44.保険と避難、楽器を守るための準備
今日の部活は、1年生を含めた基礎合奏だった。
入部当初に全員に配られる「基礎合奏の教則本」をもとに進めていく。
最初のページは、短い音で音階を合わせるものから始まり、 次第に和音やリズムなど、さまざまなパターンがあった。
俺はホルンの2ndの教則本を渡された。
急いで音名と指番号を書き込む。
音出しもそこそこに、基礎合奏練習が始まった。
山田先輩の「起立、礼、お願いします」の号令の後、 部員たちが「お願いします」と声をそろえ挨拶した。
この基礎合奏練習では、クラリネット1の3年生、船田先輩が指揮台に座り、 ハーモニーディレクターとクラリネットを使って練習をリードしていく。
その間、内田先生は部員の様子を見て、癖を直すよう指摘したり、 間違った音に気づいていない部員に声をかけたりしていた。
俺は、初めての合奏参加に緊張して、ほっそい音しか出せない。
それでも、何とか混ざろうと、チューナーで音が正確と分かったら、大きく出すようにした。
すると、すかさず山田先輩から指摘が入った。
「音は頭から終わりまで、同じ音量で出すように心がけてください。 音のバランスが崩れます。」
部員の「はい」という返事。
……そうです、俺です。 いきなり正確な音を出せる自信なんて、持てるわけがない。
泣きそう。 緊張するし。
船田先輩の合奏でここまで緊張するのに、 内田先生の合奏だったら、俺は緊張で吐くかもしれない。
合奏中、下からガンと突き上げられるような衝撃があった。
すると、すぐに揺れ始めた。
地震だろうか。
内田先生の怒号が響いた。
「全員、頭を椅子の下へ!」
すぐ後に、サイレン音とともに、
「地震です」
という自動音声が繰り返し流れた。
譜面台が倒れ、譜面が散らばる。
慌ててホルンを抱え、頭を椅子の下に入れた。
内田先生はドアを開け、振り返ると、怒鳴った。
「お前は何をしてんじゃ!」
椅子から覗き込むと、左前にいたチューバの先輩が、 チューバを抱きかかえたまま、自分がかぶさっていた。
「とっとと頭を中に入れろ!」
内田先生はチューバの先輩の衿をつかみ、チューバからはがす。
力づくでしゃがませ、頭を椅子の近くに押し込んだ。
あ、昨日話した先輩だ。 チューバだったんだ。
最近、ちょいちょい地震はあったけど、 こんなに揺れるのはいつぶりだろう……。
他の教室から来た先生が、スマホを持って走ってきた。
スマホのバイブとサイレンが鳴り響いている。
どこの先生かはわからないが、こう言った。
「震度5とのことです。」
サイレンが鳴り、「地震です」の自動音声が繰り返し流れ続ける。
譜面台が次々と倒れ、 寄せて重ねた机の一つがゴンと音を立てて落ちた。
……長い……。
まだ続くのか、それとももっと大きく揺れるのか……。
不安がどんどん大きくなった。
しばらくすると、揺れが小さくなり、 次第におさまり、サイレンの音も止まった。
内田先生が言った。
「出てきてOK。体形を整えて。」
部員たちはそれぞれ、譜面台を直し、譜面を拾い、 ずれた椅子を元に戻して、いつもの合奏体形に戻した。
内田先生は椅子に腰をかけ、話し始めた。
「命」
短く、その言葉を口にした。
「前に、楽器は命だと言った。
楽器を落とすくらいなら身を挺して守れと。
落としたりぶつかったりしたら容赦はしないとも言った。
それは、日常の練習、移動時、演奏活動の中で、楽器に細心の注意を払うことを意味する強い表現だった。
だが、地震となれば話は別だ。
そして今のように強い地震の時は、何よりも自分の身を守ることを優先しなさい。
わかったな、田中。」
内田先生が厳しい視線を向けた先には、チューバの田中先輩がいた。
田中先輩は泣いていた。
あの大きな体から流れる大粒の涙は、何を意味しているのだろう。
いつもなら、先生に注意されたら、部員は「はい!」と返事をするところだ。
しかし、田中と名指しされたうえに泣いていることで、音楽室には田中先輩のすすり泣く声が響いた。
「田中、今は震度五だ。耐震基準を満たした校舎にいるから、無事だったんだ。 わかっているか。」
田中先輩は泣きながら、小さな声で「…はぃ…」と返した。
あの大きな体から出ている声とは思えない。 まるで三歳児が怒られて泣いているようだった。
内田先生はため息をつき、気持ちを落ち着かせるようにして、冷静な口調で続けた。
「何であんな行動を取った?
避難訓練で、地震が来たら頭を守るために机の下に入る、 もしくは頭を守る行動を取れと、幼稚園・保育園のころから、小学校、中学校と何度も訓練してきたはずだ。
実際に地震が来たときも、そのようにしてきたはずだ。
なのに、今日の行動はおかしい。何であんなことをした?」
田中先輩は、涙をこぼしながら口を開いた。
「みんなの楽器は自分の体で持てるけど、チューバはそれができないんです。
もし楽器が壊れたら……僕の大事な……まさゆきが……。」
「はあ?!」
内田先生が眉間にしわを寄せて、少しイラついた様子で聞き返した。
田中先輩は、泣きながら続けた。
「このまさゆきは……チューバにまさゆきと名付けています。 まさゆきが傷つくくらいなら、俺が守ります。 まさゆきがいなくなったら、俺、生きがいがなくなります……。」
……。
内田先生は固まった。
数人の部員が肩を震わせている。おそらく笑いをこらえているのだろう。
俺は呆気にとられた。
でも、その気持ちが少しだけわかる。
ホルンに出会ったことで、少しわくわくするようになったからだ。
内田先生は、はっと気持ちを取り戻したようで、静かに言った。
「楽器を大切に思う気持ちは分かった。
だが、その前に命だ。
田中がまさゆきに息を吹き込まなかったら、音を出すか?
田中に死なれて、まさゆきは悲しまないか?
息を吹き込まれてこそ楽器なのだが……。」
田中先輩は、はっと気がついたような顔になり、涙が止まった。
部員の数人が吹き出した。
田中先輩は、申し訳なさそうに顔を伏せて、しぼり出すような声で謝った。
「俺が間違ってました……。ごめんなさい。」
内田先生は目を閉じて、呆れた様子でうなずいた。
それでもまだ、数人の肩が震えている。
内田先生は続けた。
「こういう自然災害の時は、命優先の行動を取ること。
部員全員、私は責任を持って親御さんからお預かりしている大切な命だ。
分かったな。」
部員全員が「はい」と返事をした。
内田先生は部員を見渡しながら言った。
「怪我はなさそうだな。
次に楽器の確認をしてほしい。
地震でとっさに置いた場所で、揺れによる影響があるかもしれない。
各自、十分ほど軽く音階や曲などを吹いてみて、楽器に異常がある場合は手をあげること。」
部員たちは「はい」と返事をし、それぞれ楽器を吹き始めた。
自分のホルンは……音が出ないのは、自分の腕がまだ足りないからで……。
レバーも動くし、管も抜けるし、特に傷もない。
多分、大丈夫……だと思うけど、不安なので、隣ののぞみ先輩に声をかけた。
「多分、大丈夫だと思ったんですけど、吹いてみてもらえませんか? ちょっと不安で……。」
のぞみ先輩は軽く「OK」と言ってくれて、マウスピースを外し、自分のホルンを椅子に置く。
俺のホルンを受け取ると、のぞみ先輩はマウスピースを付けて、試しに音階や曲を吹いてくれた。
吹く人が違うと、こんなに音が違うのか……。 軽く凹んだ。
のぞみ先輩はにっこりして言った。
「うん、大丈夫だったよ。今回の地震では影響なかったけど、 また何かあったら声をかけてね。」
ホルンを受け取って、マウスピースを差し込む。
「ありがとうございます…… てか、本当に弘法筆を選ばずってこういうことですよね……。」
一瞬、疑問そうな顔をしたが、意味が通じた瞬間に
「もー、たくみんかわいいこと言うんだからー!」
と言って、背中をばしっと叩かれた。
危なくホルンを落としそうになり、ヒヤッと焦ったが、落とさずに済んだ。
思わず笑顔になった。
次に目の前で北野先輩が手を上げた。
内田先生が近寄っていくと、北野先輩は先生の耳元で何かを言いながら、フルートを見せていた。
目には涙をためていた。
内田先生は北野先輩のフルートを持ち、いろいろと動かしながら音を出していた。
内田先生、フルートもできるんだ……。
動かしながら調整して、北野先輩の耳元で何かを言った。
表情はこわばっていたが、内田先生が背中をトントンと叩いて、音楽準備室へ連れていった。
少しして、内田先生と北野先輩が楽器のケースを二つ持って戻ってきた。
内田先生は周りを見渡し、一通り部員の様子を確認した後、両手を大きく上げて言った。
「いったんストップ」
そして続けて尋ねた。
「楽器の異常があった人はいるか?」
部員たちは確認しながら首を振った。
田中先輩も大丈夫だったようで、もう笑顔になっている。
内田先生は話し始めた。
「今、フルートが一本調整が必要なため、修理に出す。
原因は、おそらくだが、地震が大きくなった時、守ろうとして、 慌てて管を分解し、ブレザーの中に入れた際に、キーが少し歪んでしまったようで、動きが重くなった。」
だから泣きそうになっていたのか……。
北野先輩はぽろっと涙をこぼした。
それまで使っていたフルートをケースに戻し、別のケースから新しいフルートを取り出した。
内田先生は続けて話した。
「こういう時のために、楽器の保険をかけている。
地震や災害の際、修理が必要になれば保険が適用される。
だから、楽器への思いはあるだろうが、まずは避難を優先してほしい。
これは顧問としての命令であり、厳重注意であり、お願いである。」
そう言った後、内田先生は気をつけの姿勢になり、深くお辞儀をした。
音楽室に静寂が訪れる。
あの内田先生が、頭を下げている。
そんなことがあるのか、と驚いた。
しばらくして、内田先生は顔を上げ、ゆっくりと言った。
「もし部員に何かあれば、万が一地震で避難できず、命を守れなかった場合、 親御さんが悲しむだけでは済まない。 私が命を賭してお詫びをしたところで、皆の命を守れなかった責任を取ったことにはならない。だから、己の命は己で守れ。 私を切腹させるな。」
その言葉に、部員たちは一斉に「はい」と返事をした。
内田先生は声を荒げて言った。
「本当にわかったのか!」
部員たちはさらに大きな声で「はい!」と返事をした。
場の雰囲気が少し落ち着かないようだったので、 三十分ほど休憩してから、再開することになった。
のぞみ先輩が声をかけてきた。
「急いでたから、2ndを渡したんだけど、今のたくみんの音域だと4thのほうが出しやすい?
ハーモニーの感覚をつかんでもらいたくて…… 今、私が一番で、絵馬ちゃんが3rdで、その間の音を出してもらえると助かるんだよね。 安定するというか……」
見てみると、多分かえるの歌の音域は4th。
今の自分にはこっちのほうが合っているかもしれない。
でも、少し頑張れば二番もできるかもしれない。
「両方やってみます。
今できるのは4thですが、今の人数的に必要なのは二番ですよね。
個人練習の時間に試してみます。
今日のは何とかできましたけど、 あとのほうのページを見ると、ラより上の音もあったので、もう少し練習したいです。」
そう言うと、のぞみ先輩も絵馬先輩も「おお」と言って、
「ありがとう、頑張ってね。パート練のとき、これもやろうね!」
と声をかけてくれた。
早くできることを増やしたい。 合奏が怖くならないように。
合奏や舞台が怖くて逃げたい。 早く混ざりたくて焦っている。
矛盾しているけれど、どちらも本音で、心が分単位で揺れている。