落ちてくる人 第九話
そんなオカルト絡みの胡散臭いやり取りを終らせるべく、部下の警官が自信に満ちた表情をして、歩み寄ってきた。
「警部、朗報です。物理学の権威、カール・シュロダー教授が、大学での仕事が片付き次第、なるべく早くここへ向かってくれるそうです」
「今まで得た情報の中では、かなり朗報の部類だが、どのくらいかかるのかな?」
「道路が渋滞しておりますので、二時間ほどみて欲しいそうです」
「私が仮に、先祖代々アマゾンの流域で暮らしていて、ほとんど文明人の解する言語を話せずに、しかも、まだ歩けもしない小鹿とかイノシシなんかを石斧で追い回すような生活を、素っ裸で送っている人種だったとしても、ここで、ただ上を見上げて、さらに二時間も待っているというのは、さすがに精神的に良くないと思うがね。こんな奇妙な事態を解決することは、ほぼ不可能だと分かっているのに、我々はいったいいつまでここに居なきゃならんのだね?」警部が泣き言を言い出した。
「それはもちろん、物理学の専門家が来るまでです」部下の警官は冷静な態度で、そのように答えた。
「しかも、そのお偉い教授がここに来たとて、問題がすっきりと解決するとは限りません。突発的に起きる怪現象における討議につきましては、参加人数が多ければ多いほど混乱に陥る傾向があります」
「確かに、その教授の脳みそがまともでなければ、余計に混乱するだけなのかも知れんな」
隣に佇んでいた警官が、口を出さずにはいられないとでもいうような顔になって、ただの焦りだけでこう続けた。
「どうでしょう、この件はなるべく我々の力だけで決着を付けてしまう、というのは。完全なる解決のことは取りあえず放っておきまして、今日のところの対応はどうするか、について議論を進めませんか?」
「では、いよいよ、この事件の本質に踏み込みましょうよ。例えば、これから落ちてくるのが、グレース・Kerryのような美女だったら、我々としては、もう少し、助けるほうに懸命になるのでしょうか?」肉屋が待ってましたとばかりに、そのような問いをかけた。
「それは、当然ですよ、Grace Kerryでしょう? それなら……。私だって、あと三日くらいはここにいられますよ」警部は苦り切った表情でそう答える。
「ということは……、この怪奇現象とは別に、被害者の男性があのような見苦しい外観をしているから、余計に対応に苦慮していることになりませんか? 何を言いたいかはお分かりでしょう?」
「では、彼がもし大変な資産家であったなら……」科学オタクが少し呆れた様子でそう述べた。
「いやいや、我々警察の目には、まともな職業の人間には見えません。ちょっと、見てください、あの太りきっただらしない身体を……。あれじゃ、資産家や芸術家どころか、いいところ無職のギャンブル狂いですよ」
「いえいえ、もしかすると、若手の音楽プロデューサーかもしれないですよ」
「そんなオシャレなことをしているような体系には、とても見えません。貯蓄を持っていても、それほどの額にはならんでしょう。おそらく、友人も彼女もおらんのです。どの方向から見ても、独身に見えます。独身男性という人種は、大抵金は持っておらんのですよ。もし、資産家だったら、多少外見に難があっても、魅惑的な女性たちが、放っておきませんからな……。貯金がある程度あれば、悩みなんて生まれないはずです」
「ちょっと、お亡くなりになられた方に失礼ですよ」と科学者が釘を刺した。
「まだ、死んでおらんでしょう。あれは、ちょっとした仮死状態ですよ」肉屋がそう答えた。
この後も大して意味のない不毛な議論が、一時間半以上に渡って続けられ、皆がもう口を開くだけ無駄だと気づき始めたとき、カール・シュロダー教授がついに現場に到着した。タクシーから颯爽と降り立った教授は、さっそくビルの屋上付近を見上げ、その口を開くなり、この重力の渦をヴィーク=バイパーと名付けたいと語った。もっと、解決に向けた具体案を示してくれるかと思っていたので、みんなの落胆ぶりがはっきりと見て取れた。
「もう少し、前向きなご意見をお願いできませんか?」
警部にそう促されると、教授はその白い口髭を右手で捻りながら、私見を語り始めた。
「この現象は、おそらく地底に存在する、磁力の異常によって重力が歪められたことによって起きたのでしょう。つまり、電波状況が極端に悪くなったことによって起きる自然現象なのです。時空の歪みというものは、天候や地質の異常によって引き起こされるものであります。かつて、バミューダ諸島におきまして、航空機事故が頻発しましたが、その最大の原因は、海底二千メートル辺りに、神秘的なクリスタルピラミッドが存在したことによります。後の調査では、調査船に積み込んだ、高性能コンパスのすべてが、完全に間違った方向を示すほどの、鉄を大量に含む膨大な岩石(磁鉄鉱)が海底から見つかりました。これは予測になりますが、この区画の地下にも似たようなクリスタルが眠っているのかもしれません。もし、この事件の完全な解決をお望みならば、調査してみる必要はあります」
「それは、この辺り一帯をまんべんなく掘り返せと仰っているのですか? 人っ子ひとりを助けるために、いったい、何億ドル使うおつもりですか。先生、もう少し、現実的な案をお願いしたいのですが……」
「なるべく早く、しかも、経費のかからない解決策を示せというのかね? では、試みにあの男性の落下速度を計ってみよう」
教授はなかなか上がらないテンションの中で、古いモロッコ革の鞄から簡易計測器を取り出し、それを天空に掲げてみせた。
「教授、あの男がまだ生きていて、しかも、動こうとしていると仰るのですか? 我々の目には止まっているようにしか見えませんが……」
「いえいえ、例え、被害者がすでに亡くなっているとしても、この地球には元々強い重力があります。今にも身体を引き裂こうとするブラックホールの力に反発する形で、地球の重力があの巨体に働き、空間の歪みから脱出しようとしているのかもしれません」
教授は約五分間の調査の経過をノートに記して、今度は関数電卓を取り出して、何やら難解な計算をし始めた。
その結果、落ちてくる男性の移動速度が判明した。それは、予想通り、ゼロにもほぼ等しい、とてつもなく微量のスピードであった。
「それで、自殺志願者が地面に漂着するのは、いつ頃になりますか?」
「現在から、五十八万三千五百年ほど先になります。ただ、必ずしも、一定の速度を維持するとは限らないわけです。おそらく、予想と比較して、二倍ほどの時間が必要になるでしょう。同種の事件が起こっていないわけでもありません。実は、八十年代にもテキサス州において似たような事件が起こっているのです」
「過去の事例では、警察の対応はどのようであったんですか?」警部は心配そうにそう尋ねた。
教授は深刻な表情で首を振ってみせた。「こういうレアなケースにおいては、過去の事件から結末を予測するのは良くないと思われます。とりあえず、あの男がいつの日にかこの地上まで確実に落ちてくるということが分かったのです」
「教授、警察官がこんなことを言うのはまずいかもしれませんが、あの男ひとりの生命のために、警察組織がこれ以上ここに束縛されているわけにはいきません。都会に多くの住民が集中する限り、警察の早期の解決を必要とする大事件は、今後も数限りなく起こるのです。つまり、明日は明日の仕事があるわけです。教授の一存で、何とか、短い期間で上手く解決する術をご教授して頂きたいのですが……」
「この事件の総括をしろと言われるのですか? この事件はオカルトから物理学まで様々な要素を含んでいます。このような重大な案件を、一般の専門家が取り仕切るのは、かえってよろしくない。彼がどのような不幸な結末を迎えるにせよ、なるべく、市民の多数が納得いく形で決着をつけるべきです。私には、数週間やそこいらで解決できるケースとは、とても思えません」
「国民全員が納得するほどの妙案なんて、あるわけがないでしょう……」
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。