②うわさのキッスを下さいな
「それよりも。夢子さんの身辺を調査する件。どうなった?」
何とか話題を変えたくて拓夢は尋ねた。
事情を察したノエルも、質問に答える。
「残念ながら、まだ何も調べられておりません。ICカードによるチェックと指紋認証。常に何人かの見張りがいて、機密書類は厳重に保管。これでは、流石にどうすることも出来ません」
罪悪感があったのだろう。
何の成果も出せていないことを恥じるように、申し訳なさそうにノエルは言った。
「そっか……。それじゃ、仕方ないね……」
「拓夢様は、テンプテーション・スメルのことが気になっておいでですね?」
「そんなことは……。いや、そうだ」
拓夢は一瞬うろたえたが素直に首を振った。
テンプテーション・スメル。
若き女性を虜にしてしまうという、無香性の体臭のことだ。ようは女にモテまくるフェロモンのことだが、女性アレルギーを持つ拓夢にとっては、裸身に生肉を巻き付けてサバンナに立ち尽くすことに等しい。
今はまだ未発達の段階で、完全に能力が開花するのは、17歳の誕生日を迎えてからだという。そして、自分のこの力を、夢子は狙っている。
夢子が何を企んでいるのか、拓夢はどうしても知りたかった。
だから、夢子の調査をコッソリとノエルに依頼したのだ。
夢子は何かを隠している。それは間違いない。もしかしたら、自分を懐柔して、能力を悪用しようと企んでいるのかもしれない。
もしそうだとしたら、自分は……。
「拓夢様。一つ申し上げても、よろしいでしょうか?」
その言葉に顔を向けると、ノエルが神妙な面持ちでそばにいた。
「な、なに? 改まって」
「神薙夢子様の話です」
ノエルは、拓夢を真っすぐに見つめながら話した。
「夢子様は、毎日必ず拓夢様の話をなさいます。親しい友人が出来たかどうか、食事はちゃんと取っているか。勉強は遅れていないか。最初は、庶民特待生としての行いや振る舞いを確認しているのだと思いました。しかし、違いました。私がどのように拓夢様をボロクソに報告しようが、夢子様は『もーっ、あの子ったら』と頬を緩めて嬉しそうに笑うのです。それはもう、本当に嬉しそうに」
「…………」
「思うのですが、夢子様は拓夢様のことを、単なる道具としては見ていません。それだけは、絶対に言えると信じます」
「ああ、そうだね……」
ノエルの言わんとするところが、拓夢にも分かった。
元気を出して下さい、と。
夢子は義両親に虐待され、捨てられた自分を拾ってくれた。さらには、自分を追いかけてこの学園に乗り込んで来た義妹、聖薇に対しても、色々と世話を焼いてくれた。確かに隠し事はしているのかもしれないが、全てが嘘なわけではない。
ならば、今はそれだけでいいではないか――
そこまで考えたところで、拓夢はあることに気づく。
「って、さっき何て言った!? 僕のことを、ボロクソに報告してただって!?」
「だって、品行方正で勤勉実直な素晴らしいお方です、なんて言ったらウソくさいじゃないですか~」
「だ、だからって……」
「それに、拓夢様が私との思い出を忘れているのが悪いんですもん!」
ノエルはほっぺたを膨らませ、ぷいっと横を向く。銀髪のポニーテールが波打ち、危うく拓夢の顔を叩くところだったが。
「あの、拓夢様」
「ん?」
横を向いたまま、頬を赤らめながらノエルは、
「私は、大して拓夢様のお役に立ててていないかもしれません。今まで何度も酷い言葉も浴びせてきました。でも……私は拓夢様のことが大好きです。心から愛しています。ですから……これからは私を、もっと頼りにしてもらえると、その、嬉しいです……」
そう言って、こちらを振り向くノエルの顔は、笑っていた。
白くて、綺麗で、暖かくなるような優しい笑顔に。
拓夢の鼓動は、まるで早鐘を打つように高鳴っていた。
(なんだ、これ。僕はどうして、こんな気持ちになっているんだ?)
そんな拓夢の心境などまるで気づかない様子で、ノエルは続けた。
「――さあ。そろそろ朝の支度を終えませんと。それよりもまず、いつもの『目覚めのキス』をしましょうか」
「は……?」
思いもかけないノエルの言葉に、拓夢は呆気に取られるばかりだった。
(キス……? キスって何の話だ……? ノエルとキスをしたのは、先日の聖薇の件で初めてのはずだけど、それより前に何かあったのか?)
考えあぐねた拓夢は、ノエルに話しかけた。
「ノエル……キスって、どういうこと?」
おそるおそる尋ねた。
尋ねたことを、数秒後には後悔したのだが。
「どういうことも何も、朝拓夢様が起きる前に、キスをしていたんですよ。ふふっ、寝てる時の拓夢様ったら、物凄く可愛らしいんですもの。それに、寝てる時だと女性アレルギーも反応しないみたいですからね。それをいいことに、拓夢様の唇を奪っていました」
その告白は、拓夢を絶句させるに十分だった。
数秒経った後、何とか拓夢が言葉を口にする。
「寝てる間に……キスを……」
「今まで累計で、5百回くらいはしてますかねえ」
「しすぎだよっ!!!!!!!!」
天井を見上げながら指折り数を数えるノエルに向かって、ツッコミを入れる拓夢。しかし、寝ている間に自分で欲求を満たしていたとは。何とも油断のならないメイドだ。
「ううう……想像したら、鳥肌が立ってきちゃったよ……」
拓夢は震える肩を抱きかかえながら呟いた。
ノエルは、そんな拓夢などお構いなしといった様子で、
「ということで拓夢様! 今日もキスさせてくだーーーーーい!」
「うわっ!」
俯きながらブツブツ呟いていた拓夢の上から、ガバッとノエルが抱きつく。勢いあまって、拓夢はベッドから転げ落ちてしまった。
「ぐへっ!」
「ほら、拓夢様! んーっ、んー」
形のいい唇をすぼめ突き出しながら、ノエルはキスをせがんできた。
もちろん、拓夢は女性アレルギーのため必死で抵抗する。憂鬱な悪夢を見た朝とは思えないほどの、騒がしくアホらしい一日の始まりであった。




