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落ちてくる人  作者: つっちーfrom千葉
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落ちてくる人 第六話


「万が一、飛び降りた男性の身体が、空中に停止したまま、今後、一週間ですとか、一ヶ月ですとか、いやいや、それ以上の長い期間にわたり、今の地点から動かせない状態が続いたとしますと、周囲の住民、特に、このマンションに住んでいる人への心理的な脅威というのは、どういったものになるのでしょう? 無論、ずっとあの態勢のまま、というのは嫌な仮定になるわけですが……」と科学マニアが問いをかけた。


「市民生活には、たいした影響とはならんでしょう。我々の手で遺体を取り除けなかったとしても、普段どおりに生活してくだされば良い。通勤に乗用車を使う方は、あの遺体の下を自由に行き交えばいいし、例え数十年間にわたり、あのままの状況が続いたとして、真下の歩道を通って買い物へ向かいたい歩行者がいたとしても、上空さえ気にしなければ、まさに口笛でも吹きながら、このビルの前を気楽に歩いてもらえばいいんです」警部は冷静を装いつつそう答える。


「そんな簡単にはいかないと思いますよ。例えば、このマンションの住民の一人が、ベランダで鼻歌でも歌いながら、上機嫌で洗濯物を干しているときに、ふと、太陽の眩しさに視線をとられ、左上を見上げたら、なんと、男性の身体が宙に浮いている……。まあ、例え、当人がまだ生きていて、息があることが分かったとしてもですよ。そんな状況をどう思いますか? 私には相当不快な一場面に思えます。ホラー作家の代名詞ラヴクラフトの信者でもなければ、誰だって、そんな体験はしたくはないでしょう」


「あのままの位置で静止したままでおり、どうやっても動かせなかった場合、あれだって、今日からはこのマンションの設置物のひとつになります。例えば、複数人が同時に亡くなるような、凄惨な交通事故の現場に、死傷者を悼むためのお地蔵さんが立ったりするでしょう。フランスやドイツの古城には、逆さになったガーゴイルの彫刻だって、あちこちに飾ってあります。あの芸術品を見て、偶然そこを通りがかった子供たちが、いちいち泣き叫ぶわけではないでしょう。つまり、中年男の飛び降り自殺も、地面まで転落せずに、その途中で静止さえしてしまえば、芸術的な彫像と同程度のものになるわけです」


 警部は一歩も引くまいとそう答えた。件の男性の身体を、警察の手でどこかへ片付けるようにと市民から要望されることを、一番恐れているようだった。


「そんなことを仰いますが、あれが視界に入った瞬間に、自然と湧いてくる恐怖や不快感については、誰に申し出ればいいんですか? 例えあれが芸術品であったとしても、それが例えば、性欲をもよおす裸婦の絵であったり、大戦中の殺し合いを描いたものであったら、人によっては、自分の近くに飾るのは困ると申し出ると思いますけどね」


「それは考え方が古いですよ。二十世紀前半までは文学でも他の芸術作品においても猥褻を禁じた法がありましたが、性欲と芸術とをすっかり切り離すことで、この問題は解決したはずです。つまり『残虐な場面や性的な行為を描くことは、必ずしも犯罪とはいえない』という結論に達したわけです。この認識の変化により、芸術はまた一段階進化したわけです。私に言わせれば、あの自殺志願男が、あと何百年とあのままの姿でいても、それはある種のモニュメントとなってここに残り、ここを訪れた人はその姿を眺めて楽しむ。それで一向に構わないと思いますね」


「しかし、このビルの関係者にはこの事実の多くを知らせておく必要があるでしょう。無言でここを立ち去ると、この自殺騒動は、我々のせいにされかねない。さて、誰に伝えておくべきでしょう?」


「まあ、ひとりあげれば大家でしょうな」科学者の問いに肉屋はぶっきらぼうにそう答えた。


「そうは言いますが、飛び降りた男はこのマンションの住民ではないのでしょう?」


「ええ、先ほどの警官の報告によりますと、相当に遠くから走ってきたようです」


 私は出来るだけ声を落ち着けてそう答えた。自分への余分な問いかけを、極力避けたかった。こちらに余計な注目が集まることを必ずしも好まないからだ。私はこの事件の真相を知っているが、それを語り出すタイミングは難しい。最低限のことだけ伝えられればいいのだ。


「では、大家さんも被害者ということですな。まったく知らない赤の他人が突然気味の悪いモニュメントになってしまったわけですから……」


「でも、落ちてくるあの男性は、もしかすると、このマンションと何らかの関わりを持っている人間なのかも……。過去にここに住んでいたことがあるとか、友人や恋人がこの付近に住んでいて、それを訪ねて来たとか……。この区画には六つか七つのアパートメントが整然と並び立っています。その中から、被害者の男性がこのビルを選んだ理由は果たして何でしょう? 彼はここの裏口の階段には比較的容易に入れることを知っていたのではないでしょうか?」


 警察関係者のうちのひとりがそのような疑問を呈した。


「おそらく、何らかの事件に巻き込まれ、何者かに追われる形になり、致し方なくこのビルに登ることを選んだのかな……」警部は真剣な表情を崩さずにそう答えた。これは正論だ。


「私は亜空間だとかブラックホールだとかには、あまり詳しくはないのですが、例えば、あの人を取り囲む重力の渦がさらに勢いを増して、彼の身体をすっかり吸い込んでしまったら、いったい、どうしましょう? 今のうちに助け出すことを考えますか? それとも、渦の大きさが増したならば、我々の身も危なくなるわけですから、奴をここに置き去りにして、今のうちにみんなで避難しますか?」


 肉屋はまたしても話を堂々巡りさせるような質問をした。


読んでくださってありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

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