03.母の涙と、俺
異変にいち早く気づいたのは、母さんだった。
食欲がなくなり、布団から出られなくなった俺を見て、最初は何があったのかを必死で聞いてきた。
でも、言えるわけがない。
佐藤の母さんまで巻き込んだら、大ごとになるかもしれない。
やがて、母さんは何も聞かなくなった。
ただ、「ごはんと風呂は続けなさい」とだけ言い、テーブルに食事を置いて仕事へ向かった。
俺は、ご飯を食べて、TV、ゲーム、マンガ、お風呂。それだけで過ごした。
学校から電話がかかってきたこともあったけど、LINEのことは話せなかった。
そんなある日。
「ちょっと話がある。」
リビングにいた母さんが、静かに言った。
「何?」と俺は頭を掻きながら座る。
次の瞬間、目の前に突き出されたスマホの画面——そこには、あのLINEのスクショが映っていた。
一気に身体がこわばる。
再びこれを目にした途端、言葉が出なくなった。
母さんは、ふーっと長い溜息をついた。
そして、しぼり出すように言った。
「生きててよかった。」
顔を上げると、母さんは泣いていた。
「こんなの…。」
涙がポタポタとテーブルに落ちる。
俺はとっさに「ごめん。」と言った。
「拓海は悪くないでしょ!」
母さんの声が強く響く。
「ごめん、拓海に怒ってるんじゃない。
やり方が陰湿だし、こんなの、下手すれば死んじゃってもおかしくないじゃない。
危うく死なせてしまうところだったって思ったら……。」
母さんは、しゃくりあげて泣き出した。
俺は母さんを泣かせてしまった。
「ごめん、泣かせて。」
「そうじゃない…。」
母さんは震える指で涙をぬぐいながら、ぽつりと言った。
「いつまでも休んでいい。」
その声は、どこまでも優しかった。
「学校に行くより、拓海が生きてればそれでいい。
転校もOKだから。
フリースクールっていう選択肢もあるし、
Jリーグの下部組織のセレクションを受けるのでもいい。
思い切って、キングカズみたいに単身で海外へ行くっていうのもアリじゃない?」
母さんは、次々と提案してくれた。
俺は、すっきりした気持ちになった。
でも、同時に——妙な違和感が残った。
「このスクショ、どうやって手に入れたの?」
母さんは少し間を置いて、答えた。
「PTAで流れてたのを偶然見つけた人が転送してくれた。」
「誰?」
「先生、有岡先生。」
「そのスクショを一番最初にPTAに流したのは誰?」
「それはわからない…。サッカー部関係であることは間違いないけど、誰も言わないって。」
沈黙が落ちる。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「母さん、ありがとう。
もう、心配しないで。
明日からではないけど、学校に行こうと思ってる。」
その言葉を聞いた瞬間——
「行かなくていい!あいつら全員苦しめばいいのに!」
母さんはテーブルを叩いて泣き叫んだ。
「もう、大丈夫だって。
俺、もう大丈夫になったから。
母さんのおかげだよ。
死なないし、ちゃんと学校も行くから。」
母さんは、ぐっとこぶしを握りしめると、震える声で言った。
「ごめんね。気づくの遅くて。」
「いや、俺も言わなかったし……。」
母さんは、目を閉じたまま静かに言った。
「画面が消されたら証拠がないし、言っても無駄って思ったんでしょ?」
「……うん。」
「今後、そういうことがあったら、証拠がなくても言ってほしい。
大人は、意外といろいろできるんだよ。
証拠がなくても、拓海が傷ついている事実だけで十分な証拠なんだよ。」
そういうものか——俺は思った。
なんだ、言えばよかったのか。
俺は小さくうなずいた。
「うん、そうする。」
母さんは、やっと笑った。
気づいたら、5月が終わろうとしていた。