③あなたにとっての僕、僕にとってのあなた
「……拓夢君、どう? この学校には、慣れた?」
衣擦れの音と共に長い脚を組みながら、夢子が尋ねる。
「慣れましたよ。色々なことがありましたから」
「ほんと言うとね、こっちもその『色々』は聞かなくても知ってるの」
夢子はくすくすと微笑んだ。
薔薇のように赤い髪、誰もを魅了するビーナス型の体形、そして神々しいまでの美貌……は、少し青白いように見えた。
放課後。拓夢は理事長室で定例報告会を行っていた。
やたら長い廊下といくつもの教室を通り過ぎる理事長室への行き方も、もう慣れたが。
慣れないのは、咳の音。
先ほどから5秒に1回は「ごほごほっ!」と苦しそうにせき込んでいるし、心なしか、少しやつれた頬は顔色が悪い。
「夢子さん……お体、大丈夫なんですか?」
拓夢は夢子に尋ねた。
「大丈夫よ。ちょっと痩せてるでしょ? 今ね、ダイエットしてるのよ。女も三十路を超すと、急に体形が崩れるようになっちゃってね」
夢子はイタズラっぽく笑うと、立ち上がってシャドーボクシングを始めた。
「ほら、見てて」
夢子は堂に入ったフォームで、軽快なリズムのジャブを何発か繰り出した。
しかも早い。これだけの動きを何回も繰り返せば、ダイエット効果があってもおかしくはない。
やはり、具合が悪そうに見えたのは自分の錯覚か。
拓夢がそう思った、その時だった。
「……ごほっ!?」
突然、夢子はせき込み始めた。
そのまま膝から崩れ落ち、何度も「ゲホゲホ」と苦しそうにむせぶ。
「だ、大丈夫ですか、夢子さん!!」
拓夢は女性アレルギーのことも構わずに、夢子の背中をさすった。やはり、体が少し細くなったように感じる。そして、この苦しそうな様子。病人であることは拓夢にもすぐ分かった。
しかし、夢子は、
「ねぇ、拓夢君。学校は、楽しい?」
心配する拓夢に、逆にそう問いかけてきたのだった。
「学校ですか……? は、はい。凄く楽しいです」
すると夢子は苦しそうに、しかし満足そうに微笑んだ。
「そう……よかった」
「夢子……さん?」
拓夢は呆然としていた。
夢子に自分の出自を尋ねようとしていたのに。
その決意が揺らいでしまうほどに。
「私も少しは、罪滅ぼしが出来たみたい。いいえ、何を言っても言い訳ね」
「……?」
「拓夢君。もっと聞かせて。この学校の、どういう所が楽しいの? お友だちのこと、どう思ってるの?」
「お友だち……ですか?」
「ええ」
「それは……えーっと、桜さんは凄く元気だし、真莉亜さんはぶっ飛んだ所あるけどいい人だし、百合江さんは尊敬できる人だし、くるみちゃんは可愛いし……。あ、聖薇もノエルも、凄く素直になってくれて。夢子さんには感謝してますよ」
拓夢が答えると、夢子はゆっくりと立ち上がった。
「……そう」
儚げだが確かな微笑みを浮かべると、夢子は椅子に座り直した。
そして、ニッコリと極上の笑みを拓夢に向ける。
「ゴメンね~☆ 慣れない運動なんかするものだから、ちょっと風邪引いちゃったみたい。普段はデスクワークが多いものだから、体を動かすとすぐガタがきちゃうのね。残念ながら、もう若くはないみたい。ヨヨヨ……」
「本当に、ただの風邪なんですか?」
拓夢は真剣な表情で問いかける。
「心配してくれてありがとう。拓夢君は、本当に優しいのね」
夢子はニコニコ笑う。
「ホント、子供っていうのは、親の知らない所で立派に育つものね。しかも、自分の想像以上に。凄く良い友達まで作って。きっと、『あの人』も喜んでくれる……」
「……?」
何を言っているのか分からずポカンとする拓夢に対し、夢子はくすりと笑った。
「ねぇ、拓夢君。今日は少し、進路の話をしない?」
「進路?」
「ええ。まだ早いけど、大事な将来のことだもの」
と、夢子は身を乗り出して提案した。
拓夢は面食らう。
進路のこと……。いつかは決めなければいけないことだが、毎日の忙しさに、つい忘れていたことだ。
今やりたいことは、特にはない。
サッカー選手になりたいだとか、ミュージシャンになりたいだとか。
両親に虐待されながら育ってきた拓夢には、そういった夢が持てなくなっているのだ。
(どう答えたらいいんだ?)
拓夢が考えていると、
「もし特に決めていないのなら、卒業後はこの学園で働かない?」
「この学園で?」
拓夢が尋ね返すと、夢子は「ええ」と答え説明した。
「今私は、秘書を募集しているの。秘書というのは、スケジュールの調整やお客様の応対、役員のアテンドを始め、経費精算、文書・礼状作成や原稿チェックなどの事務スキルも必要とされるわ。でも、何よりも大切なのは『人柄』よ。明るく前向きで、どんな時でも一生懸命まわりを支えてくれる。そんな拓夢君に、私をサポートしてほしいの』
「……」
拓夢は答えられなかった。
夢子が語っていることは、あくまで「仮に」の話だ。だけど。
「だけど……僕なんかに……」
拓夢がそこまで言いかけると、夢子は首を振って「違うわ」と否定した。
「部下が『この人だったら仕えたい』って上司がいるように、上司もまた『この人にだったら全てを任せられる』って人がいるの。これは、能力云々の話だけではないわ。お客様への対応や、生徒達とのふれあい、それら全てが情熱的に出来て、明るく信頼できる人間。それが、拓夢君なのよ」
「でも……ノエルさんは……」
「あの子は特別講師として配属したいと思ってるの。今すぐの話ではないから、別に焦らせるつもりはないけど……でも、考えておいて?」
夢子の言葉を、拓夢は咀嚼していた。
(それって……僕を手元に置いておきたいってことなのかな……。テンプテーション・スメルを利用しようとして……)
そう考えると、急に寒気がしてきた。
「夢子……さんは。僕のこと、どう思ってるんですか?」
無意識の内にそう尋ねていた。
しかし夢子の返答は、予期せぬものだった。
「拓夢君。私とこの学園で、出会った時のことを覚えてる?」
「出会った時の……こと?」
いわれて思い出す。
ノエルに拉致され理事長室……つまりこの場所に呼び出され、小一時間ほど話をした。
「あの時は……本当に驚きました」
両親に捨てられたこともそうだが、そんな自分を、お嬢様学園の理事長が特待生に任命したいという。驚くなという方が無理だ。
「あの時語ったことが、私の本音よ」
「……あの時、語ったこと」
確か、あの時夢子は……
「拓夢君は、この学園になくてはならない存在よ。困っている人を放っておけない。いつも誰かを助けている。もちろん、私のこともね。だから、庶民特待生に任命したことは間違ってなかったと確信しているわ」
夢子の言葉は、どこか芝居がかっていた。
けれど、
(僕はそれでも……夢子さんのことを信じたい)
それが、拓夢の出した結論だった。夢子のしていることに疑問はある。自分を騙しているのではないか? 利用しようとしているのではないか? だが、それらは全て憶測である。何の根拠もない。
そう……ない、はずなのだ。
「ところで拓夢君。どうしていきなり、そんなことを聞くの?」
「……え?」
夢子に聞かれて、拓夢は面食らってしまう。
「い、いや、ぼ、僕は……えっと、あ、あ、あの、えっと、」
頭が真っ白になった拓夢は、返答に困ってしまう。
すると、
「ぷっ……あはは。あはははは」
「夢子さん?」
夢子は笑っていた。お腹を抱えて。大きく開けた口元に手を当てながら、おかしそうに笑っていたのだった。
「うう……っ、そ、そんなに笑わないでくださいよっ」
「あ~あ。ごめんなさいね」
笑い疲れた夢子は、目元の涙を指でぬぐいながら、
「ねえ、拓夢君。さっきの話の続きだけど」
「……さっきって?」
「私が拓夢君のこと、どう思ってるかって話」
「……え」
「確かに私はあなたを無理やり拉致したわ。強引な手も使ったし、女性アレルギーを持つ拓夢君に、いっぱい苦労をかけている。不審を持たれて当然ね。でもね。信じてもらえるか分からないけれど、私は拓夢君のことが好きなの。頼りにしている反面、どこか放っておけない部分もある……。教師と生徒という垣根を越えてね。だから私は拓夢君のことを〝息子〟のように思っているわ」
「僕が……息子?」
「そう。だから、学園を卒業した後でも付き合いを続けていきたいと思っている。こういうのは理屈じゃないの。分かってくれる?」
「……えっと。はい。なんとなく……」
拓夢はドキドキしながら答えた。
自身もまた、夢子のことを母親のように感じていたからだ。
その夢子も、自分を息子のように思ってくれているという。
ならば、どうして自分を城岡家に預けた……?
なぜ、今になって自分をこの学園に引き取った……?
どうして、テンプテーション・スメルのことを黙っていた……?
拓夢が混乱していた時だった。
「……拓夢君。私、悪いけどこれから会議があるの」
おろおろする拓夢を見上げていた夢子が、不意に椅子から立ち上がって言った。
「ゆ、夢子さん……」
拓夢は立ち尽くしていた。
夢子の考えていることが知りたい。何を考え、何を企み、何を思っているのか。全部、全部知りたかった。
しかし夢子は、そんな拓夢の心境を知ってか知らずか、
「あ、それと。拓夢君専用の寮の件だけど。完成したわ」
「……え。寮?」
寮というのは、近々学園施設内に建設される予定だった、男子寮のことである。といってもここは女子校なので、必然的に拓夢専用の住まいとなる。
転入した当初、つまり二カ月前にそう説明を受けたはずだが、拓夢はすっかり忘れていた。というのも、現在用意してもらっている学園内の客室も、それなりに住み良いものだったからだ。済めば都、とはいうが、初めて貰えた自分専用の部屋だったので、少し寂しくもある。
「そうですか……。ついに、完成したんですね……」
「ええ。後は細かい検査を終えるだけね。それも数日中には終わるから、拓夢君は荷物をまとめて整理しておいてね」
夢子はそう言うと拓夢から視線をそらした。
もう会話は終了ということなのだろう。
聞きたいことはまだ山ほどあったが、拓夢は夢子の顔をぼーっと見つめて、
「……分かりました。おか、……いえ、夢子さん」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。




