第七十一話 孤独
「――がぁぁっ!」
牙が抜ける時に走るのは激痛ではなく、全く別の感覚だった。
吸い続けられれば死ぬ。生命そのものを吸われていながら、牙の与える快楽が正常な考えを失わせる。
俺に突き放されたファリナは少しも体勢を崩さない。口元についた血を白い指で拭うと、恍惚とした表情で舐め取る。
「ずっとこうしたかった……マイトの筋張った首が好きだった。喉の出ているところも、そこから下の鎖骨も」
「お、お前……お前はそんなこと……」
「……今の私は、もう聖騎士でもない。魔竜を倒した英雄でもない。仲間がいなくなって、それを取り戻そうとして、ばかなことをして……吸血鬼になった、それだけの存在」
それがファリナの本心だとは思えない。吸血鬼化したことによって、思考を捻じ曲げられている――人格が魔族に傾いている。
しかし今までに見た眷属とは、吸血鬼化の度合いが明らかに異なる。進行している――吸血鬼化を一種の病とするならば、ファリナの状態は誰よりも重い。
「これが、試練なのかもしれない。女神様の言うことは本当だった……こうやって、マイトに会わせてくれた」
「っ……女神がファリナを、ここに連れてきたのか?」
痛みに疼く首を押さえながら、俺はファリナに問いかける。
俺は女神の力で転職を果たし、死ぬ運命を免れた。女神は俺を救ったとそう思っていた――だが、ファリナがここにいる理由が女神の導きによるものなら、その考えは揺らいでしまう。
「あなたがいない世界は、私にとって、そんなに価値があるものではなかったの」
「っ……違う……ファリナ、お前がそんなこと考えるわけがない……!」
――魔竜を倒したら、聖王国の人たちの心が安らぐ。そう思ったから旅に出た。
――苦しんでいる人を放って進んでも、私はきっと後悔する。
――どんなことをしても魔竜を倒す。そうすることが、私の生まれてきた意味だから。
幾つもの言葉が蘇ってくる――俺の中で、ファリナという人物を形成しているもの。
それは人々を脅かすものを許さないという、明瞭でいて儚く、それでも壊れない意志だった。
俺たちの中で、最も彼女が英雄と呼ばれるにふさわしかった。俺などファリナに比べたら、その資格を万分の一も持ってはいない――なのに。
「魔竜を倒すことなんて私たちの義務じゃない。あなたが私の前で死んでしまった時に分かった……私が守りたかったものは、言葉も交わしたことのない多くの人なんかじゃ……」
「……光栄だ……そう言いたいが。俺が知っているファリナは、そんなことは言わない」
「私はあなたが知っているファリナじゃないもの。魔族として変わってしまっているとしても、これも本当の私……」
それは嘘ではないのかもしれない。一緒に旅をしても、仲間の全てが理解できるわけじゃない――ファリナも、シェスカも、エンジュも。
「それでも……ファリナ。俺がお前を人間に戻せたら、今言ったことは忘れてやってもいい。俺みたいな野暮な盗賊に、気の迷いを起こしてたなんてことはな……っ」
「……マイトは、いつもそう。自分がどう見られているか、どれほど大切にされてるかを知らないから、自分の命を投げ出せる。あの時も……今だって」
全く知覚が及ばない。動き出す予兆も感じ取れない――レベル99の聖騎士が血を吸われ、眷属化することによって身体能力が向上する。そうして到達した領域は、俺の理解を超えたところにある。
――『ファリナ』が『パラライズアイ』を発動――
それも吸血鬼の能力なのか、目が合っただけで身体の自由を奪われる――そして、ファリナは悠然と近づき、俺の目の前に立つと、頬を包むように触れてくる。
「マイトを、私の眷属にしてあげる。そうしたら、ずっと長く生きられるようになって、あなたは無茶をしても死ななくなって……いつも、一緒に……」
言葉を返すことができない。指一本動かせない――月明かりの中で、赤い唇の鮮明な色彩が強く印象に残る。
「……マイト……」
俺が彼女を止めなければならないと思った。
だが、どうにもならなかった。驕っていた――一人でも上手くやることができると。
それでこのザマだ。ファリナが言う通り、俺は魔竜を倒した時から、何も――。
「――マイトッ!」
高らかな声が響く。追いついてこられるわけがない――王都からの距離を考えれば、彼女たちがここにいるとは考えられない。
――『リスティ』が『姫騎士の威光』を発動――
「っ……!!」
月光だけで照らされた部屋を、白い輝きが貫く。ファリナの手が緩み、『パラライズアイ』の効果が途切れる。
「これくらいのことで……私は引けない……!」
「――はぁぁぁっ!」
――『ファリナ』が『ダークネスブロウ』を発動――
――『プラチナ』が『高貴なる犠牲』を発動――
ファリナが俺に牽制するように放った攻撃を、割り込んできたプラチナが受け止める――持っていた盾は砕け、彼女の鎧もまた破壊されるが、プラチナ自身は傷つかず、倒れない。
レベルの差があっても一度だけは攻撃を受ける――防具を犠牲にして。レベルの上がったプラチナが身につけた技を、一か八かで使ってくれた。
「マイト、その人がマイトにとって大事な人なら、私たちにとってもそれは同じなんだから……っ!」
「そうですよ、はぁっ、はぁっ……マイトさん、私たちを置いていくなんて、はぁっ……けほっ、けほっ」
塔を一階から駆け上がってきたのか、ナナセが咳き込んでいる――攻撃を弾かれ、一度距離を取ったファリナは、眩しそうに顔に手をかざし、目を細めている。
「……あなたたちが、マイトの新しい仲間……邪魔は、しないで」
「相手とはレベルの差がありすぎる……だが、必ずチャンスはある」
「ええ……っ、ちょっと、こうして立ってるだけでも膝が笑ってるけど……」
「勝負は最後に立っていたものが勝ちなのだ。気持ちで負けていては始まらない……!」
「ようやく落ち着いてきました……なんとか薬瓶を割らずに階段を上がってきたので、やっちゃいますよ!」
ファリナの強さを一番よく理解している俺より、三人の方がよほどやる気だ――やはり俺は、見誤っていた。
俺たちは四人でここまでやってきた。それは俺が一人であるよりも、パーティが揃った方が強いということだ。
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