第六十話 女神の動揺
女神ルナリスは、このところ妹神であるイリスの姿を見ていなかった。
ルナリスは時折マイトの様子を見ていたが、王都べオルドに入ってからの行動は彼女の意識を釘付けにしていた――賢者としてマイトの手に入れた魔法、その効果はルナリスですら知り得ないものだった。
「……初対面の人物が相手でも、心の扉を開けてしまう。条件を満たしているとはいえ、こんな力は……」
マイトの魔法は、彼が盗賊を極めた先に得られたものと考えられる。賢者としてはレベル3であっても、盗賊時代のレベルを含めると、99を超えているということだ。
(レベル102……そんな人物が存在できるの? それはもう、人間の領域を超えてしまっている)
レベル100を超えるのは自分たちと同じ神と、異世界から召喚された存在――魔竜レティシアなどの『魔王個体』か、それに対抗する存在のみ。
ルナリスが与えられた知識では、『そういうこと』になっている。マイトのレベルが100を超えているとするなら、ルナリスにとって看過できる事実ではない。
(マイトのパーティのメンバーもレベル99に達している。何らかの干渉をすれば、レベル100を超えてしまう……? それが『駒』に求められる条件ならば……)
「……ふふっ。姉さま、面白いことになっていますけれど、ご覧になられましたか?」
「イリス……」
忽然とイリスが姿を現す。ルナリスは空中に浮かび上がらせた映像――拠点で仲間たちとともにいるマイトの姿が映っている――を、手を小さく振って消した。
「私の駒のファリナを、下位の区域に英雄として送ったのですが。少々、手違いが起きてしまいました」
「……下位の区域?」
「ええ、そうです。ベオルナート王国のある大陸ですね」
ルナリスが見ていたマイトがいる場所――それはまさに、ベオルナート王国の王都だった。
「レベル制限が10以下の区域は幾つかありますが、このところあの国は平穏が続いていましたので。魔族による混乱が必要と判断されたようですね」
「……あなたの判断ではないのね?」
「私は裁定者ではなく、ただの管理者ですよ? 姉さまもそれはよくご存知のはずです」
「過干渉は慎むべきです。あなたにはいつもそう言っているはずだけど」
ルナリスはイリスが本当のことを言っていないと感じていたが、嘘をついていると断じることもできなかった。
「やはり有望ですね、魔竜を倒したパーティは。一人ひとりが可能性を感じさせてくれる……本当に三人とも私の管轄下でいいのかというくらい」
「あなたは彼女たちに何をしているの?」
「ファリナについては、もう一度『魔王個体』と戦ってもらうつもりでしたが……その必要もありませんでした。考えてもみない形で、彼女は強くなれた」
「そういうやり方は、歪みを生む……勧められたものではありません」
「理の限界に達した存在がそれを超えるには、試練が必要なのよ。私は姉さまとは違うやり方を試しているだけ」
「もし貴方がファリナをいたずらに苦しめることをするならば……」
「駄目よ、姉さま。だってあの子は私のものなのだから。姉さまのお気に入りにも手を出さないであげていること、分かっておいてね?」
それ以上ルナリスが問い詰める間もなく、イリスは姿を消してしまう。
彼女たちは姉妹であり、敵対してはいない。それでも互いの考え方の違いが、ルナリスには歯痒く感じられた。
もう一度マイトの姿が空間に浮かび上がる。マイトは王都に入り込んでいた魔族の眷属、三十余名の『血の呪い』を解いていた――しかし全ての眷属が、王都の中から消えたわけではない。
「彼女たちの主である魔族……吸血鬼は、塔から出てこない。この状況で……」
このまま眷属の全てが消えるまで、何もせずに居るとは考えられない。ルナリスは下界に目を向けすぎることを避けていたが、王国を脅かしているという魔族の根城――王都西方にある塔に視界を移す。
(っ……なぜ……吸血鬼と言っても、これほどの力を持つ者が、この場所にいるなど……)
『暗夜のサテラ』は、ルナリスが知る限りは中級魔族であり、低レベル帯の一国を滅ぼすにもある程度の準備を要する程度の実力のはずだった。
だが、今塔から感じられる力はその域を超えている。何者かが塔から発せられる、圧倒的な魔力を緩和させる結界を張っている――それは、マイトの仲間だった神官のシェスカによるものだった。
レベル制限のある場所に入るために、シェスカは力のほとんどを抑えている。抑制を解放することはできるが、そのたびに激しい消耗を余儀なくされる――その状況で、シェスカは塔近くから離れずにいた。
(イリスが行った干渉は……ファリナを吸血鬼化するように仕向けること。神官が同行していれば、『血の呪い』は防げたはず。そうでもなければ、ファリナがサテラに遅れを取ることはありえない……なんてこと)
ルナリスが管理する区域はベオルナートのある大陸だけではなく、マイトだけを見ていることもできない。しかし、そうしておくべきだったとルナリスは悔やむ。
「ファリナを救える可能性があるのはあなただけ。マイト……どうか、その力で……」
一つ目の扉は『交友』によって開き、それを開くことで封印技がひとつ解放される。
二つ目の扉は『結束』によって開く。しかし『血の呪い』を解くためであれば、交友を経て結束に変わる、その過程は必須とはならなくなる。
つまりマイトが二つ目の扉を開いた三十余名は、二つもの心の扉を開かれていることになる。それをマイトが自覚し、力を利用すればどうなるか――吸血鬼たちが眷属として選んだ人々が、全てマイトの協力者となることを意味する。
(……もし、マイトが呪いすら関係なく、二つ目の扉を開けられるとしたら。その力をあらぬことに使えば、世界を支配することさえできてしまう。レベル101の賢者として)
ルナリスは胸を抑える――自分の生命活動を気にすることもなかった彼女は、久しぶりに自分の心臓の所在を思い出す。
「でも、あなたはそうはしないのでしょうね。マイト……」
薬師の少女に寄りかかられたマイトが、もう二人の仲間と話している。そこにメイベルとウルスラ、そしてモニカも現れる。
「……大変そうですね、私の英雄様は。できるだけ、急いでください」
ルナリスはほどなくマイトたちの映像を消し、紺碧の空に浮かぶ月を見上げた。女神にあるまじき感情を持て余すように、苦笑いを浮かべて。




