
胃液は、食べて下に消化させること。
食べられるものでいいから、軽めのパンとかおにぎりとか。
それでも無理なら、ゼリーとかね。
お弁当は、自分で用意したり買ってきたりする人もいるかもしれないけど、 お父さんやお母さんが作ってくれた、買ってくれた、 用意するお金をくれたなら、それが愛情とかパワー。
そのパワーをイメージして、一緒に体に入れるんだよ。
そして、そのパワーを午後の音楽に込める。
イメージを音に乗せるってことかな。
はい、食べて食べて。 あと休憩して寝る!その後音出し!
オーボエはパート譜を準備して、譜読みしながら食べて。 その後は個人練、それから合奏!」
そう言うと、宮田先輩は続けた。
「駒井ー!全然成長してねえ!からあげ弁当な。」
そう言いながら、駅前のお弁当屋さんの袋を出す。
駒井先輩は、ため息をつきながら黙って受け取った。
宮田先輩がふと思い出したように言った。
「すばるの分は……冷蔵庫入れさせてもらうか。」
すると、駒井先輩が聞く。
「え、あいつの弁当何?」
「生姜焼きだって。私はカルビ焼肉。」
「え、そんな選択肢あったの?」
「内田先生、希望あるか?って聞いてたじゃん!覚えてないの?
『俺からあげー』って、バカの子みたいな返事で。 一口もやらないし、交換もしない。」
駒井先輩がぼやく。
「一切れ、くれよ。」
宮田先輩は、淡々と答える。
「そこまで仲良くはない。」
「三年間一緒で、冷たくね?」
「妥当だよ。何なら、お弁当受け取ってここまで持ってきたことに感謝しろって。」
「え?うっちーがUberしたんだろ?それを回してきただけじゃん?」
「お弁当いらないみたいだね。やった、唐揚げとカルビ焼肉。」
「ごめんて、ありがとうございます!宮田様。」
「わかった。次はないよ。色々と。」
宮田先輩の笑顔の後ろから、なんとなくゴゴゴゴ……という音が聞こえるのは気のせいだろうか?
なんとなく、お弁当を食べ始められるような空気になった。
肩をとんとんと叩かれた。
「よっ。」
振り向くと、久しぶりの黒沢だ。
「食おーぜ。」
「おう。」
午前中の吐き気が消え、空腹を感じた。




