42.厚い扉の向こうの音
個人練習をしていたら、いつの間にか18時になっていた。
あわてて チューナーマイク を外し、チューナーの電源を切る。
マイクのコードをチューナー本体にくるくると巻きつけてポケットに入れた。
右脇に ホルン、左手に 譜面 を持って、音楽室へ向かう。
中ではまだ、合奏練習が続いていた。
緊張感がえげつない。
とてもじゃないが、この戸を開く勇気がない。
ドアのガラスから、こちらが見えない角度に身を隠した。
先生が何か話している。 それに部員が「はい」と返事をしている。
その後、演奏が聞こえては止まる—— 先生が話す、部員の 「はい」 という返事が聞こえる、また演奏——
それが延々と繰り返されていた。
「鈴木、なにやってんだ?」
——体が びくっ となる。
声の方へ目を向けると、有岡先生だった。
「……あ……練習終わったんで、入ろうと思ったんすけど……。」
と言うと、有岡先生は中をのぞいて、
「これは入れんわな。」
と、うなずいていた。
気がつくと 1年生5人 が、楽器を持って入口に立っていた。
全員、上履きの色が 1年生 のものだった。
コンクールに全員出られると思っていた。 俺を含め 6人、出られないのか……?
入部前に、内田先生が言っていた 「全員レギュラー」。
それはきっと前提として、 「合奏に参加できるレベルであること」 という意味だったんだな。
そりゃそうだ。
最低限 ルールを知っていて、 ボールを蹴れて、パスが出せるやつじゃないと、試合に出ても何もできない。
俺は まだリフティングをしているだけなんだ。
この廊下と音楽室の間の 一枚の戸 が、とても 分厚い。
漏れ聞こえる音は、同じ中学生が出している音とは思えない。
俺、コンクール、出たくないな……。
かえるの歌 で疲れ切った。
こんなんで、12分間のステージ に耐えられるとは思えない。 特に 緊張感。
サッカーの時はどうしてあんなに長時間走り回れていたんだろう?
中から 「ありがとうございました!」 という声が聞こえた。
山田先輩 が戸を開けて言った。
「ごめんね、待たせて。 入って楽器しまった後、机戻すの手伝ってほしい。
すぐミーティングするから。」
「はい。」
と言って、中へ入る。
ミーティングが始まった。
部長が 出欠状況の確認 をした後、 内田先生が 何か紙 を配り始めた。
そこには 大きく縦に4つの枠 があり、 それぞれ 「喜」「怒」「哀」「楽」 と書かれていた。
内田先生が話し始めた。
「今度の土曜日は一日練習となる。 コンクールの合奏練習だけではなく、 感情解放レッスン を行う。
講師は外部から 演出家の方 を呼んでいる。
今のこのワークシートには、
自分が喜んだ時、怒った時、悲しい時、楽しい時—— または、過去にあったこと でもよい。
それを記入しておくこと。
これは、人に見せるものではない。
レッスンの時に スムーズに進めるためのメモ なので、 自分がわかるように 書いておけばいい。
文章が望ましいが、難しければ 絵や記号、写真など でもよい。
終わった後は シュレッダー にかけるので、 安心して本音を書いてほしい。
それがレッスンを短時間で 良い効果をもたらす ものとなる。
だから、できるだけ正直に。
ただ、これは 精神的な疲労を伴うもの でもある。
特に ネガティブで深いもの だと、かなり負担がかかる。
通常の授業や宿題、部活の中でこの課題をこなすのは 大変 だが、コンクールの準備の 一環として、真剣に取り組んでほしい。」
「はい!」
部員たちは 声を揃えて 返事をした。
感情解放?
先輩たちは、こそこそと
「またこの季節が来たんだね。」
と話していた。
内田先生は続けて話した。
「もうすぐ夏休みだが、その前に土日のどちらかを使って、 1日中、3年全員が 指揮台 に立ち、課題曲・自由曲の両方を指揮する。
1人 15分 ずつとして、3年 11人。 合奏は 3時間近く ぶっ通しになるな……。
……あ、今思いついたが 2年もやろう。
午後は 2年が 一人ずつ指揮をやる。 いや、午前が 2年 で、午後 3年 とするか……。
今年は 2年と3年、両方やる。
スコアの読み込みをしておくように。 というか、もう暗譜しておけ。」
部員が 「はい」 と返事をした。 気のせいか、少し弱々しかった。
へー、すごいことやるんだな、吹部って。 内田先生みたいに、全員指揮やるんだ……。
先輩たち、すげーな。
と思っていたら——
「1年、おのれらもやるか?」
内田先生が言った。
「音を出すのに時間はかかるだろうが、指揮なら 台に立って振るだけ だ。 そうだ、そうしよう。
1年は 課題曲か自由曲 のどちらかでいい。 スコアを読み込んで できると思う方を振ってもらう。」
なぜか とても楽しそう だった。
えっ? 俺も?
他の1年も 激しく動揺 していた。
内田先生は続けて言う。
「まあ、1年は最悪 台に立って、テンポ通りに1、2だけ指揮棒を振ればよし とする。
他の 2年、3年 は 表現を含めて 考えて振ること。
おのれらの振り方を見て、 『あー、私はこうやって見えてるんだな』と判断する。
手を抜いたら、色々容赦しない。」
部員たちの 悲鳴 が響く。
「きゃー!」 「うそぉー!」 「できるわけないじゃん!」 「まじかよ!」
その声を 却下 するように——
「返事!」
内田先生の 一喝。
部員は つい
「はい!」
と答えてしまう。
あー……まじか……。
部員の半数の顔が ムンクの叫び になっていた。 きっと 俺も。
そんな部員の顔を見て、内田先生は後ろを向いた。
きっと、笑っている。 そんな気がした。
数少ない 内田先生が笑う時の癖。
一瞬、顎を上下に揺らす。 後ろ姿でも、その 微妙な動き が、頭と髪から伝わってくる。
楽しんでるんだ……。
内田先生が くるっ と部員たちのほうに向いた。 無表情。
「はい、今日はこれにて。」
山田先輩の号令
「起立、気を付け、ありがとうございました。」
その後、部員全員が 「ありがとうございました!」 と お辞儀をして、今日の部活は終わった。
帰り道
帰り、下駄箱 で靴を履き替え、校門へ向かう途中——
黒沢と、トランペットの先輩 が話しているところへ近づいていった。
「なんですか? 感情解放とか指揮練って?」
黒沢が聞く。
「感情解放は 自分の喜怒哀楽の状態を知る こと。
そして、それを 音にする にはどうすればいいか—— それを学ぶレッスン。」
先輩が答えた。
「指揮練は、いろいろ目的があるけど、
① 合奏練習に耐えられる 体力・気力・集中力をつける。
② 解釈や表現 を伝える。
③ 暗譜の確認 をする。
④ どこがしくじっているのか を自分で気づけるようにする。
……いろいろあるみたいだけど——正直、めっちゃくたばる。
去年、あまりにも疲れて、いったん 休憩で1時間寝た んだよ。
全員ぐっすり。 起きなかった先輩、後輩が必死で たたき起こしてた。」
黒沢と俺、そして いつの間にか合流していた1年生たち が悲鳴を上げる。
先輩は 「まあ、でも面白いと思うよ。 非日常だから。」
と 笑顔で言った。
「それ本当ですか? なんかごまかしてるように見えたんですけどー?」
黒沢が聞くと、先輩は
「ふっ、そうでも思わないとやってられない。」
と 真顔 になった。
再び 1年部員の悲鳴 と ムンクの叫び顔。
その時——
「こらー! お前らさっさと帰れー!」
後ろから 生活指導の先生 の怒鳴り声が聞こえた。
「もうすぐ完全下校時刻だ! とっとと門から出て 家帰れー!」
めっちゃ怒ってるじゃん。
その場で ミーティングの内容について話していた他の吹部員たち が、 一斉に 門の外へ走っていった。
珍しく、吹部の部員たちがまとまって帰る道になった。
珍しく、隣を歩いているのは黒沢ではなかった。
黒沢は トランペットの男の先輩 と、いろいろ話していた。
そして俺の隣には、初めて話す男の先輩 がいた。
「どう? 部活に慣れた? 途中だから、ついていくの大変かもしれないけど。」
声は低く、それでいてゆったりとした、やわらかい口調だった。
同じ中学生でも、こんなに体格差があるんだ——そう感じた。
「いや、全然です……。かえるの歌 で精一杯で……。」
先輩は
「そっかー。」
と言った後、
「短期間でそこまでできてるのがすごいよ。
僕はね、中学の吹奏楽部に入って、初めて音楽をやることにした。
でも、マウスピースを鳴らすことすらできなくて—— 音が出せるようになるまで 1か月 かかったんだ。
君はすごいね。」
にこにこと やんわり 話してくれた。
その言葉に、少し緊張がほぐれる。
先輩は続けた。
「早く一緒に合奏できるといいなあ。」
俺は、さっきまで コンクールに出たくない と思っていた。
あんな 緊張感のある合奏 の中に入るのが 怖かった。
「俺は……あの緊張感の合奏に入る勇気が出ません……。」
本音をそのまま口にした。
先輩は きょとん として俺を見た。
「うん、そうかもしれないね。
でも、思い切って 混ざってごらんよ。
見てるより、演奏する方が楽しい から。
外から 見ているだけ だと、怖いよね。」
またにこにこ、やんわりと話しているが——
内容は、結構ハードル高いんじゃないか?
実は、厳しいことをさらっと笑顔で言う怖いタイプの人?
と思ったら、先輩はふっと微笑んで言った。
「鈴木君は、とっても正直 だから、演奏が とっても楽しみ なんだ。」
「どういうことすか?」
そう聞くと、先輩は優しく言った。
「楽器とか音色って、嘘をつかないんだ。
今日 かえるの歌 を聞こえてたけど、吹きたい音があるんだよね。
楽器が、それに応えようとしている。
君は 楽器と仲良し になってる。」
まるで、幼稚園児に言い聞かせている先生 のようだった。
話の途中で、帰り道が集団と離れた。
「お疲れ様でーす。」
と挨拶し、黒沢は
「たくみん、また明日なー!」
と手を振ってきた。
クラスの女子2人も
「たくみん、じゃーねー!」
と手を振る。
手を振り返すと、部員のみんなが 笑顔で手を振ってくれた。
一人になるこの道で、今日はなんとなくほっこりした。
多分——視野が狭くなってたんだ。