50.足りない実力と広がる焦燥感
内田先生が戻ってきた。
「この後の合奏練習はなしにする。
明日、一日合奏の予定だったが、変更して一日指揮練習にする。」
指揮練習? 何それ?
「二、三年生は分かっていると思うが、一年生は初めてだな。 私ではなく、部員が一人ずつ指揮者として、 最初から最後まで指揮を振る。
この練習の目的は、 指揮を振ることで音楽の全体をつかむこと、 部員の音を聞くこと、 指揮以外の部員は奏者として指揮に合わせる演奏をすること。 他にもいろいろあるが、 トレーニングを通して演奏体力や集中力を養うことでもある。」
え、指揮やるの? 俺も? さすがに俺はやらなくても……。
先生は続けて言った。
「今年は一年生もやってもらうことにした。 二、三年生は去年を経験しているから、ある程度できて当たり前だ。 指揮台に立ったら、先輩後輩関係なく『奏者』だ。 一人の奏者として全力を尽くすこと。」
そして最後に、
「この後、六時まで自主練、パート練、セクション練、 それぞれ話し合って進めるように。」
部員たちは「はい」と返事をした。
先生は再び音楽室を出ていった。
音楽室がどよめいた。 特に一年生の動揺が大きく、各パートでなだめる場面があった。
俺もその一人だった……。
「指揮なんてできるわけないじゃないですかー!」
そう言うと、のぞみ先輩が笑いながら言った。
「まあまあ、四拍子を振り続ければOKだよ。」
そう言って、実際に四拍子の形を振って見せてくれた。
それでも、いまいちわからない……。
すると、山田先輩の声が響いた。
「一年生、前に集まって。 指揮の簡単なレクチャーをします。 他の人はパートの部屋へ移動してください。」
「はい」という返事の後、一年生全員が黒板の前に集まった。
山田先輩が話し始めた。
「明日は内田先生になったつもりで指揮をやってみてください。
うまくやろうとしなくていいです。
一年生がいきなり指揮を完璧にできるなら、もう楽器をやらずに指揮をやったほうがいいですからね。
できなくて当たり前。
目的は『奏者の音を聞く』こと。
自分の席で聞くのではなく、前で、お客さんのつもりで。
でも、指揮者は観客を背中で読み取っているんですよ。
まず、それを実感することが大事です。」
……背中で感じるって何を?
それが指揮にどう変わるの?
後ろを振り返るわけじゃないし……正直、何を言っているのかわからない。
山田先輩は黒板にぐねぐねの線を三つ書いた。
「右が四拍子、真ん中が三拍子、左が二拍子。
自由曲は途中で拍子が一小節で変わるところがあるから、 とりあえずこの三パターンを覚えよう。
まず、二拍子は上下。」
一年生に向かって指揮を振る。
その後、黒板の方に向き直り、
「一緒にやってみて。いち、に、いち、に……」
全員が山田先輩のカウントに合わせて腕を上下に振る。
先輩がメトロノームを持ってきて、テンポ七十ぐらいで振った後、 百二十に変えて振った。
一年生はそれに合わせていった。
同じように、三拍子、四拍子を練習した。
腕はなんとか振れるけど、 一人でメトロノームに合わせるとなると、正直自信がない……。
三十分ほどその練習をした後、 楽器や楽譜を持ってパート練習の部屋へ向かった。
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いつものホルンの部屋へ向かうと、中から話し声が聞こえた。
ホルンの先輩とサックスのメンバーがそろっている。
白川先輩はホルンの教則本と楽譜を持っていた。
ノックして「失礼します」と挨拶し、部屋に入る。
絵馬先輩の「あ、たくみん、おかえり。」という声で、 みんなが俺に注目した。
後からサックスの一年生も入ってきた。
白川先輩が言った。
「ホルンの装飾音符って、結構大変なんだな。
これ、どうやって練習するんだ? 思った以上に難易度高いな……。」
そう言いながら、頭を掻きつつ教則本をめくる。
そして、ホルンのマウスピースを持っている……。
内田先生に「他の楽器を吹くな」と言われていたはずだが……。
怖くて何も言えない。
「指、三つしか押すところないじゃん。
すぐパターン尽きるのに、どうやって出してんの? って思ったら、口かよ。
正直、サックスでよかったわ。
俺にはこれはできねえわ。」
……ですよね……。
最初に思ったこと、一緒です。
でもホルンって楽しいんですよ……。
そう思ったけれど、言わなかった。
まだ少し怖い。
白川先輩は続けた。
「鈴木、これ、装飾音符ムズくないか?
装飾音は二、三年に任せて、 装飾音符を外した音だけ吹くっていうのもありじゃないか?」
……いいの? と、少し期待したのも束の間、
「それって、たくみんのこと、バカにしてない?」
のぞみ先輩が鋭い声で言った。
白川先輩は落ち着いて答えた。
「いや、ホルンの場合、どこがネックになるのかを考えただけだろ。
音楽を作り上げるのに、そこでつまずいて先に進めなくなるくらいなら、 できるところから参加するのもありだろ。」
「まだ始めたばかりでしょ!
これからやっていくのに、いきなり妥協させるなんてありえない!」
「鈴木に無理をさせて、できなくて挫折したら困るだろ!
まずはできるところからやらせろって話だろうが。」
「できるかできないかは、これからの練習次第でしょ!
いきなり低いレベルで満足するなんて、しない!」
「時間は限られてるんだぞ。
もう他の学校で金賞を取るようなところは、 表現をどうつけるかって練習をしているんだ。
装飾音抜いて音を出すだけでも、結構無理な音域なら、 まずは装飾音以外を鳴らすことは低いレベルでも何でもない。
できるところで一緒にやってカバーすることも考えようって。」
「金賞を取るなら、なおさら個人のスキルだってごまかせないでしょ。
それまでに上げる努力の時間はある。」
「個人のミスが目立ったらマイナスになることだってあるんだろ?
それよりは、全体で一体感を出すための戦略としての切り替えも、 ありだと思うけど。」
のぞみ先輩の期待してくれる気持ちと、 白川先輩のフォローしようとしてくれる気持ち。
……いたたまれない。
俺のせいで先輩たちが揉めている。
自分が下手だから……。
好きなだけでは足りない。
すごく心が痛い。
コンクールに出たくないような、重い気持ち……。
両者が黙ってにらみ合った。
空気が重い。
その時、バリトンサックスの三年の女性の先輩が言った。
「あのさ……。
今、お父さんとお母さんが目の前でけんかしていて、 不安になった気持ち、思い出しましたわ。
やめてよ、仲良くしてよ、笑顔でいてよ……っていう。」
のぞみ先輩が
「夫婦じゃない!」
と言うと、 バリトンサックスの先輩が
「そこじゃない!鈴木が自分のせいでけんかしてるって思ったら、鬱になるでしょ。 かわいそうに。」
と言い返した。
のぞみ先輩と白川先輩は「あっ……」という顔で俺を見た。
俺は、小さく言った。
「……ごめんなさい。」
下手すぎて、ごめんなさい……。
もし俺が上手かったら、どうやって表現するかの議論で揉めるんだろう。
そういう学校が金賞を取るんだ。
きっと楽器は吹けて当たり前で、 その上でどう演出するかを考えていくのが重要なんだろう。
全国大会どころか、金賞も取れなかったら、 その原因の一つはきっと俺のせいかもしれない……。
白川先輩は言った。
「あ、俺こそごめん!肝心な鈴木の気持ちを忘れてた。」
のぞみ先輩も言った。
「ごめんね、いろいろ違ったんだよね。」
二人とも、あわてていた。
すると、バリトンサックスの先輩が聞いた。
「鈴木はどうしたい?どう考えてる?」
俺は、考えながら言った。
「……俺、この部分、吹かないのがベストなんじゃないかって……。 でも、吹ける部分は頑張ります。」
「え?」という声が聞こえた。
白川先輩は手で目を押さえ、 のぞみ先輩は口元を押さえた。
バリトンサックスの先輩は冷たい口調で言った。
「一番悪い選択をさせてしまっている。 そりゃそうだよね。」
俺は分かっていた。
「すみません。俺、まだ音域も狭いし、 リップスラーもできてないんです。
対策として今日は、かえるの歌ときらきら星を 他のスケールでも練習して、曲が演奏できるようにします。
今日は曲はできなかったけど、練習します。
もう少し時間をもらって、練習の過程でまた検討してもらえませんか?」
俺のこの意見は、ただの場しのぎだ。
いずれ、近いうちにまた同じことで揉めることは分かっている。
でも、その時までに、自分なりに答えを出そうと思う。
のぞみ先輩と白川先輩は言った。
「ごめんね、たくみん。」
「俺も、ごめん。」
俺はできるだけ明るく言った。
「俺は大丈夫です。 すみません、サックスのパート練のお部屋借りますね。 頑張ってくださーい!」
できるだけ明るく、部屋を出た。
「あ、待って……」
という声が聞こえたけれど、 聞こえないふりをして教室を出た。
自分には、まだまだ足りないことが多すぎる……。
涙が出てくる。
最近、泣いてばっかりだ。




