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フラッシュバック(前編)  作者: 八巻 篤史
1/1

(前編)

- フラッシュバック /名詞/【flashback】

  1. 照り返し。強い光による後炎現象。

  2. ふとした瞬間にはっきりと何かを思い出すこと。

  3. 覚せい剤の使用を止めた後やPTSDによって再燃する幻覚や妄想。

  4. テレビ・映画で瞬間的な場面転換を繰り返す手法。クロスカッティング。

  5. 走馬灯。



 神は「光あれ」と言われた。

 すると光があった。


 ――旧約聖書『創世記』1-3


   1


 天使はぼくの胸元に銃を向けて、最高の瞬間はつねにこれから訪れると言った。

 今夜、一つの世界が終わる。 

 地表の崩壊はぼくらのいる建設中のビルの屋上まで到達し、頭上のクレーンがスローモーションで崩れ落ちていく。

 「今日わからなかったことが明日わかるかもしれない」と天使が言う。「その繰り返しだ」

 ぼくは、ひょっとしたら飛べるのかもしれないと考えながら、だれかに言われた一言が思い出せないでいる。

 LSDの致死量は一〇ミリグラム。睡眠薬の致死量は一五〇錠。ぼくにとっての確かな知識。

 天使の銃は銀のデザートイーグルで、彼の慎ましくも洒落たスーツ姿に馴染んでいるが、厳密にどんな仕様なのかは知らない。

 端に積まれていた建設資材がフロアからこぼれ落ちていく。

 ぼくは、返り血で彼の羽が汚れたりしないか心配する。昔、だれかに生傷を応急処置してもらったような記憶がよぎる。その様子をはっきりと覚えていない。

 「心配するな」と天使が言う。

 魂の重量は二一グラム。今宵はなお二一世紀。

 柱の影から少女がこちらを覗いている。

 これはまだ科学と世間の常識が現実に追いついていなかった頃の話。

 そもそもは愚かな過ちが発端だった。ぼくは愛を知らない類人猿。

 床を覆うコンクリートがちぎれて重力に逆らって舞う。

 「起こりうる未来こそ」と天使が言う。「アイディアとして浮かぶ」

 だれもが天国に行けば、なれたかもしれない自分に会うのだろうか。だが、ぼくには行ける保証がない。

 運命の霧の中に、いくつか起こる可能性のある未来が混在している。

 ぼくは自己意識のクオリアで、「意識」そのものを感じるための錯覚で、鏡写しにすぎないのかもしれない。

 「雨だ」と天使が言う。

 未来には、「私」という概念は消滅しているだろう。

 「世界を変えてみせろ」と天使が言う。

 未来は仮想的空間へ。

 もしくは、人類は三次元の世界からはいなくなるのかもしれない。

 確かなのはこの想いだけで、意識は肉体という限界を越えて広がっている。望まない未来は迂回する。

 あの日天使と出会っていなかったら、ぼくはまだ自分の望みを疑っていただろう。自分自身の地獄から抜け出せていなかっただろう。ぼくは彼に感謝している。

 暗い空から燃えるオーロラが溶け落ちていく。

 右脳に囁かれる神の声を聴いて行動した古代人も、恋をしたのだろうか。 

 秒速で現在へ。

 神の意のままの自動人形でも、夢を見たのだろうか。

 瞬間で遥か彼方へ。

 こんな夜、幾度もダークサイドに堕ちたぼくの自意識も、万物の源へ還るのか。

 「すべてはおまえの思うとおりだ」と天使が言う。「よくもわるくも」

 魂の解放に備え、出撃せよ。

 目の前の現実と向こう側の境がぼやけて曖昧になっていく。これが現実と呼べればだが。

 少女が駆け寄って、ぼくの袖口を握る。

 ぼくという現象はあと何秒残るだろう。生命はエントロピーの増大則に逆らって秩序を生む。意識が混沌としてくる。時には、考えても無駄なことがある。

 すべてが神の思惑だとは思わない。

 「さらばだ」

 すくなくとも今は。

 ぼくは怖がらなくていいよと、少女の手を握る。

 ありがとう。明日は晴れに変わるのかな。

 「やがて消えたとしてもそう悪くない」と天使が呟く。

 そして天使は雨の中の涙のようにと言い、持っていた銃を固く握り、今となっては、ぼくは必要にして十分なことを記憶している。

 この世界はまもなく終わる。

 すべてはぼくの望んだことだった――。



   2


 それまでの一部始終を話そう。


 ある朝、とてもひどい頭痛で目を覚ました。どれだけ眠っていたのかわからない。どこで何をしていたのかも定かでない。夢の中に何日間もいたような気がする。そしてひたすら暗闇の中に倒れていて、気がつくと自宅だった。

 閃光が走ったようにぼくをくだらない現実に引き戻した十万ボルトの痛みは、抑えきれない吐き気で一度吐いてしまうと消えていった。

 だれかのものすごい怒りでも買ったかのようだった。

 くもった低気圧の暗い朝。見えない強迫観念に襲われる。

 ああ、くそう……。

 そう、望まない仕事が待ち受けている。今日も一日を無駄にする――。

 身支度の最中、時計代わりのテレビをつける。暗いニュースだ。文字通りの。

 太陽が輝きを減らしていってるとNASAが発表したそうだ。太陽がぼくらの星に届けてくれるのは、光と熱だけではなく、見えないバリアも含まれるらしい。

 太陽のフレアが地球を包み込むことで、この瞬間にもバシバシ降り注ぐ宇宙線からみんなを守ってくれている。しかし最近あまり元気がないみたいで、太陽の咎めをまぬかれた死の不可視光線が、地上のぼくらを灼いていた。

 だれにでも降り注ぐ。太陽の調子がちょっとすぐれないせいで。

 そういうことはだれにでもある。

 ニュースだと思っていたのは天気予報だった。

 「宇宙線としてやってきた素粒子が大気に溜まると、雲を形成するでしょう。つまり太陽の活動が弱いと雲がたくさんできて、さらに太陽の光を遮るでしょう。気温は下がり、長引くと寒冷化し、気候変動の原因にもなる恐れ――」

 やけに詳細な予報は続く。

 「体温が一度下がると、免疫力は約三〇パーセントも低下します。今週も聞いたことがない感染症が流行るでしょう。体は温めるに越したことはありません。そこでみなさんにご紹介したいのがこちら、シルクのストッキング! お値段はなんと――」

 天気予報だと思っていたのはテレビショッピングだった。最近のテレビはややこしい。

 そういえば、体が冷えると言って、だれかもよく困っていたな。果たしてそれはだれだったか。

 そんなこんなで出勤する。ぼくのアパートの向かいの家には足場が掛けられ、これから解体が始まろうとしていた。


 朝、だれもが人と距離を取って歩く。他人と関わることはリスクだからだ。

 朝、会社に向かうぼくは疑問に思う。果たして今日の出勤に意味はあるのだろうかと。有給はあと何日残っていただろうかと。このまま反対方向の電車に乗ってやろうかと。知らない駅で降りて散策してやろうかと。そうして悶々と職場に到着する。

 ぼくの職場は器の小さい人間の集まりなので、挨拶はしない。返ってくることは稀だ。

 馬が合わない先輩のギスギスビームをいなし、自分が将来最も就きたくない地位にいる上司によって張られた地雷を飛び越える。戦争が起きなくても、弾丸を避けるような毎日だ。

 「言っといたやつ、どうなってんの」と、朝一で先輩に捕まる。

 はあ。手についてませんが。他にやることが多くて。

 「いつまでにやんの?」と先輩が言う。

 逆に、いつまでにしましょう。

 「今日中だろ」と先輩が吠える。

 いやー、今日はちょっと。

 「おい、それよりどうなってんだ、お前の見込み」と、そこへ上司がバトンタッチする。

 おはようございます。

 「今月の数字どうやって作るつもりだ?」と上司が言う。

 なんとかします。

 「そのつもりで動いてんのか?」と上司が詰める。

 今日動きます。

 「やる気あんのか!」と上司が燃える。

 ぼくは、机に常時忍ばせている退職願に、今日の日付を書き込もうか思案する。

 繰り返し。繰り返し。

 出勤し、息をし、退勤する。また出勤する。

 こうして望まない一日が過ぎていく。

 気がつくと、会議をするかどうかの会議がこれから催される。ぼくが窓口の業務委託先の不祥事の件を報告していないが、そのままにしておこう――。


 こだわりもなく選んでしまった職場に丸四年もいると、腰のあたりまで環境に埋没してきてしまう。住み慣れた地獄。

 しかしこんな時代なので、この場で働くだれもが、自分がそう遠くないうちにここからいなくなることを想定している。残されてババを引かないよう牽制し合っている。

 ぼくの仮説は続く――。

 いまや社会で働くだれもが、独自のミニマルな経済圏を築こうと画策している。ぼくらの世代に終身雇用という概念はない。年金など存在そのものを信じていない。明日にも国はデフォルトしているかもしれない。先が見通せず、どんな保障も壊れゆくことが明らかな中で、みんなだれかに構ったり責任を負うことはままならない。

 ぼくのセオリーは佳境に入る――。

 だからそう、自分自身で稼ぐしかない。自分自身の仕組みで。そのためにはオリジナリティが必要だ。皆がやることの先にあるのは陳腐化だ。整形して同じ顔になんてなりたくない。無個性はディストピアだ――。

 

 ……といって、ぼくには何か策があるわけでも、当てやコネがあるわけでもなく、何も動きだしていなかった。世の中はとめどもなく壊れていくようだったから、いずれ目の前の生活のための仕事も吹き飛んで、各々が真にやりたいと思うことをやるしかない時代が来るはずだと踏んでいた。そしてそう踏んでいるだけだった。

 ぼくは当時、今よりもずっと無知で世間知らずで、理想を実現するための妄想を練りながら、食べていくための労働で日々を使い果たしていた。

 そんなとき、事業計画書のエクセルがバグっていたことに気づき、一度承認を得た発注の見積りの桁が実は二つ足りなかったことを知っても、何もなす術はない。

 ああ。好きなことだけをやって食べていきたい。…しまった、おとついの契約書の原本をシュレッダーしてしまったが、シュレッダーごと隠滅しよう。

 毎日がこうもスリリングなので、ぼくは職場のテロリストと化す。

 そこへ電話が鳴る。

 二コール様子を見て、諦めて取る。

 「あっ」という女性の声。微かに聞き覚えのあるような。

 もしもし。

 「……」

 切れていた。

 「だれからだったんだよ」と、ぼくのそばを通りながら目ざとい上司が言う。

 わかりません、切られました。

 ふん、と言って上司はデスクに戻り、ぼくはパソコンのソリティアゲームを再開する。

 この調子でいけば、職場に居ながらにして悟りを開けるかもしれない。しかし、心は確実に死んでいく。

 その日はおよそ一五〇㎡のオフィスに、ぼくと上司と先輩と、昼過ぎにたまたまこの階に迷い込んだ、幼い女の子しかいなかった。



   3


 同じ日、ぼくはまた誤魔化せないレベルで仕事を一つやらかし、それとは別に顧客からのクレームを関係ない得意先に引火させ、先輩の「お前、何がしたいの?」をくらい、ひどく疲れた帰り、バーに寄った。

 職場でピエロを演じるのにも限界がきている。ぼくは見透かされたハリボテ。このままでは今のサーカスを首になり、次の笑われ先を探さなくてはならない。

 どうにも飲まずにはいられず、酔わずにはやっていられなかったので、普段は行きもしないバーに行ってみることにした。

 そうして不思議な佇まいの店を見つけた。

 職場からの帰り道にそれはあったが、それまで気がつかずにいた。小さなバーだった。最初、ドアしかない建物かと思ったが、店は地下に続いているようだった。

 階段を下り、入り口をくぐると、そこは思いのほか混雑していて、ぼくは氷のように萎縮して溶けてなくなりそうだった。

 気配を消しながらカウンターに座ったが、あまり意味はなかった。だれもぼくの姿を見ていず、だれもぼくの声を聞こうとしていなかった。きつい酒をロックで頼もうとするが、マスターが捕まらない。

 まあいいや、ちょっと待とう……。

 そのままぼくはカウンターに突っ伏した。

 

 深い溜め息が出る。

 ぼくは一体何をしたかったのだろうか。仕事という意味ではなく。

 昔から夢見ることに関してだけは一流で、ぼくは目の前の現実とはつねに違う世界があって、手を伸ばせばその世界に行けるはずだと信じていた。その世界はぼくによって顕現されるのを待っているような気がしたが、実際にはその糸口がなくて入り込めず、ぼくは歳を重ねて三十になろうとしていた。

 一生続くのだろうか。これが。ぼくの人生はこれだけなのだろうか。

 そうやって、もう何千回目かの、出口のない苦悶をめぐらせていた。

 ……気がつくと、飲もうと決めていた酒が提供されていた。……いつ頼んだっけな?

 まあいいや、と初めてのバーでの酒をあおった。


 時間だけが過ぎていった。

 飲んでは突っ伏し、また起きては、不思議と置かれているグラスを傾けるのを繰り返した。気が利く無言の先回り。ぼくには一生できない芸だ。バーとはそういうものなのだろう。

 そうして酔いが回って、だんだんまわりの声と、自分の頭の声との区別がつかなくなっていった――。


 失うものがなくなってこそ、何かを得られるのでは。

 そうかもしれない。

 よろこんで手放したいと思うものしか手に入らない。

 本当かな。

 どれだけ間違いを犯してきたとしても、先へ進むことを(ゆる)されている。

 そんな甘くないよ。

 世界はもうすぐ終わるのだから。

 ……え?

 不意の聞き捨てならない言葉で我に返る。気がつくと、そこには……。


 ぼくの隣で、背中に翼のある男が、膝を組んでグラスを片手に酒を飲んでいた――。


 ぼくはまじまじと相手の方を見る。歳まわりはぼくと同じくらいで、細身の仕立てた品のいいスーツを着ている。

 「やあ」と翼の生えた男が、初めてこっちを振り向きながら言う。

 だれもぼくたちのことを見ていず、だれもぼくたちのことを気にしていない夜だった。

 ぼくはぎこちなく会釈を返した。

 ……どちら様?

 「見ての通りさ」と男が言う。

 あまり回答になっていない……。

 スーツ姿に翼の生えた格好で、ぼくは最初、彼は大道芸でもやっている人なのかと思ったが、見ようによっては天使……。そう、エンジェルにも見えた。

 ぼくは、お仕事は天使ですか?と、意味不明なことを聞いた。

 すると彼は、片手で背びれのポケットから何かを取り出した。そして名刺のようなものをぼくにくれた。そこには、住所と連絡先だけが書かれていた。

 「そうともいう」と彼が言った。「そう呼んでくれても構わない」

 こうしてぼくは天使と出会った。


 なんとも絶妙な沈黙が流れた。これもバーの醍醐味だろうか。

 気にしなければ、何も気にならないものなのだろうか。

 ぼくは、天使とは何をするものなんですか?と彼に聞いた。

 すると天使は、グラスを置いてゆっくりとこちらに向き直った。

 (かす)かに笑った無言の眼差しには、言いしれない含みがあった。人を惹きつけるような神々しさが宿っていた。なにより、彼の身体(からだ)は若干光って見えた。

 そして天使は、「人間を()きものに導く」と答えた。


 ……善きものとは?

 その日、だれもぼくたちのことを見ていず、だれもぼくたちのことを聞いていないバーで、天使はぼくに語りかけてくれた。ぼくはそれまで、ずっと独りでいるような気分だった。その夜に限った話ではなく、ぼくはずっと長い旅路を独りで進んできていたかのようだった。

 「今夜はもう遅い」と天使が言う。「そういうことはまたの機会に」

 ……ぼくはますます(けむ)に巻かれていくようだった。

 今夜限りでは?

 「それより」と天使が言う。

 「よくもそんなに考えすぎて、おそろしく現実を難しくしたな」

 ん……? 何のことだ? とぼくは思った。

 「なんでもお見通しさ」と天使が言う。

 ……ああ、でも確かに。よく言われますよ、とぼくは言った。

 「複雑に見えて内側は空っぽだ」

 ずきゅんと来たが、ぼくはハハハと笑った。その通りかも。

 そして「明日病院に行け」と天使は言った。

 ……はい?

 カウンターを照らす明かりが陽炎(かげろう)のように揺らいでいた。

 どうして?

 「残された時間は少ないからだ」と天使が言う。「おまえには自覚が足りない」

 急につっけんどんにそう言われた。

 …ぼくが気休めで酒を口にすると、天使はあれがおまえの空っぽの証と言って、酒瓶の陳列棚の一角を指差した。

 見ると、古くなった人間の脳みそがホルマリン漬けにされて瓶の中に沈んでいる……。

 ぼくの口に含まれていた酒は霧状に噴出した。今となっては、バーにそんなものが置いてあるのもおかしかった。

 ……ハハッ!……グロいですよ冗談が、とぼくは口を汚しながらミッキーマウスのように声が上ずって動揺したあとで、どうしても彼に一つ聞いてみたいことがあった。


 天使に、その翼を使って飛べるのかと、ぼくは聞いた。

 「これか?」と天使は、背丈ほどもある背中の羽を小刻みに揺らした。

 翼は別の生き物のように動き、思ったよりも不気味だった。

 「そうか」と天使が言う。「飛んでみせてほしいんだな」

 ぼくたちは店を後にした。



   4


 車の往来もおさまり、(だいだい)色の街灯だけが道を照らす頃だった。

 ぼくらは無言で歩き、ぼくはだれかと歩いたような道だなと思った。そして、だれかがいないような気がして寂しかった。

 ……建設中の大きなビルの工事現場までやってくると、敷地をぐるりと囲って中を見えなくしている白い衝立(ついたて)の中を、天使とぼくは入っていった。

 比較的空きが多く、物がまばらに散らばった敷地内に、暗い彼方へと伸びる鉄の骨組みが(そび)えていた。下からでは全体像が見えない……。

 すると。


 「慣れたら翼なんて使わない」と言って、天使はまだ壁のないビルの躯体の柱に沿って、垂直面を床にしてぺたぺたと上へ歩いていった。

 唖然とするぼく。

 「おまえも来いよ」と上から天使が言い、ぼくは手段を探し、だれもいない建設現場の()き出しの昇降機に乗って、彼の後を追っていった。


 ……結局てっぺんまでやってくると、そこからはあたりが一望できて、病んだ街の輝きは鈍かった。そこは時間がゆっくりと進んでいくようなところだった。

 ここの工事はストップしているように見え、機材は揃っているが無人の工事現場は、再び手を付けられるのを静かに待ち続けているかのようだった。

 ぼくはそこはかとなく、忘れ去られる無常を感じた。

 ぼくらは落ちずにいられるぎりぎりのところまで来ていた。

 すると。

 

 「願い事には十分気をつけるんだな」と言うと、天使はぼくを後ろから抱き寄せ、おい何すると思った瞬間には、空中に身を投げていた。

 かつてこれほど他人の行いに疑問を持ったことはない。落下が加速するにつれて、疑いは確信へと変わる――。……ぼくの後ろの男は、いつまでも羽ばたこうとしない!

 図らずも日中の記憶が蘇る――。

 「お前、何がしたいの?」

 ぼくは絶叫する!

 「いつまでにやんの?」

 風の音しか聞こえない!

 「やる気あんのか!」

 地面が迫る!

 仕事で無駄にした一日は明日もやってきて、終わらない日常が続く。

 死が待ち構える――。

 ――これがぼくのやりたかったことだろうか!?

 地上に叩きつけられる寸前、天使は怪音とともに翼を広げ、ぼくらは地面すれすれを高速で水平に滑空し、ぼくはぎりぎりのところで命拾いをした。

 そのあと二、三度いらぬ旋回が入ってからぼくらは上昇し、最後はゆっくりと元の屋上の位置にまで戻ってきた。


 「これでわかっただろう」と天使がぼくを離して言う。

 ぼくは呼吸が乱れ、腰を抜かして立てないでいる。

 「いつでもすぐ終わるとしたら、おまえは何を望む」と天使が言う。

 ぼくは心臓が早鐘を打って、目に涙を浮かべながら、彼のほうを見ることしかできない。

 何千回も経た苦悩がよぎる……。

 「どうした」と天使が言う。

 目の前の現実とはつねに違う世界があって……。

 ぼくは息が戻らない。

 「言ってみろ」と天使が言う。

 手を伸ばせばその世界に行けるはずだと……。


 わかりきっていた。ずっと。その想いを吐き出せないでいた。


 ……ぼくは、毎日のこのしょうもない現実を抜け出したいよ……と彼に言った。

 「そうか」と天使が言った。「なら明日病院に行け」



   5


 翌日、ぼくは外回りしてきますと言って営業車を運転し、病院に行った。


 きのう天使を見て死にかけた経験をしても、白昼が照らし出す圧倒的な醜い現実の中にいれば、乗り物のアトラクションに乗ったような感覚にすぎなくなる。

 ああ、楽しかったな。以上。

 だがしかし、だ。小心者のぼくは、病院に行けと言われてやり過ごせるタイプではない。このあいだ保険を見直したばかりだ。健康に万が一あって、もしもローンが組めなくなれば、ぼくの積み立て投資信託や貯蓄、さらには株やFXや仮想通貨なども含めたささやかな資産計画が崩れる。

 そうさ。ぼくは俗物の中の俗物。キング・オブ・ノーバディー。もっとも軽視される類いのどうでもいいやつ。あなたにおける最も価値がない人間ランキング一位。

 そう思いながら、病院に到着した。

 受付をし、問診票の記入を促される。

 名前が呼ばれる。

 「どうされましたか」と医師が言う。

 頭がどうかしてるみたいで。

 「なるほど」と忙しい医師は問診票をあらためながら言う。

 「ちょっと失礼します」と言って、医師はぼくの頭をコンコンとノックし、響きを確かめる。

 きのう見たホルマリン漬けの灰色の脳は、天使の羽と同じ色をしていた。

 「MRIを撮りましょう」と医師が言う。ぼくは違う部屋へ通され、造影剤を飲む。

 テクノロジーの進歩が顕著だ。この頃の磁気共鳴画像は、証明写真機のようなブースに入って、三、二、一で写真にできる。立ちながら全身が映る。

 そして底抜けに明るい女性の人工音声が不安な気持ちを和らげてくれる。心のバリアフリーだ。

 「用意はいいかなー?」

 ぼくは不意に懐かしくなる。

 「はい、チーズ!」

 まるでだれかと撮ったプリクラを思い出す。

 「忘れ物はないかなー?」

 すみやかに退出を促される。

 各部位六枚セットの磁気共鳴写真がガタンと出てくる。

 写真を見ると、頭蓋骨の輪郭の内側に何も映っていなかった。

 何かがパァーンと弾ける音がした。ぼくは壊れた真空管ラジオ。

 機械の故障なのか、事実の反映なのか、医師に確認するしかない。

 「学会に報告する必要がありますね」

 造影剤の副作用が効いてくる。

 「明日また来てください」

 気持ちが悪くなってくる。

 ぼくは立ち眩みをこらえながら会計を済ます。

 「造影剤をお飲み後は、四十八時間ほど飲食はお控えください」

 え、そんなに?

 「お会計は十三万八千円になります」

 え、そんなに?

 目の前の現実が受け入れられない。頭がくらくらする。

 こんなときどうすればいいのか。

 考えが巡る。

 きのうの夜は信じられない体験をした。それは今、昼にも起きている。

 考えが巡る。

 失うものがなくなってこそ何かを……。

 よろこんで手放したいと思うものしか……。

 世界はもうすぐ……。

 そうだ。ぼくは天使から連絡先をもらっていた。

 名刺に書かれた通常より倍近く桁の多い番号をダイアルして、ぼくは天使に電話を掛けた。 

 呼び出し音が鳴る。

 きのう天使は、ぼくに病院に行けと言った。

 呼び出し音が鳴る。

 嘘だと言ってくれ。

 三コール目で天使は出た。

 「そうか」と天使が言う。「話の続きをしよう」

 天使は車の中で会おうと言い、ぼくは社用車に戻って運転席のドアをバタンと閉めると、助手席に天使が座っていた。

 何がどうなってるんだ?と、ぼくはさっきの写真を天使に見せながら言う。

 「よく撮れてるじゃないか」と天使が言う。「あとで使うからしまっておけ」

 そうじゃなくて、ぼくは今どうなってる?

 「残された時間は少ないという印だ」と天使が言う。「メメント・モリ」

 ぼくに何かしたのか?

 「はっ!」と天使は言った。「おれが何かしたかって?おれは何もしていない。今のおまえは、すべて今までのおまえだ。そうしておまえがおれを引き寄せたんだ」

 ……何を言っているんだ? すべてが絶妙に嚙み合わない……。天使とはそういうやつだった。

 「肝心なのはおまえが何をしたかだ」と天使が言う。

 そのときのぼくに思い当たる節はなかった。

 だが聞いた。……ぼくは何をやったんだ!?

 「ふん」と天使が言う。「それはおまえ自身が悟って行動を起こさないと意味がない」

 さらに天使は言った。「自分自身の外側から与えられる確信などない」

 ……ぼくは混乱し、行き場のないやりとりが続く。

 ……ぼくは……ぼくは、まさか死んだのか!?

 「はあん?」と天使がキレ気味に言う。「死んでいないし、生きてもいないが、おまえは徹底的に救いがたいやつだ」

 とことん要領を得ない……。……どういうことだ? ……何がどうなってる?

 禅問答のような堂々巡りを繰り返しながら、ぼくは必死に何かを思い出そうとしていた。

 一体なんだこれは……? どうなってるんだ……?

 ……しかし肝心なことは何も覚えていない……。記憶の引き出しが開かない……。

 どうすればいいんだ…!?

 「きのうおまえは言っただろう」と天使が言う。「おまえ自身の望みを」

 ……ぼくはこのしょうもない現実を……

  抜け出したいと確かに昨夜言った。

 「どの道もどこにも至らない」と天使が言う。「だからこそ、何かを感じるならそれを手掛かりにしろ」

 ……確かにぼくは、目の前のしょうもない現実を抜け出たかった。

 かといって、ぼくは何から始めればいいのかわからなかった……。

 「そうだろうとも」と天使は言った。「人間とはそういうものだ」

 「行くぞ」

 

 昨夜天使は、人間を()きものに導くと言った。天使にはぼくのすべてがお見通しだった。

 聞きたいことは山程あったが、これから長い付き合いになることは知っていた。

 ふつうの世界では、人間が天使を見ることはないという。見えても、それが天使だとは気づかない。逆に、天使が天使に見えているときは、何かがおかしい証拠だ。

 そして天使はおまえに会わせたいやつがいると言い、ぼくは車のエンジンをスタートさせた。



6


 ()きものとは、何をいうのだろう?

 「論理の帰結じゃない」と天使が言う。「ベスト。その人間に備わる最良のもの。そいつがやったら、最高にいいなと思うこと。それに導くのがおれの仕事だ」

 生きていればこういう日もあることを想像してほしい。

 興味深い話だ、とぼくは動揺を隠さず言う。

 「人間は、善きもののために世界があることすら忘れている」と天使が言う。

 ぼくは造影剤の副作用がおさまらず、信号の赤と青がゲシュタルト崩壊しそうだった。

 「ただし、善きものが一目瞭然とは限らない」と天使は言う。「たいていは自分にとってのそれが何なのかさえ、人間は気づいていない」

 そういうものなのか、とぼくはアクセルとブレーキを踏み違いそうになりながら思う。

 ぼくは善きものに近づけるのかな?

 「おまえが望むのなら手伝おう」と天使は言った。

 そうしてぼくは、自分の可能性を信じてみたい旨を打ち明けた。 


 その後も車中で会話が続いたが、その内容はざっくりとこんな感じだった。

 主に天使のことで、要するに質疑応答だ。

 まず、天使は人間を善きものに導くのが仕事だと言った。しかし大抵の場合、人間たちには天使の姿が見えていない。

 「場合にもよるがな」と天使が言う。

 天使とはふだん、人間にとっては存在しないも同然なのに、どう導くのか?

 ふだん、天使は下界に降りて、人間たちに希望を与えたり、試練を与えたりする。不当に落ち込んでいる人間を見つけると、そばに寄り添って肩に触れてあげる。するとその人には希望が湧いてきて、ものごとを少し楽観できる。

 人間が善きものに向かっているときには、天使は必ずその予兆を示す。感じ取れるかどうかはその人次第だ。

 でも、なんでぼくには天使が見えているのか?

 「その意味を考えろ」と天使は言う。

 逆に、振る舞いを間違えていると思われる人間には、厳しい現実を仕向けたりする。しかし、厳しい現実の場合、善きものと違って天使に現象を捻じ曲げる力はない。なので、天界の上層部に打診する。そしてその承認が得られてから、天の意志が厳しい現実として(くだ)る。天使にも、遥か上のほうで起こっていることは、恐ろしくて想像もつかないらしい。

 そこは人間社会とあまり変わらないんだね、とぼくが言う。

 「上意下達だ」と天使が言う。「官僚制だ」

 ぼくは、神様は存在するのかと、果敢にも天使に聞いた。

 「会ったことはない」と天使は答えた。「いわく計りがたいものだ」

 そして、神の配剤という言葉を知っているだけでおれは十分だと言った。


 天使いわく、人生は上りでも下りでも、一本調子であり続けることはない。上がっては下がり、下がっては上がる。古代中国の賢人は、中庸が肝心と説いた。偉大な先人はこの法則に名前を付け、今では自然科学の用語でルシャトリエの原理と呼ばれている。作用反作用の法則ともいう。

 天使にも大勢いて、歴史的にみて種類も多岐にわたるという。

 天界に反乱を起こして地に堕ちた天使や、別の神に仕える天使。人間に恋した天使や、人間になりたかった天使。

 人間が天使になることもあるのだろうか?

 「なろうと思ってなるやつほど愚かしい」と天使は答えた。

 確かに、そういういたたまれない人々をぼくは見かけたことがあった。


 天使の仕事は、人間の歴史とともに変遷してきたという。今日では、天使は下界という単一の世界だけではなく、多種多様な個々人の主観の世界にも降り立つという。

 「その人間の世代にもよるがな」と天使が言う。

 そういえば、天使はぼくに世界はもうすぐ終わると昨夜言ってきた。それがふと思い起こされた。

 なのでぼくは天使に、この世界はどうして壊れていくのかと尋ねた。

 「すべてがおまえにとっての啓示にすぎない」と彼は答えた。「すべてに意味があると思え」

 その頃、確かに世界はどうかしていっていた。暗く、息苦しく、きな臭く、ものごとの意味が薄れていくようだった。


 天使にもすべての人間を救えるわけじゃない。たまには人の世の救いがたい惨状にぶち当たったり、あと一歩のところで命がこぼれ落ちるのを目の当たりにしたりする。そうして、何が天使だと、自分を責めたりすることもあるのだという。

 そんなとき天使は、一日の終わりに人間界の病院に出向き、新しい命の誕生を見物するというのだった。

 「想像してみろ」と天使は言う。「過去へタイムスリップして、自分自身がこの世に生まれ出る瞬間を見るのを」

 驚嘆すべき生の奇跡、か。


 そうしてぼくらは、とある写真館の前に到着した。ここに天使がぼくに会わせたい人がいるという。ぼくは駐車を済ませ、天使と中へと入っていった。



   7


 開けると吊り下げられた呼び鈴が揺れる写真館の入り口をくぐると、一人の若い女性が現れた。ぎょろ目で、茶色と黒と金の三色カラーの髪をしている。ずいぶん派手だな、とぼくは思った。

 「いらっしゃいませー!」と言うなり、女性は不意打ちでポラロイドカメラをぼくらに向けて、シャッターを切ってきた。ストロボが(またた)く。

 ぼくは言葉を失う。

 「写真は紙での保存をおすすめします」と言い、女性は出来たてのポラロイド写真に息を吹きながらパタパタと振り、どうぞと差し出した。

 写真にはみっともない顔をしたぼくと、視線を逸らした天使が映り、その後天使の姿だけじわじわと薄れて消えていった……。

 「天ちゃん、ようこそ!」と女性が言うと、「やあケイコ」と天使が応じた。

 彼女にも天使が見えている。この世界はどこまでも狂っている。 

 「この人は?」とケイコが言い、年上のぼくの顔を遠慮なしにぎょろぎょろと観察する。

 天使は病院で撮った写真を渡すようぼくに言った。

 「ああ、なるほどね」と受け取ったケイコが言う。「ちょっと待って」

 そうして彼女は何かを探し始めた。

 目のやり場に困りながらぼくが彼女の手元をちらと見ると、痛々しい(せっ)(こん)が数本刻まれていた。

 「ああこれ」とケイコが気づく。「うふふ、責めないで」

 ぼくは天使のほうを見たが、天使はぼくのほうを見なかった。

 「あったー」と言って彼女が取り出したのは、レントゲン写真だった。左右それぞれの手が一枚ずつ。しかし骨が……、ジグソーパズルのように部分部分しか映っていない……。グロテスクなまだら模様になっている。

 天使がほらな、という目でぼくを見遣(みや)る。ぼくは瞬きを忘れて凝固する。

 残されている時間が少ないと、写真に変なものが映るという。あるいは映らない。

 「これ写真屋の知識」とケイコが言う。

 ……ぼくは言いようのない毒々しさを覚えながら、これがシンパシーというのか同族嫌悪というのかわからなかった。

 稀によくあることなのだろうか。残された時間が少ない二人と天使……。

 ……それで、引き合わせてくれた理由は何だいと、ぼくは手元の何もない宙の一点を見つめながら天使に聞いた。

 「この子はロックバンドのボーカリストだ」と天使が言った。「歌を歌っている。シンガーソングライターだ」

 ……はあ、わりとすごいんだねと、ぼくは明後日の彼方から視線をケイコに移した。

「えへ」とケイコが笑う。

 「それで」と天使が続ける。「そのバンドが今、メンバーを募集している」

 はあ。とぼくは心ここに在らずで言う。

 「ライブが立て込んでるんだけどさ」とケイコが言う。「人手が足んないんだ」

 あっ、そうなんだ。ふーん。とぼくが(うわ)(そら)で言う。

 気がつくと、二人ともこちらをじっと見続けている。ぼくは何か無言の圧を感じ、空中に漂う危険な香りを察知する。

 ……ああ、はいはい、なるほど。はいはいはい、なるほどそう。はいはいはいはい、そういうことね、とぼくは言う。

 ちょっと考えさせてもらっ――。

 「今のおまえに選択肢などない」と天使が遮った。

 「えへ、急きょ抜けられちゃって」とケイコが怪しく笑う。

 ここ最近、あまりにも物事が起きすぎている……。だれかがだれかを絶えず悲しませている……。

 ……メンバーが足りないって、そもそもどのパートが空いてるの、とぼくは聞いた。

 「ギターとベース」とケイコが答えた。「ドラムは打ち込み。で流す。予定」

 それはもはや、そもそもバンドなど存在したのだろうか……。

 「おまえはギターが弾けるだろう」と、ぼくの事情を見透かしている天使が言う。

 弾けるけども。

 「じゃあ話は早い」と天使が言う。「今回、おまえはベースを弾け」

 いや、なんでそうなる。

 「おれはギターが弾きたい」

 君もやるんかい!

 「わーい!」とケイコがはしゃぐ。

 こうしてぼくは期間限定のバンドを組むことになり、しょうもない現実とやがて来る終わりの狭間を疾走し始めた。



   8


 翌日、ぼくは病院に来ていた。きのう、医師にまた来てくださいと言われたからだった。

 本当にぼくの頭は空っぽなのか……、それともすべてはまやかしなのか……。

 しかし案の定、謎は究明されなかった。ぼくは頭を木魚のようにぽくぽく叩かれるだけで、あらためて診てもらっても特段意味はなかった。

 その帰りがけに、病院内で急患がオペ室に運ばれていくのを見た。ぼくと同世代とおぼしき若い男性が、ストレッチャーに乗せられて緊急搬送されていった。付き従う医療スタッフの会話は、冷静かつ職業的で手慣れていた。きっと、よくあることなのだろう。その後ろを幼い女の子が追っていった。

 よくあること。だれにでも降り注ぐ。


 そして仕事の後、ぼくは集合場所に指定されたファミレスに行った。きのう組んだバンドの打ち合わせが開かれるからだった。

 ケイコが来て天使も揃い、三人でデザートのガス臭いマンゴーを頬張りながら、今後の段取りを決める。

 まずはケイコの身の上話を聞いた。


 ふだん写真館で勤務する彼女は、自分の歌いたい歌を作詞作曲しては、ライブハウスで披露している女の子だった。ケイコはトミー・ヘヴンリー・シックスや、ミッシェル・ガン・エレファントに憧れていた。

 「客前でやるのがたまんないの」とケイコは言う。

 ライブで歌うその瞬間になれば、嫌なことをすべて忘れられるという。しかし、以前の彼女は、精神が安定しないことが多かったようだ。他人に傷つけられたり嫌なことがあって塞ぎこむと、ケイコは自分を傷つけた。

 物理的に。

 ある日、捨てられた男の置いていったギターで、スリーコードの曲を通して弾けるようになったとき、彼女にはまったく違う世界が開けた。そしてケイコは、ギターと一緒に歌う歌の中に「生きている感じ」を得たのだった。

 ケイコは恥ずかしながら一度駅前で歌ってみてからは、人前で歌うことに味をしめた。さらなる脚光と、やり場のない感情の捌け口を求め、ライブハウスのステージにも立つようになった。

 スポットライトに当たる機会が増えるにつれ、ケイコの感情の起伏は激しくなっていった。彼女は躁鬱(そううつ)状態に陥った。

 (うつ)からは歌って抜け出せたが、逆に(たかぶ)りすぎた状態からケイコは元に戻れず苦しんだ。高まっているときの、頭のオンエア状態がいつまでも終わらない。ウワンウワンと鳴り続ける。

 するとケイコは、音楽関係のアングラな伝手(つて)からシンナーなどダウナー系の薬物について知り、それに依存していった。こうして彼女は再びぼろぼろになってしまった。

 ある夜シンナーがキマり、あ、このまま逝けるかもと思ったケイコは、包丁を手に新しい傷をつくった。痛くなかった。その場にへたり込み、やがて床に広がる血。恍惚としてくる。

 「はあーこうして終わっちゃうのかー」

 とそこへ、だれかがドアを開けて入ってくる。自分の家かのごとく澄ましてすたすたとやってくる――。

 「やあ」と、暗い部屋で光りながら天使が言った。

 「……あ、天使さん」と朦朧(もうろう)としたケイコが言った。

 こうして二人は出会った。


 「……お迎え?」とケイコが聞く。

 目だけで微笑む天使。「まだ」

 「……何の用?」と消え入りそうになりながらも(いぶか)るケイコ。

 天使は尋ねた。「君はまだ立ち上がれそうかい?」

 「……」ケイコは無言だった。

 「立ち上がりたいかい」

 「……」

 考えた末に、ケイコは「はい」と返事した。

 天使は「そうか」と言って目で微笑みながら、ゆっくりと瞬きをした。

 「…近々(ちかぢか)バンドを組みたいんだが」と天使が言う。「お手はすいているかな」

 「! いま手がこんなんなっちゃって……」とケイコが見せると、手首の傷は塞がっていた。

 「ほっ…!」と、ぎょろ目をさらに引ん()くケイコ。

 目だけで微笑む天使。絶妙な沈黙が流れる。

 「バンドではできれば歌と一緒に…」と天使が言いかける。

 「はい歌えます!」とケイコは食って答えた。

 「よし」と天使は言った。「では今からオーディションを行う」

 すると天使はベッドに立てかけてあったアコギをケイコに手渡した。

 「リクエストは何にします?」と逆にケイコが聞き、ふむと考えた末に天使は答えた。

 「『ゲット・アップ・ルーシー』」


 ケイコは複合的な理由で医者には通いたくなかった。金銭的にも、自分が恥ずかしいという気持ちからも。

 しかし死ぬ間際、自分は何がしたいと真剣に考えたとき、彼女はあらためて人に歌を聴かせたいと思った。こうして彼女は今、最後のぎりぎりの命を燃やしているところだった。



   9


 なおも打ち合わせは続いた。この三人で、一体どうバンドをやっていくというのか。


 まずはコンセプトというか、方向性を話し合った。

 足掛かりは天使の一声(ひとこえ)によって、ただロックバンドであるということだけだった。三人が好きな音楽に関しても、ケイコは他にガールズポップもよく聴いて、天使はメタルやハードロックに夢中で、ぼくはオルタナティブ系統が好きという結果だった。こうして見事にバラバラだった。

 そもそもロックとは何をいうのだろうか?

 そして話し合った末にぼくらに共通していた価値観は、ロックとは自分自身でいるということであり、何よりロックバンドはかっこよくなくてはならないということだった。


 ぼくは職場のパソコンで、ロックバンドのライブ公演のチラシを作成しながら、自分とは何なのか、いまひとつわからずにいる。イラストレーターでバンド名のフォントをいじり、情報を入れ、レイアウトし、配色する。前にいろいろなぼくの好きを嫌いで打ち消してきただれかの記憶がよぎるが、まずはライブに向け、バンドの曲を用意しなければならなかった。


 「機材はおれが揃えよう」と天使が言い、まずはスタジオに入って音を出してみることにした。

 スタジオでの稼働初日、言われた通りにぼくが手ぶらで入っていくと、そこには見たことも触ったこともない最高級の楽器や装備品類が並んでいた。

 純正メーカーのビンテージのエレキギターにベース、シールドやストラップやエフェクター各種、さらには細かいピック類やチューナー、そしてメンテナンス用具まで一式あった。

 ……これ、どうしたの? と、ぼくは興奮を隠さず天使に聞いた。

 天使は、どうやら無から物体を創造していたわけではなかった。全てもともと自分の持っているもので、それをどこからともなく瞬時に移動させているようだった。そして必ずどこかから仕入れたものを使っているとのことだった。

 ……それにしても、仕入れてるって、どこにそんなお金あるの? とぼくは聞いた。

 天使いわく、天使だけが使える黄泉(よみ)のマネーというものがあるというのだった。

 だれかが亡くなったとき、遺族が故人に生命保険が掛けられていたことを忘れているか、もしくは全く知らないでいることは往々にしてある。受取手のいない保険金。だれのものにもならなかったお金。それを黄泉のマネーといい、天使用の口座に必要な分だけ振り込まれるというのだった。

 通帳に、ゼロの表示がはちきれた数字の並びを見たことがあるだろうか。ぼくは未だに忘れられない。

天使の口座にもカネが無尽蔵に湧いてくるわけではないそうだったが、果たして使いきれるかどうかはまた別の問題だ。

 すべては善きもののためだと天使は言った。

 ぼくらは果たして、どんな善きものに向かうのだろう。


 ぼくは職場のパソコンで、自分たちのバンドのライブのチケットの売れ行きを確認しながら、カネよりも大切なものが人生にはあるのだろうかと自問している。堅実的にならなきゃと(さと)してきただれかの言葉が思い起こされるが、そんな場合ではなかった。ライブに向け、自分たちのバンドの曲を練習しなければならなかった。


 ケイコが作詞作曲してつくったデモテープと、ギターのコード入りの手書きの歌詞カードを頼りに、スタジオで音合わせする。生みの親であるケイコの意向を尊重し、意図を汲む。ケイコが歌い、それに合わせて天使とぼくが音を出す。

 ケイコの歌はうまかった。味があって、感情が乗っていて、テクニックどうこうというものではなかったが、なんだかよかった。ケイコの発想は総じてぼくらの理解の及ばないところから来ていたが、彼女の曲には突き抜けた衝動もあれば、思いがけない憂いもあって、時々心を動かされた。天使はそれこそ善きものを見るような目で見ていて、同時に「だろうな」という確信を漂わせてもいた。

 作業は試行錯誤を繰り返した。ケイコのデモ音源とは、実はギターの弾き歌いが録音されているだけのものだったからだ。前奏や間奏もこれといってなく、歌の部分だけコードが付いている状態だった。ゼロから一はケイコがつくってくれていたが、その一を百にしなければならなかった。


 ぼくは職場のパソコンで、自分たちのバンドの曲を音楽ソフトで編曲しながら、自分は今どこに向かっているのだろうかと考えに(ふけ)っている。社用のデスクトップに専用アプリをインストールし、USBでスマホと繋いでデータを移す。だれかと行った旅行のスライドショーが頭にうっすらと再生されながら。

 ケイコからもらった生歌の録音データと、天使から送られてきた彼考案のギターリフと一推しのメロディーラインをがっちゃんこさせる。その隙間を、架空のベースとドラムの電子音で埋め、とりあえずの雛形(ひながた)をつくる。

 こんな感じでどう? と、二人にそれをメールにファイル添付して送る。

 すぐに返信が来る。天使からだ。

 天使:ギターが埋もれてる。おれのアイディアを殺す気か。

 やつは暇なのか。

 ケイコからの返信は遅かった。たぶん女の子だからだろう。

 ケイコ:ごめん、寝てた。

 こんな感じで手探りで作業が進む。


 再びスタジオに入り、二人からのアイディアを取り入れた雛形を膨らませていく。

 ケイコがつくった曲の火種は、サビだけの場合も多かった。そのサビから逆算して、盛り上がる手前のBメロを新しくつくったり、逆にサビ終わりからAメロに戻るまでの間奏、さらに二番サビからの転調を考えたりした。ドラムの打ち込み音も、ケイコのイメージに合わせながら、厚みをもたせていった。

 思いがけず、ごちゃごちゃとした一曲が分かれて別々の曲になることもあった。休憩中のケイコの鼻歌から新しい曲が生まれたり、天使の即興フレーズとぼくの迷子になっていたアイディアが合体してもう一曲できたりした。


 そしてそうして出来た曲を、人に見せられるクオリティーに仕上げなければならなかった。



   10


 ケイコのレパートリーのどの曲も、だんだんとバンドとしての曲になっていった。そこからは、どんどんアレンジを加えていった。


 これはあえて弾き語りの感じを残そうといったり、ケイコをマイクだけで歌わせたり、一曲を別々のバージョンにしたり、天使とぼくでコーラスを入れるなどした。

 ケイコはアコギとエレキを使い分けるようになり、繊細に歌ったり時々がなったりと、さらに表現の幅を広げていった。自由な発想で新たに曲を生み出し、歌詞もがんばって書いていた。

 天使はさいしょギターの音を歪ませて荒々しく弾いてばかりだったが、やがてクランチやクリーンでカッティングする繊細さを覚え、あるいはワウやディレイなどの音作りの可能性を追求し、やがてソロパートのアレンジに没頭していった。

 ぼくはベースを弾いてはブリブリいわし、調整役として二人から投げられる要求を拾い、慣れない指弾きとピック弾きの両方を試し、演奏中に走る二人にじっと耐え、ときどき要所要所を遊んだ。

 こうしていると、ぼくはコピーバンドを組んだ高校時代を思い出す。当時サッカーを辞めて学校に居づらくなったぼくは、時間を持て余していた。勉強が将来に繋がっているとも気づかず、本当は何がやりたいのかもわからないまま、バイトをし、時々バンドを練習した。ひたすらギターを弾いていると、サッカーの時には経験しなかった手の痛みがあった。ふと顔を上げると、ぼくのそれは青春と呼ぶにはお粗末で、時間を無駄にしているような焦りがあった。


 ぼくは職場のパソコンで、出来上がった自分たちの曲を動画サイトにアップロードしながら、本当の自分は一体どこに存在するのだろうかと疑問に思っている。SNSに上げた数々の黒歴史を振り返りながら。

 天使と出会った頃の問答は忘れていなかった。自分は一体何をしでかし、こうして今があるのだろうか。その時はただ、生きていればこういうこともあるのかとしか思わないでいた。しかしながら、自分が単に遅れた青春を取り戻そうとしているだけなのではと、薄々気づきたくないことにも勘付いていた。今ぼくが目の前でやっているこれは、一体どういうことなんだろう? ……あ、先輩来た。隠そ。


 天使と一度サシで個室の居酒屋に飲みに行った。バンドを組むと距離が縮まるからだ。そして現時点で引っかかっていることを聞いてみた。だが、彼は肝心なことはいつもあの調子で、詳細に教えてくれなどしなかった。そういうやつだった、天使とは。

面と向かってではなく、手元のぬる(かん)を揺らして見つめながら、彼はこう言っていた。

 「おまえに備わっているものを、おれは気づかせるにすぎない」


 ぼくは職場の複合機で、ロックバンドのライブ公演のB4サイズのパンフレットを無断で二〇〇部カラー印刷しながら、自分の本当の可能性とは何か探し求めている。だれかと行ったライブの光景が頭によぎりながら。すると――。

 「『ポッピング・シャワー・クロニクル』って一体何だ」と、ぼくのコピー機不正利用の現行犯を押さえた上司が言う。

 ぼくはしばらく留守にしていたピエロの仮面をすぐさま被り、言う。

 あ、知りませんか。これ。今話題のロックバンドですよ。

 こうしてぼくは始末書を書くはめになった。


 活動が軌道に乗ってきた頃、バンド名を決めようという話になった。

 「ポッピング・シャワー」までケイコのセンスで決まったが、何かが足りないという話になり、天使の「クロニクル」か、ぼくの「シンドローム」を足すかで、バンド内は一時紛糾した。そのときのぼくらに引き算の発想はなかった。おう、やるんかいと、一瞬お互い掴みかかりかけたが、結局はぼくが折れ、珍妙にして滑稽なバンド名『PSC』が生まれた。


 曲が固まり、最初のライブが近づいてきた頃、会議を開いて作戦を練った。

 演奏もさることながら、ぼくらのバンドのコンセプトからして、どう見せるかも重要だった。やる以上はかっこよくなくてはならなかったからだ。そして、興味の範疇以外は一切無頓着だったぼくは、二人から私服がダサいと言われた。

 「なんかこう…」とケイコに言われた。「絶妙なダサさ」

 「それでステージに立つつもりか」と天使に言われた。「信じられないやつだ」

 ぼくはそろそろテーブルをひっくり返して泣いてやろうか迷った。

 そうしたこともあり、三人でステージ衣装を買いに、オーダーメイドの服屋へ作りに行った。こうしてケイコは毒々しい黒ピンクの組み合わせからは垢抜け、ぼくの私服はほんのちょっとマシになり、天使は新しいスーツをオーダーしていた。

 ちなみに、そのときの彼の仕立ての様子はこんな感じだった。流れる動作でお経を唱えるようにあれこれと指示していた。

 …生地は光沢のあるのこれと微かに(しま)のあるそれと、(ぼたん)は今回水牛と真鍮(しんちゅう)ので、裏地は(つや)のあるこれと深みのあるそれにして、(そで)は必ず本切羽(ほんせっぱ)で釦の数と並びと重ねはこうで、縫いの色はここの一ヶ所だけ違うのにして、ポケットの(ふた)は斜めの角度で、背割れは両端で、(すそ)はダブルで(えり)の返りはこうで、ステッチはこの間隔で入れて、背中のフィット感はこうで、ここはもっと絞って、全体のシルエットはもっとこう逆三角形にして、あとそれから――以下省略。

 ぼくはぽかんとしていた。ケイコはうっとりしていた。店員さんは絶句していた。


 その頃すでに、世間の人たちにも天使が見えているのだとぼくは知っていた。よくよく考えてみればおかしな話だ。狂った世界に身を置きながらも、ぼくは自身のしょうもない現実を抜け出るためのバンド活動に夢中で、その頃はあまり気にしていなかった。いや、というよりもただ迂闊(うかつ)に過ごして、重要なことを見落としていたのだった。

 天使は突然現れたり姿を消したりできたが、もちろん人前でそんなことはせず、かといって姿を見られても気にするような男ではなかった。ぼくとケイコ以外の人々が天使の起こす不可思議な現象を目撃することはなかったので、周りの人々は(はた)から見て、だいぶヤバい人がいるな、程度の反応でしかなかった。それに彼は、なぜか極力翼を使いたがらなかった。飛んでいるところは、実は殆ど見かけたことがない。

 天使は伊達でかっこつけだが、見せたがりの性格ではなく、厭世(えんせい)的でどこか哀愁すら漂っていた。ちなみに、彼の翼はスーツを突き破って生えているのではなく、ホログラムのように服の上から像を結んでいるのだった。

 

 三人の活動に自信が着いてきた頃、プロモーション活動も行った。

 チラシの作成もそうだが、予めケイコはライブハウス界隈ではちょっと名前が売れていた。一人で歌うぶっ飛んだ()という印象で。なのでぼくと天使は、そのケイコがバンドを組んだらしいと、出演予定のライブハウスを回って吹聴した。風説の流布だ。近々やばいのがくるぞ、と。

 噂は伝言ゲームでコアな音楽ファンから音楽関係者たちの耳に留まり、やがていくつかのレーベルにも届いた。『ポッピング・シャワー・クロニクル』の仕上がったデモ音源に、ライブの情報だけを記した怪文書をつけて方々(ほうぼう)に送ったりもした。詳細は不明のままに。

 こうして業界の人たちは思い始めていた。「あの羽生えたやつ、一体なんだ?」


 プロモーションを始めたての頃、アーティスト写真を自分たちで撮ろうという話になった。

 ケイコの写真館は客が来ないため、たまに練習のスタジオ代わりにもなっていたが、そのときケイコが思いついた。

 「うちらさ」とケイコが期待した目で言う。「ビジュアルいけてるよね」

 三色カラーの髪で病的にぎょろ目の女の子と、背中に羽の生えたスーツ姿の男と、何の変哲もないぼく。だが、気にしてもしょうがなかった。天使は、写真だけはやけに仕方なさそうに映っていた。

 アーティスト写真の編集はケイコが担当した。写真屋でもあるし、なかなかセンスの良い感じに仕上げてくれる。盛れている。

 そして行ったことのない場所の背景を差し込んでくれる。ここは一体どこなのだろうか。そうしてプロのミュージシャンなのかと見紛(まが)うクオリティーのものがいくつか出来上がった。

 そのうち悪ノリがエスカレートし、どういった世界観なのかわからない写真がいくつか誕生した。三人ともすかして別々の方を向いたり、三人輪になって寝転んで、真上から撮ったりした。しまいにはケイコの妄想が(はかど)り、最後には天使がなぜか椅子に浅く腰かけた状態でアコーディオンを持たされていた。


 あるいは、バンド名『PSC』のロゴデザインを広告代理店に依頼し、出来上がったロゴをプリントしたTシャツやパーカーを、予め制作会社に発注しておいたりもした。どこにそんな金があったかというと。

 「……おいこれ、どことどこの請求書だ」と青ざめた上司が言う。

 こうしてぼくは会社に謹慎処分をくらい、そうこうしているうちに、ライブ初日を迎えた。



   11


 今夜ぼくらは演奏中にゴミを投げられたり、飲みかけのペットボトルが飛んでくるかもしれない。ライブとはそんなに甘くない。だがそうされたら、はじき返すまでだ。

 やれることはやりすぎたくらいやって、初ステージを迎えた。プロモーションをやりすぎたせいか、ライブハウスは稀に見る大入りだった。

 本番前の楽屋。

 「いくぞおらぁ!」と、なぜか天使が円陣で音頭を取っていた。

 「最高の一日にしてやろうじゃん!」とケイコが気合いを入れる。

 いいね! とぼくも続いた。

 そしてステージに上がった。


 初めてのライブのことはあまり覚えていない。ただ演奏に夢中で、頭を振り、観客に煽られては煽り返した。

 客席の後ろのほうに幼い女の子がいた。

 ケイコの歌声を先頭に、天使とぼくがコーラスで加勢する。ケイコの歌は踊り、ぼくのベースは歌い、天使のギターは鳴いた。

 観客の反応が好奇から驚きに変わっていったのは、ステージから見てよくわかった。

 その日ケイコは、人生最高の日を更新したと言った。

 終演後、見に来ていた音楽関係者に、メジャーデビュー候補のバンドが集まるライブに出てみないかと言われた。

 ぼくたちは打ち上げへと急いだ。


 ある日、ぼくが自宅でバンドの曲を練習していると、天井から灰が降ってくるのに気づいた。

 しばらく会社に行かなくてよくなったぼくは、最近のニュースを見なくなっていたが、どうやらどこかの山が噴火して、火山灰が降り始めていた。

 ぼくのアパートの向かいの家は、取り壊されて回収されずじまいのガラと化していた。

 「おまえは()めすぎているよ」と、ぼくの部屋で筋トレしながら天使が言う。

 「この狂った世界で、チューニングを間違えている。自分も狂っているくらいでちょうどいい」


 天使はバンド活動と並行して、骨董品を蒐集(しゅうしゅう)していた。

 謎のアンティークを買う。あるいは、何にそんなもの使うんだ?と言いたくなるような道具を買う。この話はまた後で話そう。

 一度アンティークショップ巡りについていったとき、聞いてみた。

 ……それ、どこに飾るんだい?

 「おれの部屋だ」と天使は言った。

 天使は盆栽や陶芸やアクアリウムなども好きで、小さな理想世界の創造に余念がなかった。天使は天使なりに、この世界からの気紛れを求めていた。


 ある日、ぼくはゲオのDVDを間違ってTSUTAYAに返却し、電話で知らされ、困りますと言われて取りに行った。そもそもネットの動画配信サービスの品揃えが――以下省略。

 再返却を済ませた店内に懐かしい曲が流れていたので、ふともう一度過去に観たやつでも借りようと思い、棚を物色した。

 すると、いつも見かける幼い女の子がいた。しゃがんで一番低い位置のタイトルを順繰りに眺めている。……なぜ、いつもいるんだ?

 少女はぼくと目が合うと、しばらくそのままでいた。そして、走った。

 ぼくは後を追い、角を曲がるとその子は消えていた。

 最近のぼくは狐につままれ続けている。頬をつねられても醒めない自信がある。

 女の子を見失ったその場所には、『エターナル・サンシャイン』が平置きされていた。そうだ、映画を借りようとしていたんだった。

 好きな映画だった。でも気分じゃないんだよなと思い、『ファイト・クラブ』を借りた。



   12


 ポッピング・シャワー・クロニクルの快進撃は止まらなかった。

 次から次へとライブをこなし、話題が話題を呼んだ。少しずつ会場のキャパが膨らんでいった。

 ぼくたちが先に仕掛けておいたプロモーションのおかげか、注目は早く集まった。

 ぼくたちを見たことがある人はみんな思っていた。

 「歌もいいし、演奏もいいけど、あの翼つけたやつ何だ?」

 巷の人たちは天使を天使だと思っていなかったが、エレキギターを低く構えてそっぽを向いて弾く立ち姿は、次第にミーム化されていった。

 バンド名とビジュアルのせいもあって、最初ぼくらをコミックバンドだと思う人たちも多かったが、ぼくらは自分たちをロックバンドだと自認していた。


 人々の想像が先走りし、計画が前倒された。


 当初のライブの予定を消化しきり、さらに四、五本のステージを踏んだ後、『PSC』初のワンマン公演が決まった。小さくても念願の舞台だった。ケイコは飛び跳ねた。ぼくはぐっとガッツポーズした。天使は澄ましていたが、しれっと新しい衣装を注文していた。

 さらにそれを控えていたある日、とある番組で某有名ミュージシャンが、今注目のバンドとしてぼくらのことを言及した。それをきっかけに、あるプロデューサーがぼくらのライブの視察に訪れた。

 終演後楽屋にいたぼくらは自己紹介を受け、とあるオファーを提示された。そしてその夜、あろうことかテレビ出演が内定してしまったのだった。

 しかもだ。それはゴールデンタイムの音楽番組で、生放送でのパフォーマンスだった。それは自分が子供の頃から観ていた番組でもあった。まさかこんな日が来るとは。

 今あらためて思えば、ぼくらは完全に色物(いろもの)枠で、つまみ食い程度の好奇の対象として番組に呼ばれていた。世間は暗く、話題の少なかった当時だ。流行(はや)りのぼくらを食い物にしてしまおうとする、大人たちの思惑を感じないでもなかった。だが、メンバー同士で話し合い、やってやろうという結論になった。


 ぼくらは雑誌の取材を受け、インタビューに答えた。

 ・人気沸騰中ですが、今の心境はいかがですか?

 「歌ってるときが一番幸せなんですよね」とケイコが答える。

  ちょっと信じられないですね、とぼくが答える。

 「伝説になりたいですね」と天使が答える。


 ・魅力ある楽曲づくりの秘訣は何でしょうか?

 「こう、思ったことをわぁーっ!と表現することです」とケイコが答える。

 「壊れないと良いものは生まれない、です」と天使が答える。

 バランスを取ることを心掛けてます、とぼくが答える。


 ・『ポッピング・シャワー・クロニクル』結成の経緯を教えてください。

 「必然です」と天使が答える。

 有無を言わさずです、とぼくが答える。

 「奇跡です」とケイコが答える。


 ・テレビ出演も決まりました。今後の意気込みを聞かせてください。

 「滅びの美を体現したいです」と天使が答える。

 行けるところまで行きたいです、とぼくが答える。

 「……」とケイコは考えたあと「毎日を楽しく生きたいです」と答えた。



   13


 ぼく自身のしょうもない現実からは隔たってきているように見えた。しかし、簡単に心は揺らぐ。

 ザ・小者であるぼくは、「ポッピング・シャワー・クロニクル」でエゴサーチしては、ベース地味すぎる、ベースいたの?といった言葉に傷ついていた。……ぼくはジュリアにハートブレイク。

 「他人の価値観ばかり押し付けられているから酔って苦しくなる」と、天使がぼくの部屋の天井を修繕してくれながら言う。「おまえの操縦者はおまえなのに」

 そしてこうも言った。「だれかの好きそうな世界を演じるしかないと勘違いしている」

 その頃のぼくは、ワールド・ワイド・ウェブで自傷行為を繰り返していた。そうしてブルーライトに中毒症状を催してもいた。

 さらにその頃、よく地震が起きた。地面が揺れている最中なら、間違いなく世界を悲観できる。勢いに揺られ、ぼくは天使に、世界はどうやって終わるのか尋ねた。

 「それはこれから目撃するだろう」と天使が言う。「おまえ自身が終わるとき、世界も終わる。逆もまた真なりだ」

 ……観念的だ。あまりにも観念的だ。天使とはそういうやつだった。

 「だがしかし」と天使は言う。「すべてに絶望してこそ始まる」

 はあ……、とぼくは思った。そして考えた。

 ……人生は鳥かごの中で宣告された自由かもしれない。

 「何も得られないと知りながらもよろこんで動き続けることだ」と天使は言った。

 先人たちがしてきたことを、あえて自分もしてみようか。

 考えが巡る。


 ぼくとケイコの二人で自分たちの先が短い件について話したりはしなかった。もともといわくつきで始まったバンドだったし、その頃はもう後戻りできないほど勢いに乗っていて、あえて今見えている景色から引き戻してしまうのも違うと思った。

 そして『PSC』を始動させた脳の一件以来、ぼくはバンド活動と並行して科学の本を漁るようになっていた。一体この頭に何が起きているのだろうか。しかしその一方で、まだまだその時は来ないようにも思っていた。


 まずは脳の仕組みのことから調べてみることにした。

 何やら難しかったが、ぼくは自分がかっこいいなと思うところだけ反応するような子供っぽい人間なので、その琴線に触れたところだけ紹介したい。

…視覚情報は、角膜(かくまく)、水晶体、硝子(がらす)体の光学(こうがく)(けい)を通り網膜(もうまく)に到達……網膜の外層(がいそう)にある()細胞(さいぼう)光子(こうし)を受け取り発火……ガングリオン細胞……左の視野からの情報は右へ、右からは左へ……大脳(だいのう)皮質(ひしつ)に到達……。

 ふーむ、要するにこの瞳はスクリーンなのか、とぼくは思った。


 脳のクオリアというものについて読んだ。

 脳が感じるさまざまな質感のこと。この何とかな感じ。その一つ一つは、あらかじめ脳にプリ・インストールされていて、思い出すようにそれぞれのクオリアが生じるのではないかという。

ぼくはふと、この感慨が胸に去来するのも必然だったのかな、と考えた。そのとき偶然に、昔実家で飼っていた柴犬のことを思い出していた。元気にしてるのか?あいつは。そして霊魂というものの存在を思ってもみた。

 ここで、夢見がちなぼくの空想は飛躍しだす――。

 脳が感じるクオリアといった質感は、実は空中に漂っていて、この空っぽな頭は受信機にすぎないのかもな、とぼくは考えた。ラジオの仕組みがそうであるように。あるいはWi-FiやBluetoothと(おんな)じで。


 ぼくのエキセントリックは止まらない――。


 パラレルワールドの議論を読んだ。

 人は一つの世界線を進み続けるのではなく、無数の並行世界間を移動し続けるのでは、というアイディアだ。決定的な瞬間、重要な出来事、さらにはあらゆる選択のたびに、別の並行世界に移動し、またさらに移動していく。

 ぼくの考えはこうだった。つまり、未来は選び取れるという証左だろうか? おそらくどんな可能性もありうる訳で、それらをうまく選び取れれば、哀しい世界だってもう二度とないはず。理論上は。


 あるいは観測問題というものを読んだ。

 観測されてはじめて収束する量子のふるまいというもの。名前だけ聞いたことのある、シュレーディンガーの猫というやつだ。

 これはだいぶ難しかったが、要するに蓋を開けてみないとわからないということか、とぼくは思った。あるいはだれかがいて初めてぼくは存在するのかもな、とも考えた。

 そしてふと、都会で人に囲まれて生活していても、接点がなければ存在しないも同然なのかな、とぼくは気づいた。


 あるいは天使に借りた哲学書を読んだ。

 「人は生を蕩尽(とうじん)する」とあった。いわく、何かを為すための時間は十分にあって、何も為さないための時間はあまりにも長い。

 これこそが相対性理論かな、とぼくは思った。


 こうしてだんだんと、ぼくのいいように解釈するド文系のSFザワールドが構築されていった。

 すべては真実の近似値にすぎないとしても。



   14


 ぼくらのバンド『ポッピング・シャワー・クロニクル』は、テレビ出演の前にワンマンライブが控えていた。さらにその前に、ぼくらは気分転換に大自然の中にキャンプに来ていた。

 ずっと走り続けていたし、事はぼくらの読みと実力以上に大きくなってきてしまっていたから、骨休めにレジャーに出かけた。

 不穏なニュースが続いていたが、のどかな自然に囲まれて過ごした。他にはだれもいなく、山間(やまあい)に川が流れていた。


 「写真撮ろうよー」とケイコが言う。

 持ってきていたポラロイドカメラをスタンドにセットして、三人並んで撮る。

 こうしてぼくらは公式にではなく、プライベートで写真を撮った。

 撮れた写真を見ると、どれも天使は視線を外している。

 ぼくは天使に、なんで写真に映りたがらないのか聞いた。

 天使は写真は時に醜いものを映し出すと言い、「写真以外にも記憶は保存できる」と言った。「おれはその方がいい」

 写真には想いが映るとケイコは言い、「写真は紙で残したほうがいいよ。ぜったい」と言った。


 三人並んで写真を撮っていたとき、カメラの後ろにやはりいつも見かける少女がいた。

「見えないけどなー」と、ぼくの相談に対してケイコは言った。

 そして天使にも見えないものがあると知った。


 ぼくらは川で魚を捕り、夢中になってはしゃいだ。あるいは木の切り株をまな板に料理をし、ボートで川下りもした。

 「おいやめろ」と言う天使を、ぼくとケイコで川に突き落とした。水から這い上がり、翼をぶるぶるさせると、彼はスーツごと一瞬で乾いていた。


 「天ちゃんはああ見えて人のこと放っとけないから」と、ロックバランシングに熱中する天使をよそに、ケイコは言った。

 ケイコはぼくの気を抜くと現れる悲壮なオーラを察する。さすがは女の子だ。

 「まあ、いろいろあるけどさ」と横でケイコが言う。

 「何でも大丈夫じゃん。きっと。晴れに変わるよ」

 そう言われて、ぼくはどこか救われる思いがした。いいときのケイコの楽観さが羨ましかった。


 灰が降り続く空は、その日めずらしく晴れていた。


 夜になり、焚火を囲った。

 みんな楽器が弾けるので、一人ずつ披露しあった。自分たち以外の曲をやって盛り上がった。ぼくはこうしてだれかに弾き語りを聞かせたような記憶がよぎった。

 天使は焚火の前に腰かけて、瓶の酒を飲んでは肩越しに後ろに放り、また手から出して飲んでは、ゆらゆらと揺れる炎を見続けていた。

 ケイコも体育座りをしてじーっと火を眺めていた。

 ぼくはそんな二人を呆然(ぼうぜん)と見ていた。そして星空を見上げた。

 その頃世界は少しずつ崩れ始めていたから、夜空に幾筋もの彗星が流れていた。この空を見ればきっと、戦場の兵士たちも武器を捨てて、家に帰るのだろう。



   15


 ワンマンライブの日を迎えた。千人規模の会場。チケットは完売だ。

 単独公演なので、今夜観客たちは純粋にぼくらを目当てで来る。メモリアルだ。

 一番人気はボーカルのケイコで、同じくらい天使にもファンがいて、ぼくがビリであっても、三人で『PSC』だった。


 リハーサル。ぼくは場数慣れしてきていたせいか、特に緊張もせず、変に調子がよかった。マイクテストではショッカーみたいな声が出ていた。調子に乗ってピック投げまで練習した。今日ならコーラスのいつもの箇所も飛ばすまい。

 ケイコは緊張なのか、わりとあたふたしていた。打ち込みのテンポがなかなか決まらなかった。ケイコのその時の歌いやすさで上げ下げするが、行ったり来たりした。イヤーモニターの返りの調整も「?」を連発しては、やばいやばい、歌詞飛びそう、歌詞飛びそう、と繰り返していた。

 その日は単独公演で、会場もそこそこ大きければ、アシストしてくれるスタッフさんの数も多かった。披露する曲数もこれまでで最多だった。

 天使は一曲ごとに楽器を替えるつもりなのか、というぐらい数多くのギターを持ってきては、やれレーザーのタイミングがどうだの、演出の特殊効果をいつ使うだの、どの段取りでどのギターにするだの、スタッフさん達にあれこれ指示していた。

 スタッフさん達は思っていた。「この人、本番前からこの格好なんだ……」

 「ぎゃっ」そしてケイコが落ち着かない。「前髪切りすぎた!」

 開場ギリギリまで続く音合わせが、外で待つお客さんらの列まで漏れ聞こえていた。


 本番直前、ケイコはまだいつになくそわそわしていた。天使はただ静かにギターの動作を確認していた。

 円陣を組む。特別な舞台だが、やることに変わりはない。「いくぞおらぁ!」

 円陣が解かれ、いざ行こうとなっているときに、祈るように手首の傷を眺めているケイコの後ろ姿を見て、ぼくは声をかけた。

 するとケイコはすーっと大きく深呼吸をして、こちらを振り向かないまま、「やったる」と言った。吹っ切れてくれていた。

 オープニングのSEが鳴る――。


 開始早々、会場は圧倒的にホームだとわかった。

 いい意味で暴れられた。

 ぼくらは力を合わせてここまで来れていた。

 演奏中、今日は天使がいい意味で落ち着いているな、とぼくは思った。

 ケイコはMCでぼくらのバンドの経緯を語った。もちろん言える範囲内で。

 本編の演奏は、今までのぼくらを再確認するような時間だった。

 アンコールで新曲も(おろ)した。これからに向けてという意味合いもあった。ウケも悪くなく、ぼくは手応えを感じた。

 出し切った。自画自賛したいくらい、良いライブだった。

 

 アンコールの後、さらに拍手は鳴りやまなかった。やがて欲しがりの手拍子に変わった。

 再アンコール。舞台袖で天使とぼくは目を見合わせ、ケイコを一人で歌わせようと決めた。


 いいの?とケイコは何度もこっちとステージを交互に見た。

 ぼくは親指を上げ、天使はいってこい、と顎で促した。

 ケイコは恥ずかしそうに「じゃあ」と言って出ていった。


 観客はサプライズで沸いた。ボーカルのみの登場。やはりバンドの顔はボーカルだ。

 ケイコはアコギ一本で、自分の歌を最高の舞台で歌った。

 

 ステージ袖で見ていてもぼくは魅了された。

 かつては自殺未遂までするような()だったのに…。

 そしてケイコは特にお気に入りの三曲を歌い、ワンマンライブは終幕となった。

 あらためて楽屋に全員引き上げると、ぼくと天使はケイコに思いきり抱きつかれ、ぼくはお疲れと言ってねぎらい、天使は無言で受け止めていた。優しげな無言だった。


 そして。


 帰り道だった。

 興奮冷めやらぬまま、ぼくは次に待ち受けるテレビ出演のことを考えていた。

 機材車を降り、三人で駐車場から解散場所まで歩く道のりだった。

 そのときぼくらは喋らずに歩いていた。きっとさわやかな余韻に浸っているんだな、とぼくは思っていた。

 天使とぼくが並んで前を歩き、後ろをケイコが歩いていた。


 ふと、ケイコが後ろから着いてこないのを感じた。その一瞬が何もかも儚かった。


 「あ……、ごめん」とケイコが言った。


 ぼくは胸騒ぎがした。ものごとが遥か彼方まで遠のいていくのを感じた。


 「天ちゃんに寿命伸ばしてもらったけど、ここまでみたい」


 嘘だろう……?


 「ほんとに!わたし一人じゃこんなにできなかった!最高だったよ!ありがとう!もう思い残すことないよ!」とケイコが言った。


 そんな……。ケイコ、やめてくれ……。


 「バイバイ!」


 ケイコは消えていた。いなくなってしまっていた。ギターだけが置かれていた。ぼくは愕然とその場にへたり込んだ。横にいる天使のほうを見られなかった。


 別れは突然訪れた。涼しい風が吹く夜だった。

 

 天使は、善きもの、とだけ呟いた。



   16


 残された時間は少ないのだと、なぜ分かっているふりをしていたんだろう。

 今日、ぼく自身にも終わりはやってくるのかもしれない。

 ぼくも、ああして終わるのだろうか。

 しかし、ケイコは見事に善きものを体現してみせた。

 そして去っていった。

 ぼくも。


 ポッピング・シャワー・クロニクルはボーカリスト・ケイコの他界を発表した。

 テレビ生放送のライブ出演が決まっていた新人アーティストの突然の訃報。

 こうして望まぬ形での世間の注目を集めた。そしてさらに何かしらの声明を発表せざるを得なくなった。

 ケイコがいなくなっても、ぼくらは追悼として出演することにした。

 そして、ポッピング・シャワー・クロニクルは、追悼としての一夜限りのテレビパフォーマンスを最後に、解散すると告げた。


 百万人が観ていようと、当事者には関係なかった。


 当初、何組か出演する中のトップバッターとしての起用だったが、番組の出だしからお通夜ムードになってしまうからと、ぼくらの出番は急遽最後に回された。


 「続いては、ポッピング・シャワー・クロニクルです」と司会者の人が言う。

 こうしてその夜は始まった。

 …よろしくお願いします、とマイクを持ちながらぼくが言う。天使は横で会釈だけする。

 この日天使はサングラスを掛けていた。サングラスをした天使の感じは、さながらラルク・アン・シエルだった。

 女性アナウンサーが今回の事情を説明してくれる。

 「……残念だよね」と司会者の人が言う。

 …ええ、ほんとに、ぼくたちも驚いています、とぼくが言う。哀しいです。

 天使は無言だった。

 「思い出とか……何かありますか」と司会者の人が言う。

 …そうですね、とぼくが受け取る。

 いや、まずいぞ。その質問は今しないでくれ、とぼくは心の中で思う。

 直近でメンバーでキャンプに行きまして、とぼくが口に出して言う。

 あれはいい思い出だな、とぼくは少し泣きそうになりながら心の中で思う。

 すごく楽しかったのが印象深いです、とぼくは口に出して言う。

 ほんとはもっと言うことあるのにな、とぼくは心の中で思う。

 「……天使はどうですか?」と司会者の人が水を向ける。アーティスト名はそのまま「天使」だったが、しまった……大丈夫か?

 「そうですね」とマイク片手にサングラスした天使が答える。「思えば僕が誘ったのが思い出深いです」

 「…バンドに?」と司会者の人が聞く。

 「ええ、バンドに」と天使が答える。

 「あっ、そうなんだ。へぇー」と司会者の人が言う。

 「はい…」と天使が言いながら、うん、うん、うん、うん、うん、と確かめるように頷く。

 「はえー…」と司会者の人。

 案の定、気まずい沈黙が流れる。

 「そんな彼女に捧げたいです」と天使が間を埋めた。

 「それじゃ、スタンバイの方よろしくお願いします」と司会者の人が言う。

 拍手で送られ、ぼくらは席を立った。


 今夜披露する楽曲は、ぼくらの代表的な曲だった。思えばどれもケイコがつくった曲。いや、みんなでつくった。生んだのがケイコだった。


 ぼくと天使は位置について楽器を受け取る。当て振りではなく、生演奏だ。ロックバンドだから――。

 今回、ドラムは打ち込みではなく、番組側がプロのミュージシャンの人を用意してくれていた。きっと、ぼくら二人だけでは()が持たなかったせいだろう。

 センターマイクが立ったままの、ヴォーカル不在のロックバンド――。

 そこには手向けの花が置かれ、歌は、音源のケイコの声が流される。


 「それでは参りましょう」と司会者の人。

 「ポッピング・シャワー・クロニクルで――」と女性アナウンサー。

 「どうぞ」


 サングラスを外した天使と見合わせてカウントを取る。そうして演奏をスタートさせる。

 緊張よりも懐かしさが(まさ)る。

 前奏を終え、ケイコの歌が流れ始める。

 そして不意に胸を打たれる。

 ぼくから見て左で歌っていた。

 天使とぼくで攻撃的なコーラスを入れる。

 ああ。くそう。

 視界が(かす)んだ。

 壊れないと良いものは生まれない。

 その日、天使のギターは泣いていた。

 サビがくる。思い出が溢れる。

 ああ。ずっとこうしていられると思っていたな。

 壊れないと良いものは生まれない。

 演奏が終わりに近づく。

 この日は、追悼ということもあり、後奏の尺は長めに取ってもらっていたが、事件は起きた。


 溢れる思いでぼくは感情が(せき)を切って、ベースを叩くように、最後鳴らし続けた。それに呼応するように、天使のギターは暴れ出した。

 ざわつきだす出演者一同。

 狂っていく二人。ぼくらは終わる。そう、まもなく。

 ドラムの人は置いてきぼりだった。

 曲は終わったが、後奏が切れない。いつまでも続く。激しく鳴らし続ける。ぼくらは最後。

 ドラムの人が終わらそうにも終われない。

 ギターが吠える。ベースがボワンボワン地鳴りしている。どこまでも。どこまでも。

 慌てるスタッフの人たち。

 うわあああああああああああああああああああああ、と感情が爆発するぼく。

 おらあああああああああああああああああああああ、となりふり構わぬ天使。

 口をあんぐりと開ける司会者の人。

 気がつくと最後ぼくは、弦の最後の一本を引き千切ったあと、ベースを杖にしてかがんでふさぎこみ、しばらく顔を上げられなかった。

 天使はギターを振り回しながら尚も弾き、やがてサイレンのようなハウリングを起こし、ついにはネックを持ってぶん回し、あちこちへと叩きつけた。


 その夜、軽い放送事故になった。

 天使のギブソン・レスポール・サンバーストが、マーシャルアンプの網あみの面に突き刺さっていた。


 『PSC』はこうして終わった。


 ポッピング・シャワー・クロニクル。

 弾ける、雨の、年代記。



   17


 ぼくらはテレビパフォーマンス後、人々に顔を指され、簡単には外を出歩けなくなっていた。そりゃそうだ。衆目を集めた上での生放送で、ふつうにやらかしたからだった。不覚にも伝説をつくってしまった。これがぼくの望んだことだろうか?


 会社を謹慎中だったぼくは、テレビに出たことで違反と副業がバレ、役員会に呼び出された。久しぶりの出社でぼくはビクビクしながら、道化(どうけ)の修羅と化す。


 「今回のこと、どう思ってるんだね」と社内報でしか見たことのなかった役員が言う。

 はあ。何か。

 「なぜ会社に無断であれこれするんだね」と名前しか知らなかった役員が言う。

 ワークライフバランスです。

 「君は会社における自分の立場を理解しているのかね」とまったく知らない役員が言う。

 席は窓際にあります。

 「君はこの会社における何なんだね」と常務が言う。

 新種の悪性新生物ですかね。

 「君はこの会社で何がしたいんだね」と専務が言う。

 わかりません。

 こうしてぼくは無期限の停職処分をくらった。


 興味がないものには一ミリも心が動かなかったぼくには、「ふりをする」ということなどできなかった。当時のぼくは、そういうことにはただ単に興味がなかった。そしてぼくは、心底どうでもいいものに対しての態度が露骨すぎた。

 しかし、古い価値観に基づいて築かれたシステムの中にいては、縛られてそのことしかできなくなってしまう。自分の存在位置というのは常に一定ではなく、いつも状況は移り変わっている。ぼくらのやっていることはいずれ古くなって、やがて後ろからやって来た人に道を譲るしかないのだろう。


 ケイコの件で天使とあからさまに話したりはしなかったが、きっとぼく自身に何かを気づかせようとしているのは明白だった。

 天使はなぜぼくをケイコと出会わせたのだろう。聞いても教えてくれるようなやつではないので、自分で考えるしかなかった。

 「それはおまえ自身が悟って行動を起こさないと意味がない――」


 思えば、ケイコの寿命は元から少なかった。自殺未遂からの善きものだった。

 ぼくは脳無しとはいえ、自分が死ぬような心当たりは何もなかった。


 ぼく自身の善きものとは、バンドを組むことだったのだろうか。

 違う気がする。

 ケイコを見てぼくはどう思っただろう。

 天使はぼく自身の善きものに気づいているのだろうか?


 ケイコを見て触発される部分も多かった。

 ケイコがいた頃は意識していなかったが、作詞作曲をして自分で歌っていた彼女は、間違いなくオリジナルなものを生んでいた。

 そしてそれを残していった。

 この瞬間、ぼく自身にも終わりは近づいている。ならば……。


 死ぬ前に、ぼくもそうしたいと思った。ぼくも自分の生きた証としてオリジナルなものを残したい。そうやって死んでいきたい。いや、そうやってからでないと死ねない……。

 考えた末、ぼくは小説を書くことにした。この日々を記録することにした。

 この狂おしい日々を題材に、自らの生きた証を残すことに決めた。残された時間は少なく、さらに狂って壊れていくことになるとしても。


 ある日ぼくが部屋で小説を書いていると、天井から落ちてくる灰で作業続行不可能になった。天井どころか、もはやアパート全体がぼろぼろと剝がれて灰になりつつあった。

 ぼくは困ったなと思い、天使に電話した。

 「どれ」と天使が言い、夜に現れた。

 天使が現れるまでの間、ぼくは部屋を片付けながら思い出が巡った。この部屋は、ぼく自身の燻り続けた思い出の住処(すみか)でもある。

 天使が現れると、ぼくは外から部屋を眺めながら考えていた。

 結論から言うと、その日、ぼくは自分の住んでいた部屋を燃やした。

 アパートにはもうだれも住んでおらず、隣に住むオーナーも家を引き払っていた。それどころか、この街区一帯にもう殆どだれも住んでいなかった。


 天使は、二階建てアパートの二階にある自室を眺めるぼくを、横から見遣(みや)っていた。

 二人とも何も言わなかったが、ぼくの隣に立つ天使は勘付いている様子だった。

 ぼくは自分が何をしようとしているのかはわかっていた。

すると天使はタバコを一本取り出して口にくわえ、火をつけて煙を吐いてから無言で「ほれ」と差し出し、ぼくはそれをつまんで受け取って、窓から部屋へ放り入れた。

 火は一瞬で燃え上がった。


 こうしてぼくは、自分が燻り続けた思い出の部屋を燃やした。感慨が火とともに揺らいでいた。

 結局のところ「満足」というものは、世界が自分のものだと思えたときにだけ存在するのだった。

 「おれの部屋へ越してくるといい」と天使は言った。

 その夜、自分の部屋が燃え、やがてアパート全体が燃えるのを見た。



   18


 ぼくは甘い夢を見ていた。


 だれかが遠くからぼくを見つめている。ぼくがそれに気づくと、だれかは視線を逸らす。そしてまた見つめてくる。繰り返す。飽きない様子。

 ぼくが通ったところを、だれかも通る。ぼくが触ったものを、だれかも触る。ぼくが居たところに、だれかも居る。気づけば、離れていただれかは少しずつぼくの近くにいる。


 ぼくはこちら側の島で笑う。するとだれかもこっちを見て笑っている。ぼくが楽しそうにしていると、だれかも笑いたくなるらしい。

 ぼくはだれかの島へ近づく。だれかは緊張した面持ちを隠している。ぼくはだれかへ近づく。だれかは、しゃべるのは様子を見て慎重になり、こっちを見守ることに集中している。しかし、遠くにいるより目を逸らさなくなる。

 だれかと目が合うと、うれしさが弾けている。にやにやが止まらなくなっている。ぼくが正面の別の人を見ているあいだ、だれかはじっとぼくの顔を眺めている。視線が熱いくらいだ。


 ぼくはだれかの隣に座った。わあと沸いて、だれかはぼくの膝に手を置いた。ぼくはそれを気に留めないが、だれかは待ち望んでいた様子だ。

 そのうちぼくの手に何かが触れる。くすぐるように様子を窺う。そしてだれかの手が重なる。ぼくは何も反応しない。やがてだれかは裏返しのぼくの掌を上向きにひっくり返す。我慢できない様子。

 だれかはぼくのほうに寄りかかってくる。だれかはぼくの手を、指と指を組んで握る。だれかはぼくの手をつかんで胸元へ運ぶ。だれかはぼくの手をそこに押しあてる。

 ぼくはその招待を保留する。ほかの人の目がある。だれかは不満そうにぼくにもたれかかる。次第にだれかはふてくされて、ぼくの肩に顔をうずめる。ぼくは仕方なくだれかをさすってあげる。時間だけが過ぎていく。


 パーティーは終わりを迎える。みな散り散りに帰り路につく。ぼくは一人で歩きだす。

 すると、だれかは別方向へ帰ったはずなのに、ぼくの方向へと追ってくる。どうしたのとぼくは振り返り、だれかは駆け寄ってくる。

 その合流に、だれかは見え透いた理由を言う。声が甘い。甘ったるいほどに感じて目がまわる。だれかはぼくの後ろをついてくる。

 だれかはぼくを褒めだす。

 優しいよね。

 そうでもない。

 声かっこいいよね。

 そうでもない。

 男らしくて、好き。

 何が。


 気がつくと、まただれかはぼくの手を握ってくる。むりやりに両の手をつないでくる。

 ぼくはよりによって今日なのかと思う。明日も朝から望まない仕事が待ち受けている。

 灼けるような眼差しを感じる。ぼくは耐えきれずそれを見られない。信じられないとすら思う。

 やがて足を止められる。両の手は繋がっている。ぼくは立ち止まり、だれかに振り向かざるを得ない。切迫した無言の訴えに加え、だれかの瞳はうるんでいる。だれかはつま先立ちで背伸びをして、ぼくの見ているその瞳が、だんだん近く、近くなって、閉じる。

 そして二人は歩き出し、言い訳の余地を残し、二人きりになれるところに行く。わかりきった最後の茶番をし、だれかは恥ずかしがり、絶望的に甘えながらしおらしく濡れ、ぼくは明かりを消す。

 だれかの身体はとても熱く、ぼくらはまぐわい、ぼくはだれかの身体のすべてに触れ、だれかはぼくを内側で感じ、やがてふたりで果て、横に並んでお互いどうしを呼んだ。

 

 そんなだれかを、ぼくは覚えていない。



   19


 目を覚ますと、天使が『戦場のメリークリスマス』をエレキギターで弾いていた。

 ……うるさいな。そんな歪ませるなや……でも上手いな、おい。

 天使の部屋に越してきて初めての朝だった。引越しの一部始終はこうだ。


 ぼくの部屋を燃やしたあと、必要最低限の荷物を持って、歩いて天使の部屋までついていった。飛んだ夜が思い出された。

 「着いたぞ」と天使が言うと、何の変哲もない、新しめの重層長屋だった。一階にある玄関ドアを開けると、そのまま階段だけが伸びていて、二階の部屋まで続いているやつだ。海まで続く川沿いの、広い道路に面してその家はあった。

 こんなところ住んでるのか? とぼくは思った。人のことは言えないが。

 お邪魔します……と、階段を上っていくとそこは別空間だった。

 巨大なアトリエになっていた。遠くまで広がっていて、ありとあらゆる芸術作品の工房と化している。 照明はレトロな電球が垂れ下がっていて、暖色が部屋を包み込んでいる。外の見える枯れた木枠の窓もいくつかある。

 絵も彫刻も木工や天然石の工芸品も何でも置いてある。それからアンティークが立ち並ぶ。広いが、物があまりにも多くて、ごちゃごちゃした迷路のようだ。そして珍妙な道具類が台に置かれている。

 これも黄泉(よみ)の部屋、今はもうだれも住まなくなった部屋なのだろうか、とぼくは思った。

 そんなこんなで、そのアトリエの壁際に居住スペースをあてがわれた。

 「そこで寝るといい」と天使が言う。

 ……布団も何もないけど? と、ぼくが天使を振り返ってからもう一度そこを見ると、つつましいベッドが置かれていた。

 天使の寝床は物に遮られた遥か遠くにあって見えなかった。天使の部屋は、世界の崩壊とは無縁でいるようにすら感じた。


 こうしてぼくは天使の部屋に移り住んだのだった。そしてそこからは、どんどん日々はおかしくなっていった。


 ある晩カタカタカタカタ音がするなと思ったら、どうやら天使が椅子に座ってタイプライターを打っている。今どき珍しいなと思い、ぼくは後ろから覗いてみた。

 一見したところレトロなアルファベットのタイプライターで、英語なら多少読み書きできたぼくだったが、天使は何やら意味不明な文字の羅列を打ち込んでいる。アルファベットだが……たぶんヨーロッパの言語でもない。

 そしてその文字は、タイプされた順にじわじわ紙の上から薄れて消えていくのだった――。

 事ここにまで及ぶと、ぼくは天使といる時の超常現象の理解はもはや放棄しつつあった。

 それでも聞いた。……何の意味があるんだい?

 尚もしばらくカタカタいわせていたが、やがて区切りのいいところで手を止め、天使は答えた。

 「メッセージだ」と天使は言った。「コミュニケーションの中に人は存在する」

 はあ……、とぼくは言った。……どこと通じるの?

 「愛が」とまたカタカタ打ち出してから天使は言った。「呼ぶほうへ」

 ……ああ、その曲はぼくも好きだよ、とその時ぼくは返した。


 ある時、ぼくが買い物から帰ってくると、天使は部屋のごみを銃で撃って掃除していた。物騒な銃声音とともに、撃たれた粗大ごみは消滅して跡形もなくなっているのだった。

 ……ああ、こりゃまた何てこったいと、感覚が麻痺しきったぼくが聞くと、天使はブラックホールだのハドロン衝突だのと、訳のわからないことを言っていた。「撃つと次元が破れる」

 そして「それももう要らんだろ」と、ぼくの背後にあるかばんに銃を向けてくる。いや、いらんけども。

 「あれも」

 危ねっ。

 「これも」

 おい馬鹿っ。

 「どれも」

 いい加減銃をこっちに向けるなアホッ! とぼくはキレた。

 心外だなという目をして「言葉には気をつけることだな」と天使は言った。「事態を生み、責任が伴う」

 そして、「はじめに(ことば)ありき」と言いながら、ぼくの観賞用の限定スニーカーに銃を向けていた。

 やめろぅ!


 またある時には、部屋の片隅にある天使の書棚を覗いてみたことがあった。すると思ったよりも彼の蔵書は少なかった。

 パウロ・コエーリョ。

 サン=テグジュペリ。

 ヘルマン・ヘッセ。

 天使は外国の本が好きなようだった。そしてぼくと違い、無駄な本は持たないようにしているようだった。

 知っている映画も何本か置いてあった。

 『ブレードランナー』

 『ラストエンペラー』

 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

 『マグノリア』

 『ショーシャンクの空に』

 ……そしてひっそりと『ベイブ』が置かれているのを見て、ぼくは笑いをこらえた。

 

 アトリエには、彼の描きかけの絵も多々置いてあった。知っている絵の模写もいくつか置いてあった。

 クリムト。

 ピカソ。

 ミレー。

 イギリスの方のミレー。

 それからシャガール。

 ぼくはそのシャガールの絵になんだか引かれるものがあり、画像検索で絵の題名を調べてみた。『オルジュヴァルの夜』といった。青く暗い夜に、天使と花嫁と、暗く夜と同化して目立たない青年が描かれている。そして金の牛がバイオリンを弾いている。なんだか胸に来るものがあった。


 不思議なことはまだまだあったが、挙げればきりがない。


 あるとき、天使の部屋の一角に、スノードームのような球体が飾られているのを見つけた。中はやけにリアルな縮尺をした砂漠で、真ん中にほんのちょっとオアシスが見える。しかし、中の世界では風が吹いて、砂の波紋や木が揺れているのだった。

 「世界を閉じ込めておく玉だ」と、眺めていたぼくの後ろから天使は言った。「おれは写真よりその方がいい」


 ケイコ、元気にしているかい。

 そして、思い出せないだれかも。

家族、期待してくれた方々、同級生たちに

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