001:夏休みの終わり
最後の日の朝も、いつもと同じだった。蒸し暑い部屋の空気、聞こえる蝉の声、照り付ける強い日差し。お昼の前に目を覚まし、携帯端末でメッセージを確認してから、朝ごはんを食べる。トーストと目玉焼きとウインナー。何度も繰り返してきた夏の朝。
でもそれも今日でおしまい。長い夏休みが終わり。明日から学校が始まる。
思い出はたくさんある。二泊三日の家族旅行と初めての船釣り。お盆にはパパの田舎で大自然を満喫。お気に入りの浴衣を着て友達と夏祭りも楽しんだ。意味もなく夜更かしした平日や、朝から晩まで過ごした図書館での一日も、大切な思い出。
振り返ってみれば平和で楽しい40日間だった。でも、何か物足りない。髪は伸び、肌は日焼け、体重もたぶん身長も少し増えた。難しい本だって背伸びして読んだ。数学を学んで使いこなせる関数や方程式も広がった。
でも、それは40日間、時間にすると3456000秒に見合う成果だろうか。私はちゃんと成長できているだろうか。去年の夏は何の不満もなかったのに、今年はこんなにも憂鬱な気持ち。
そんなことを考えながらトーストをかじっていると、携帯端末が一件のメッセージを受信した。差出人は幼なじみのタロウ。このタイミングでメッセージを送ってくるなんて、理由は一つしかない。ため息をつきながら、携帯端末を操作して内容を確認する。
『面白いものを見つけた。見に来ないか? ついでの夏休みの宿題も手伝ってくれよ』
去年の夏も似たようなメッセージを受け取った。たしか、人工生命の成長過程を観察する宿題が終わらないとか。もちろん一昨年もさらにその前の年も、今まで何度も宿題を手伝ってきた。もはや、タロウからの助けを求めるメッセージは、夏休みの終わりを実感させる恒例行事。もし私がいなかったら、果たしてタロウは一人で夏休みを乗り越えられるのだろうか。
『行くから、ちょっと待ってて』
タロウの成長しない行動にはあきれてしまう。でも『面白いもの』は少し気になる。私は、メッセージを返信すると、残った朝ごはんを急いで平らげる。
部屋に戻ると、エアコンの温度を少し下げてから、椅子に深く座る。机の上のヘッド・マウント・ディスプレイを手に取って、頭にかぶればログイン完了。目の前には、仮想空間オルトタウンの世界が広がる。
たくさんのコンピュータがネットワークでつながれて作り出す仮想世界オルトタウン。それは私たちのもう一つの世界。ゲームで遊んだり、勉強を教えあったり、何をするでもなく一緒に時間を過ごしたり、時にはデートをしたり。現実世界では遠く離れた場所にいても、仮想空間オルトタウンなら問題ない。
けれど現実世界と同じように、オルトタウンでも夏休みの終わりから逃げることはできない。宿題は自動的に終わらない。急に大人にもなれない。オルトタウンは私たちの問題を勝手に解決してはくれない。だから、現実世界と同じように助け合いは必要。
空中で指を動かすと、目の前にメニューが出現する。アイテム保管ボックス、地図、メッセージ送受信、最新ニュース、それとたくさんの使い慣れたアプリたち。一面に並んだメニューの中から『通話』を指で選択すると、目の前の表示が通話履歴の一覧に切り替わる。履歴の中から『タロウ』はすぐに見つかった。指で弾くと、通話が開始する。
「それで、今どこにいるのよ?」
「A04地区の小さな広場。夏休みに見つけた秘密の場所。座標番号は3923.7283」
再び指を動かして、今度はメニューから『地図』を選択する。タロウの指定した座標に印をつけて、現在地点からの距離を計算。そんなに遠くない。
仮想世界での操作方法はいろいろある。音声認識を使って声で操作したり、専用コントローラを使ったり。私のお気に入りは、自分の手と足を使った操作方法。ヘッド・マウント・ディスプレイに取り付けられた無数のカメラとセンサーが、私の手や足の動きを読み取って、仮想世界での操作に変換してくれる。
例えば、人差し指と親指で輪を作って、左右に伸ばすように両手を広げると、メニューを表示。左足を少し外側に向ければ歩く動作で、内側だと走る動作。足の方向や位置を調節すれば、移動方法も細かく操作できる。慣れるまでに少し時間はかかるけど、私たちには物心ついた時から仮想世界オルトタウンがいつも隣にあった。おかげで、今では現実世界の椅子に座りながら、仮想世界で自由自在に動き回れる。
「30分ぐらい着くと思う」
「歩いて来るの? 先月、俺がおすそ分けした高速移動アイテムは?」
「そんなのとっくに使い切りました」
「移動サポート装置は?」
「利用料金にいくらかかると思ってるの」
「だよな。それじゃ、おとなしく待ってるよ」
仮想世界とはいえ、何でも自由になるわけではない。移動には時間がかかり、自力で空を飛ぶこともできない。便利な機能はいくつもあるけど、お金が必要だったり、利用回数に制限があったりで、自由と呼べるには程遠い。現実と同じように、仮想世界にもたくさんの制限がある。大人たちは、世界が安定して動作するには制約が必要だって説明する。でも、人間が作り出した世界なんだから、もっと自由になればいいのに。
仮想世界オルトタウンの街並みを歩き続けてちょうど30分。たどり着いたのは、薄暗い小さな広場。四方を背の高い建物に囲まれて、日当たりは最悪。遊具もない、緑の木々もない、電灯もない、殺風景で無機質な空間。唯一の存在は、地面に隙間なく敷き詰められた灰色のプレートだけ。
「まだこんな場所が残ってたのね」
広場の真ん中で夏休みの宿題に悪戦苦闘するタロウに話しかける。タロウは、手を止めて振り返ると説明を始めた。
「オルトタウンも最初は、地平線が見えるぐらいに何もない世界だったらしい。でも、今じゃどこもかしこも賑やかでごちゃごちゃしてるだろ。だから夏休みを全部使って探してみたんだよ。こんな風に取り残された古い空間をさ」
タロウの顔は自信満々。頭にかぶったヘッド・マウント・ディスプレイは、内部のセンサーで目の動きや顔の筋肉の微妙な変化を検知して、仮想空間で表情として再現してくれる。現実世界でも自信に満ちあふれているタロウの顔が目に浮かぶ。
「そのせいで、こうやって宿題に四苦八苦してるってわけね」
タロウの眉毛がハの字に変化して、あっという間に困った顔になった。
「宿題なら、気合を入れれば一日で終わると思ったんだよ。でもさ、まさか課題がこんなに難しいなんて」
「その言い訳は、去年も聞きました。ちなみに、一昨年の言い訳は、学校が始まる日を一日間違えた」
「ヒカリはよく覚えてるよな。本人ですら忘れてたぞ」
「忘れるから、毎年こんなことになるのでしょうに」
タロウの眉毛が、センサーが壊れたのかと思うぐらい急な角度でハの字になる。
「それで、面白いものっていうのは?」
タロウは地面に置かれた青くて小さな物体を指さす。
「これ。何だと思う?」
サッカーボールぐらいの大きさの球体。磨かれた金属のようなテカテカした青色の表面。ボーリング玉のように、いくつも空いた小さな穴。地面から少しだけ宙に浮いている。なんだか小さく震えているみたい。
「場所を考えると、落とし物ってわけではなさそうね」
「誰かの持ち物なら識別コードが書かれているはずだけど、見当たらない」
タロウは、人差し指でその丸い物体をつついて回す。
「よくそんな得体の知れない物を触れるわね。スパイ組織がばらまいた秘密兵器とか、突然変異で自然発生した攻撃型ウイルスとか、そういう可能性は考えないわけ?」
「漫画や小説の読みすぎだろ」
否定はできない。
「直接、聞いてみたら? 音声に反応するのかも」
表面に空いた穴の一つ一つには意味があって、マイクやカメラの機能が付いているのかも。
「もしもし、こんにちは。聞こえますか?」
でも、タロウの呼びかけに反応はない。
「よく考えたら、日本語を理解できるとは限らないよな」
「それなら、英語で試してみたら。宿題でさんざんやったでしょう。初めましての挨拶とか住んでいる町を尋ねるとか。いまこそ勉強の成果を活かすときよ」
「英語ならヒカリのほうが得意だろう。小難しい本を読んで手に入れた知識を披露してくれよ」
「得体の知れない物体に近づいて話しかけるなんて、ごめんです」
「これだけ接近しても問題ないんだから、近くで話かけるくらい……」
すると丸い物体がとつぜん話はじめた。
「ぼくは、迷子です」
少し不自然な発音だけど、確かに日本語だ。しばらく2人で唖然としていると、再び話し始める。
「ぼくは、迷子のAIです」
正体不明の丸い物体と10分ほど会話をして、分かったことがいくつかある。
「純粋なAIつまり人工知能で、人間が操作することなく自立して動作する。どこで生まれたのか、どこからやってきたのかは分からない。日本語で普通に会話はできるけど、それ以外の能力は不明」
「その物体が、本当のことを話しているならね。私は、誰かのいたずらの可能性はまだ捨てきれない」
最初はタロウが仕掛けたイタズラかと思ったけれど、一緒に驚く姿を見ていると、いまではその可能性はほとんどゼロ。でも、誰か別の人間によるイタズラの可能性はまだ残っている。
「どうする? 周りに仲間もいないようだし、一人ぼっちでここに置いておくってわけにもいかないだろ」
「どうするって、落とし物として交番に届けるしかないでしょう」
「識別コードもない。場所も不自然。なにより本人が迷子だって言ってるんだから、落とし物ではないだろう」
「ぼくは、迷子のAIです」
丸くて青い物体は、タロウと息を合わせて主張する。
「じゃあ、迷子として交番に届けましょう」
「それだと、これがいったい何なのか分からないままだけど。ヒカリはそれでいいのか?」
「それは……」
私の好奇心を、タロウはよく知っている。図書館の本棚にワクワクするのは、まだ知らない知識や見たこともない情報がそこにたくさん詰め込まれているから。そんな本棚と同じワクワクを、この丸い物体に感じてしまう。
「どうせ大人たちに渡しても、システムが上手く動かなかったとか、予想外のデータが入力されたとか、適当な説明を並べるだけ。そして最後は棚の奥の方にしまい込んで知らんぷり。だったら、俺たちでこの謎を調べよう」
「……。私たちの手に負えなくなったら、交番に届けるからね」
「よし、決まりだな。それじゃ、まずはG12地区の秘密基地ヤネウエに持っていこう。あそこなら多少の物音を立てても気づかれない」
私は安全調査アプリを起動して、丸い物体に向けてスキャンをはじめる。
「どんなウイルスやトラップが付いているか分からないから、できる限りは調べないと。自慢の秘密基地が未知の攻撃で破壊されたら大変でしょう?」
アプリを使って30秒間スキャンすると、結果が画面に表示された。
・侵略性ウイルスのチェック:安全
・擬態トラップのチェック:安全
・トロイの木馬型ソフトウェアのチェック:安全
・外部との不正な通信の検知:安全
……
32のチェック項目のうち、31項目は「安全」の表示。登録確認の項目だけ「不明」と表示される。未登録のAIということは、誰かの作りかけか、それとも自然発生か。ともあれ、大きな危険はなさそう。
「なかなか良い名前が思いつかないな」
タロウは名前を考え続けていた。安全性よりも名前のほうが重要らしい。
「拾ってきた野良猫じゃないのだから。名前が必要なの?」
「もちろん。《あの丸い物体》だと、呼ぶのも面倒だろ」
「それじゃあ、野良AIでノラとか」
我ながら安直。
「いいね、ノラ。よし、今日からお前の名前はノラだ」
タロウも負けずと安直だった。
「ぼくの名前はノラ」
ノラは少しだけ高く浮いてジャンプする。喜んでいるのだろうか。タロウは、ノラをひょいと持ち上げる。
「ちょっと、そのまま秘密基地まで持っていくつもり?」
「こうやって脇に抱えれば、少し変わったサッカーボールみたいだろ。安全はヒカリが確認してくれたし」
そう言うとタロウは歩きはじめた。
「ぼくは安全」
ノラはそう言うと、その後は静かになった。
広場から抜け出すと、夕日は地平線に近づき、オルトタウンの世界はすっかり赤く染まっていた。
「私はここでログアウトする。続きはまた明日、放課後ね」
「俺はノラを秘密基地に置いて来るよ」
ノラは、タロウに抱えられている。
「それじゃ、ノラ。いい子にしているのよ」
「ヒカリ、いなくなる?」
ノラは、少し不安そうに私を見上げる。
「私もタロウも、この仮想世界とは別の、現実世界という場所で生活しているの。だから、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、ベッドで寝たりするには、オルトタウンからログアウトして、現実世界に戻る必要がある。でも、またすぐにログインして戻ってくるから」
「ぼくも、 現実世界に行ける?」
仮想世界オルトタウンの生き物が、現実世界にやってくる。そんなこと聞いたことがない。でも、私たちが現実世界から仮想世界にやってくるなら、その逆もできるのかも。でも、どうやって。
「できる、と思うぞ」
困った顔で考え込む私を見て、タロウが助け舟を出してくれた。
「例えば、現実世界でロボットを作って、そのロボットを仮想世界につなげる。ロボットの目や耳で集めた情報は、そのまま仮想世界に送る。逆に、仮想世界ではロボットを操作するコントローラを用意して、操作すると現実世界にデータが流れるようにする。ロボットの目には、高性能3次元計測カメラを利用して、耳には……」
タロウは、最初はノラに向けて説明していたものの、途中からは1人でブツブツとつぶやきながら、あれこれロボットの仕組みを考えはじめた。ノラはどうしていいかわからずに、黙り込む。
「まぁ、とにかく。ノラのことも詳しく調べないといけないし。今日はもうログアウトして、また明日がんばりましょう」
こうして私の冒険は、夏休み最後の日から始まった。