51.立っていられないほどの緊張
部活に来るのに、緊張した。
昨日は、もうギリギリまでサックスのパート練習の部屋にいた。
かえるの歌 をひたすらに。
ドレミファミレド…… レミファソファミレ…… ミファソラソファミ……
一つずつ音を上げて、ゆっくりと。
前に聞いたアドバイスがあった。
「下の音から順番に出していくと、自然に上の音も出るようになってくる。」
その言葉を思い出しながら、試してみる。
ドの下のシから、 シドレミレドシ…… ラシドレドシラ……
下の音域でも繰り返してみる。 シャープをつけるか、つけないかでまた違いが出るのも、理解した。
スケール練習って、こういうことか……。
その後は、同じ要領できらきら星もやっていく。
そうしているうちに、もう時間になってしまった。
ミーティングのために音楽室へ向かうのも、気が重かった。
もう、顔を合わせにくい。
今日は無理だ。
誰とも話したくない。
ミーティングが終わったら、速攻でダッシュして帰った。
今日は時間ギリギリに出席した。
今日がいきなり合奏だったことに、心から感謝した。
朝のミーティングが終わると、すぐ合奏体形に移動する。
のぞみ先輩と絵馬先輩には、朝の挨拶をした。
きっと引きつっていたと思う。
でも、今の自分ができる最大限の笑顔。
のぞみ先輩が何か話そうとしていたけど、 その時間はほとんどなかった。
十数分の音出しの後、船田先輩のチューニング。 全体での音階練習。
さらに三十分の基礎合奏。
そして、内田先生が話し始めた。
「先日も話した通り、今日は全員に指揮をやってもらう。
部員全員で四十五人。
一年生は、課題曲か自由曲のどちらかを指揮してもらう。
指揮台に上がったときに、どちらをやるか伝えること。
指揮をやることで、楽譜や音楽への理解が深まる。
指揮台に上がることで、メンバーとの意思疎通が取れるようになる。
二年生、三年生については、解釈や表現を見ていく。
おそらく、一人ひとりの指揮は違うはずだ。
指揮を見て、演奏者は柔軟に対応できるか?
もっと言えば、楽譜から目を離して指揮を見られるか?
また、今後の練習には体力と集中力が必須。
その力をつけるためのトレーニングでもある。
私は今日一日、おのれらたちの演奏や演奏態度を聞き、見る。
ただ、おのれら自身でも反省点を見出さなくてはならない。
指揮と演奏を、それぞれ撮影し、部活のチャットルームにアップしておく。
後日、情報共有の時間を作る。
それを踏まえて、練習予定の中で何をするか考えてほしい。」
先生が話し終わると、部員たちは「はい」と返事をした。
そして、先生が戸を開けた。
「入って。」
入ってきたのは、高校生らしき三人。
二、三年生の一部が「わぁっ」と歓声を上げたり、手を振ったりしているのが見えた。
「OB、OGだ。」
先生が言った。
「一年生は知らないと思うので自己紹介。 パートと高校名、そして、先輩が今どんなことを考えて高校に通っているのか。 後輩にアドバイスを。」
高校生三人のうち、少し元気な印象の男子高校生がぼやいた。
「無茶ぶりすんなや……。」
先生はニヤッとしながら言う。
「お、じゃあ、お前から。」
手の平で前に出るように促した。
「マジかよ……。」
そう言いながら、高校生は前へ出ていった。
彼は、白いポロシャツにグレーのスラックスを履いていた。 中学の夏服に似ている。
黒髪は、少しツンツンしている感じ。
細めの目鼻立ちが、涼しげな印象だった。
「駒井はじめです。 アルトサックスを担当していました。 今はバレーボール部です。
もともと運動が好きだったんだけど、怪我をしたら内田先生が怖くて……。
あと、高校にも吹奏楽部があったんですけど、 サックスの人数が多くて、トロンボーンをやれって言われて辞めました。 それで、すぐバレー部に行きました。」
その瞬間、後ろから山田先輩の声がした。
「えー!トロンボーン楽しいのにー!」
駒井先輩はスルーして、続けた。
「高校生活は思いっきり楽しんでます。 今日は部活休みだったので来ました。
将来のことは、わかんねえっす。 アドバイスとか……ねえっす。
よろしくお願いいたします。」
部員たちは「よろしくお願いいたします」と返事をした。
内田先生が「次」と言った。
次に前へ出たのは、サラサラの茶髪に黒い大きめの眼鏡をかけた男子高校生。
黒のラフな半袖シャツと細身のパンツを履いていて、 高校生というより、大学生のように見えた。
「山田昴です。そこの山田りなの兄で、元ホルンです。
卒業は二年前です。
都立西町高校で、帰宅部です。
教員になりたいので、学校の後、 勉強がてら近所の塾でアルバイトしています。
水分補給を忘れずにしてください。
よろしくお願いいたします。」
部員たちは「よろしくお願いいたします」と返事をした。
元ホルンの人か……。
緊張するなあ。 都立西町高校って、たしか偏差値六十三から六十五くらいだった気がする。
こんな忙しい部活で、よく合格したな……。
いつ、どうやって勉強していたんだろう?
内田先生が「はい、次」と言うと、 山田昴先輩と入れ替わるように、紺のポロシャツに緑と紺のチェックスカート、 紺ソックスの女性が前へ出た。
「宮田さわです。
元クラリネットでコンマスしていました。
御手洗音大付属高校音楽科に通っています。
将来は幼稚園の先生か音楽の先生になりたいと思っています。
コンクールまでの練習はハードだと思います。
帰ったらしっかり食べて、寝てください。
よろしくお願いいたします。」
部員たちは「よろしくお願いいたします」と返事をした。
内田先生が言った。
「今日一日の動画撮影をお願いしている。 忙しい中、お前たちのために力を貸してくれている。
同時に観客でもあるので、飽きさせないように演奏すること。
宮田、元コンマスとして、これから音楽関係の仕事に就くなら、 審査員としてのコメントもお願いする。」
部員の何人かが、ムンクの叫びのような顔になった。
宮田先輩は、にっこりと笑って言った。
「はぁーい、承知いたしましたっ。」
笑顔だけど、すごく怖い! そんなタイプの人だ。
内田先生とは違った怖さがある……。
今日、俺は生きていられるだろうか……?
駒井先輩がスマホで映像を撮り始めた。
奏者(いつもの部員)に向かって言う。
「本番で演奏中に失敗しないように、今テストで撮ってるだけだから、こっちは意識しないでいいよ。」
山田先輩がパソコンを立ち上げ、バッグからコードを取り出し、駒井先輩に渡した。
スマホのほかに、指揮台に向けた固定カメラもある。
つまり、スマホは奏者の様子を撮るためのものなのだろう。
宮田先輩はスコアを読みながら、カメラをどのパートに向けるか、 どちらが立つかを決めていた。
なんだか、すごくできる人たちだ……。
一年生が全員集められた。
内田先生が説明する。
「課題曲は最初から最後まで4拍子だが、自由曲は途中で拍子が変わる。
できるだけ振り分けてほしいが、いきなりなので難しいと思う。
途中で混乱したら、縦にだけこう振るように。」
そう言って、白い棒を上下に規則的に振った。
「また、課題曲は4拍子だが、最初はテンポ130程度から始まり、 途中で70ぐらいまで落とし、最後は再び130~140に戻る。
これも振り分けられなかったら、上下か、 最悪メトロノームのように左右に振るでもいい。
譜面ばかり見ている奏者と、指揮に集中する奏者とに分かれると思う。
テンポの変わり目や、楽器ごとのタイミングを見て、 音を出す瞬間で目が合ったりするだろう。
可能なら目で合図できるといい。
無理なら、合わせるだけでもいい。
とにかく、今日はやってみることが大事だ。」
一年生は「はい」と返事をした。
内田先生は木の30センチ四方の箱を取り出した。
「順番くじ。 1から14まで書かれている。
番号順に指揮をしてもらう。
まず、くじを引いて、持っておくこと。
開いてもいいが、見せ合ったり話したりすると、 時間が長引いて無駄になるので、騒いだ者から指揮台に立ってもらう。
番号を呼ぶので、それで確認する。
順番が決まったら、ホワイトボードに名前を書いておくこと。
演奏の席で待ち、自分の番が来たら前へ出る。
演奏会と同じように、指揮台の向こうには観客がいると想像する。
観客に向かって、自分がこの吹奏楽部の演奏を担っている。 お客様にいい演奏を届ける責任は自分にある、と思って礼をする。
指揮台に上がり、奏者の準備が確認できたら、指揮棒を上げる。
奏者の楽器の構えを確認したら、指揮棒を振り始める。
演奏が終わったら、指揮棒を下げる。 指揮台を降りて、観客に向かって礼をする。
ここまでが一連の流れだ。 質問はあるか?」
誰も動かない。
ただ、固まったままだった。
もう、何がわからないのかすら、わからない。
内田先生は言う。
「一度、私がやって見せる。 演奏は途中までで止める。
私の指揮を真似することではなく、 自分でこの演奏に責任を持つということを体感することが目的だからだ。
お前たちは最後までやること。」
一年生は「はい」と返事をした。
内田先生は2、3年生に向かって言う。
「一度、1年生に例を見せる。 1年生を観客、本番だと思って演奏すること。」
先輩たちは「はい!」と元気に返事をした。
内田先生は指揮台の横に立ち、 1年生の集団に向かって礼をした。
1年生は拍手をした。
内田先生が指揮台に立ち、指揮棒を構えると、 奏者たちが楽器を構えた。
3秒ほどの間を置いて、指揮棒が振り上げられる。
そして演奏が始まった。
指揮棒の動きは滑らかで、演奏とぴったり合っている。
演奏を聴くときに、指揮者を意識したことはほとんどなかった。
その流れるような動きと、それに対応する音の一体感を感じた瞬間、 内田先生は演奏を止めた。
指揮棒を下げると、奏者も楽器をおろした。
内田先生は指揮台を降り、再び1年生に礼をした。
1年生は拍手をした。
内田先生は1年生に向かって言う。
「これが一連の流れだ。
では、くじを引く。 引いたら、黙って待っておくように。」
ピッという音がした。
さっきの駒井先輩がスマホの映像を止めた。
山田先輩(兄)のところへ行き、コードをつないで映像を確認している。
「これで大丈夫そうだね。」
と二人で話している。
一年生が、順番を決めるためにくじを引く。
みんな、引いたくじをそっと開いたり、 こっそり覗いたりしていた。
俺も、くじを引き、そっと開く。
「……3。」
短めで拍子が変わらない課題曲を選ぶつもりだった。 それはいい。
でも、3番目……。
早く終われる……のかな? それとも、良かったのかな……?
内田先生が順番を読み上げ、返事をした1年生の名前をホワイトボードに記入していく。
1年生のトロンボーン担当、高津千佳がトップバッターとなった。
小学校の音楽クラブでトランペットを経験し、中学ではトロンボーンを選んだ。
本人の希望だったらしい。
「仮入部でスライドするのが面白かった。 マウスピースがトランペットより吹きやすかった。」
そういう理由だったと聞いている。
入部直後はスライド操作に苦戦していたものの、 コンクールの練習が本格化した頃には、2、3年生と一緒に練習するメンバーになっていた。
もう落ち着き払っているように見えた。
……と思ったけれど。
高津さんが礼をして指揮台に上がるとき、OB・OGのサクラ的な拍手にビクッと反応していた。 やっぱり緊張していたんだ。
指揮棒を構える。
奏者たちも楽器を構えた。
しかし――指揮棒がなかなか動かない。
やっと動いた。
けれど、目が譜面から離れられない。
今日、初めて合奏に参加するようなものだ。
スネアの音や周りの音を頼りに、ついていくのが精いっぱい。 指揮をほとんど見られなかった。
音もスカスカで、うまく出せない。
最後の4小節だけ、ようやく指揮を見た。
高津さんの顔を見ると、眉間にしわが寄り、 焦点が定まらず、肩が上がって縮こまっているように見えた。
そんなに必死だったのに……。
俺、まったく見てなかった。
ごめん……。
高津さんは指揮台を降りて礼をし、そのまま隅へ歩き、座り込んで大きくため息をついた。
「交代、高津は演奏。次、小笹。」
内田先生が言うと、「はい」という小さな返事が聞こえた。
1年生、パーカッション担当の小笹糸。
ピアノを少し習ったことがある。
喘息持ちで、あまり朝練には参加しない。 走る練習や呼吸練習以外のメニューの時だけ来ることになっている。
走ると発作が起こりやすく、かなりしんどいらしい。
楽譜はすらすら読めるので、主にシロフォンなどの鍵盤系を担当している。
「課題曲、お願いします。」
小笹さんは前を向き、礼をした後、指揮台へ上がった。
指揮棒を構えた。
奏者たちも一斉に楽器を構える。
3、4と振って、1から音を出した。
俺はまた、途中で譜面にかじりついてしまった。
でも――次は自分だから、何とか指揮を見ようとした。
4拍子の振り方をずっと続けている……と思ったら、左手で何か動きをつけている。
目線もきっと、その左手の動きと同じように、演奏してほしいことを伝えているんだと、 ようやく理解した。
俺、あんなふうにできない……。
途中で音も出せなくなってきた。
息を吸っても、すぐに足りなくなる感覚で――。
譜面も、どこを演奏しているのか、わからなくなってきた。
そのうち、音も出せなくなり、譜面を見つめたまま、 ただ構えて、終わるのを待つ状態になっていた。
終わりの4小節が聞こえ、ようやく指揮を見た。
指揮棒が止まり、下ろされたタイミングで、楽器をおろした。
俺はただ、吹いているふりをしていた。
小笹さんは指揮台を降り、礼をして、隅へ歩いた。
「交代、小笹は演奏。次、鈴木。」
内田先生が言った。
俺は、小さく「はい……」と返事をして、楽器を椅子に置いた。
のぞみ先輩と絵馬先輩の笑顔が見えた。
こそこそと「たくみん、頑張れ」という声も聞こえる。
俺は、小さく「はい」と答えた。
前へ出て、内田先生から指揮棒を受け取った。
「課題曲……お願いします。」
指揮台の前で礼をした。
OB・OGの人たちの視線が刺さる。
指揮台へ上がる。
奏者全員の目が俺に向かう。
無表情なみんなの視線が、すごく怖くなった。
指揮棒を構える。
奏者が構えて、俺を見る。
……どう振り始めたらいいんだっけ?
誰にも聞けない……。
圧が……すごい。
さっきの二人、どうしてたっけ?
その前の内田先生は、どうやってたっけ?
この棒を動かしたら、音楽が始まる……?
「……う……。」
吐き気がして、腹と口元を押さえ、しゃがみ込んだ。
気持ち悪い……。
目がぐるぐる回る……。
内田先生とOBの人が近くに来た。
俺は、指揮棒を先生に渡す。
内田先生は静かに言った。
「交代、次。」
俺は、OBの人に付き添ってもらい、トイレへ向かった。