43.怒りの裏にあるもの、混ざり合う感情
家に帰って、夕飯を食べている間も、吹部で出されたペーパーのことが頭の中でぐるぐるしていた。
喜怒哀楽をそれぞれ書き出すって……道徳の授業みたいだ。
別にそれが成績に直結しないのがよかったけど、そういうことのほうがなぜかやる気になる。
喜、怒、哀、楽……。 喜びと楽しさって、何か似ている気がするけど……。
喜んだこと、過去の出来事でもいいと言われていたな。
サッカーの試合でシュートを決めたこと、勝ったこと、トロフィーをもらったこと—— でも、今となっては悲しい思い出になってしまった気がする。
違うことにしよう。
ホルンの音が出たこと。 でも、かえるの歌すらまともにできなくて、悔しいんだよな。
違うことにしよう。
新しくSlackを知ったこと。 LINEで苦い思いをしたから……。
違うことにしよう。
俺、最近喜びって感じてるのかな。
少し後回しにしよう。
楽しいことを探そう。過去の出来事でもいいって言っていた。
リフティング、膝だけじゃなくて、足先を使って、技を組み合わせて—— 使える体の部位が増えると回数が上がって、すごく楽しいんだよな……。
もうトラウマだけど。
違うことにしよう。
ホルンの音を出せたこと。 ……でも、その先に全然進めていない。
違うことにしよう。
余裕だと思っていたのに、全然まとまらない。
哀しみ……これは、悲しいことでいいんだよな。 佐藤の裏切りLINEを見てしまったこと。
怒り……サッカー部のやつ、何で言ってくれなかったんだよ。
でも、もし言われたとして、俺はそれを聞き入れていたのかな。
何か、気持ちが沈んだ。
今日はやめよう。 でも、いつまで経ってもできる気がしない。
怖いけど、内田先生に言ってみるか。 それとも……。
学校の宿題をやろう。
なぜか、学校の宿題が簡単に思えてきた。
正解がある問題を解いて、覚えることのほうが楽だったんだ。
以前の自分では考えられないけど、今は勉強のほうに逃げている。
朝練は昨日と同じだった。
学校の周りを二周走った後、音楽室で呼吸練習となった。
二拍吸って、八拍出す。
昨日より、吸う拍が短くなり、出す息が長くなる。
十分ほどで二酸化炭素濃度計のブザーが鳴ったので、練習はそこで終わりとなった。
時間ぎりぎりまで換気をして、窓を閉めて教室へ向かった。
吹部の朝練とは、こういうことだったのか。
以前、「何やってるんだろう?」と思っていた疑問は解けた。
これはぐったりもするな。
一時間目の授業は、ほとんど頭を素通りしていく。
二時間目が終わった後の移動中、内田先生が見えた。
思わず声をかけた。
「内田先生!」
無言で無表情のまま振り向く。
「なんだ、鈴木か。どうした?」
「昨日、吹部の宿題なんですけど……俺、できませんでした。」
「できないとは、どういうことだ?」
相変わらずの無表情で問いかけてくる。
俺は昨日、書きなぐった紙をポケットから出して、内田先生に見せた。
「喜怒哀楽の喜びとか楽しみとかなら書けると思ったんです。
でも、その後に悲しいことになったりとかして——
あれって本当に楽しかったのだろうか、って考えてしまったり。
怒ったことと悲しかったことが同じ出来事だったりして、混乱してしまったんです。」
内田先生は俺の紙を見ながら、黙って話を聞いていた。
無言になった。
この圧も苦しい。 息がしづらくなる。
「いや、できてるじゃないか。」
ふと先生の顔を見ると、口角がほんの少しだけ上がっている。 何でだ?
「今の時期の中学生は、いろんな感情がぐちゃぐちゃになるんだよ。
特に鈴木は、そういう経験をしているよな。
鈴木の言う通り、感情は混ざっていることのほうが多い。
喜怒哀楽の四つに、きっちり分かれているわけじゃないんだ。
目の前の出来事に、怒りと悲しみがあった。
それを自分で分析できているところが、いい。
まさか、ここまでできるとは思っていなかったからな。」
……ほめられた?俺。
「吹部の課題としては、これでいい。
あと、余力があればだけど、もっと簡単なことでもいい。
例えば、喜びなら、天気が良かった、とか、給食が好物だった、とかでもいい。」
そう言って、内田先生は昨日配ったものと同じ紙を渡してきた。
「もっと小さいことでもいい。
それから、時系列も考えなくていい。
シュートが決まった。嬉しかった——それだけでいい。
感情については後日、少し説明するけど、 鈴木は、同じ出来事で悲しみと怒りを感じたって言ったな。
その通りで、怒りの下には悲しみが隠れているんだ。
怒りになる前に、悲しみがあることを認識できると、怒る回数は少なくなる。
怒ってばっかりいるやつは、悲しみを抱えていることが多いんだ。
あ、長くなったな。 他に聞きたいことはあるか?」
「じゃあ、吹部の課題はこれでOKということでいいんすね?」
「いい。」
「ありがとうございます。失礼します。」
と言って、次の授業へ向かった。
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有岡先生が内田先生に近づき、問いかけた。
「カウンセリングですか?」
内田先生は少し間を置いてから答えた。
「…そうなっていたらいいんですけどね…。」
有岡先生は続けて尋ねた。
「鈴木、カウンセリングを進めたほうがいいですかね?」
内田先生は少し考え込むように言った。
「うーん……。一応、案内を渡しておいて、様子を見て待つ……でいい気がしました。
感情を整理していましたよ。
感情を分類して、時系列での変化を見ていたようです。」
有岡先生は目を少し開いて、「おっ?」と驚いたような表情を見せた。
内田先生は続けた。
「カウンセラーさんの力を借りて、心を整理させていくのも一つの手なんですが…… 実は、このまま感情が揺れている状態で、鈴木がどんな音を出すのか、 音楽的に興味があってですね……。」
有岡先生は、その言葉ににこっと笑顔になった。
「鈴木も大物になれますかね?」
内田先生は、少しうなずきながら答えた。
「可能性を感じましてね。」
有岡先生は、「わかりました、ちょっと見守ります。」と言い、 軽く会釈して、その場を後にした。