㊿テンプテーション・スメル
――テンプテーション・スメル。
直訳すると〝誘惑する匂い〟と何ともバカバカしいネーミングなのだが、拓夢はその力の恐ろしさを身を持って知っていた。確かにこの学園に来てから、やたら女の子にモテるようになった。さながら、甘い蜜に誘惑され、群がる蝶のような――
「拓夢様、大丈夫ですか?」
目を見開いたまま、ピクリともしない拓夢を案じて、ノエルが話しかけた。
「大丈夫……ではないね。夢なら覚めてほしいくらいだ」
拓夢は内心の動揺を少しでも隠そうと、苦笑いしながら言った。
「この力を使えば、年頃の女の子をみんな裸にひん剥き放題だぜヒャッハー! とか考えてないでしょうね?」
ノエルがジト目で睨んでくる。
「――っ! そんなこと考えてない! それにアレルギーがあるんだから、ハーレムなんかになったら、死んじゃうよ!」
拓夢は顔を赤くしながら叫ぶ。
若い女の子に触られただけで蕁麻疹が出てしまう拓夢にとっては、体に生肉を巻きつけながら猛獣の群れに放り出されるような、恐ろしい状態なのだ。
「教えてくれ。その……テンプテーション・スメルっていうの。止める方法はないの?」
拓夢は藁をもつかむ思いで尋ねるが、
「……」
ノエルは答える代わりに、無言で首を横に振った。
「そっか……………………」
拓夢は頷き、ため息をつきながら椅子の上に座った。
「じゃあ僕は、いずれ全校生徒に襲われるハメになるのかな」
ポツリと拓夢が呟くと、
「それは分かりません。何しろ個人差がありますから」
ノエルが真顔で答えた。
「個人差?」――と、拓夢がノエルを見つめると彼女は、
「テンプテーション・スメルには、効果が出やすい人とそうでない人がいるようです。当然、より至近距離で長時間過ごすほど、影響は出やすくなります。しかし効果が出た後でも、一ヵ月くらい距離を置けば、効き目は徐々に薄れていくという研究データが出ているようです。逆に言うと、それくらいしか対策方法はないということですね」
と、説明する。
「そっか……」
拓夢は、暗く沈んだ瞳でノエルを見た。その表情は悲しみに囚われ、先ほどまでの希望に満ちた顔ではなくなっていた。
「ようやく分かったよ。なんで僕みたいな何の特徴もない男が、女子生徒からチヤホヤされ出したのか。全部、テンプテーション・スメルのせいだったんだね」
拓夢はノエルに話しかけるというより、一人でポツリと呟いた。
学園の女子やメイド達はもちろん、自分に懐く数々の動物たちも全てメスだ。ノエルの言うことは正しいのだろう。
「みんな僕の匂いに惹かれているだけで、僕のことは別に好きじゃないってことだね……」
夢子もおそらく、自分のこの能力に目をつけたのだろう。四天使たちも勿論のこと。つまり自分は、本質的には誰からも愛されていなかったんだろうかと。拓夢はショックを受けていたのだった。
「そんなことはありません!」
しかし、高速に首を振りながらノエルが否定した。
「テンプテーション・スメルは、あくまできっかけに過ぎません。四天使も、学園の女の子達も。拓夢様の優しさや明るさ。そしてどんな時も前向きだからこそ、みんな拓夢様が大好きなんです」
頬を赤く染めながら力説する。
「私だってそうです。テンプテーション・スメルが開花する前から、拓夢様にお会いしてます。それでも、私の気持ちは以前と何ら変わりありません!」
「そ……そうなの?」
「そうです!!!!!!!!!」
ノエルは力の限り叫ぶなり、ハアハアと肩を震わせ呼吸を整えた。
拓夢は、そんなノエルを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「あの、一つ聞いていい?」
――と、ノエルに問う。返事はなかったが。けれども、拓夢は構わずに続けた。
「もし、僕にテンプテーション・スメルの力がなかったら。僕が庶民特待生じゃなかったとして。それでも君は、僕のことを好きになってくれた?」
つまり、何の才能も後ろ盾もない自分と、あの日あの時あの公園で出会っていたとして。何の価値もない自分を、ノエルは同じように自分のことを想い続けていてくれたのだろうか?
「……バカ」
それだけ呟くと。
ノエルは座っていた椅子から拓夢に飛びついた。
「うわ!?」
高低差もあって、拓夢はノエルに押し倒される形となる。
「そんなことを言う唇は……こうしてやります」
そして下敷きになった拓夢の唇に、自らの唇を重ね合わせた。
性的なキスだった。映画のワンシーンのような美しいキスではなく、貪るように荒々しく、そして熱いキスだった。
「愚問……だったね」
唾液まみれになった唇を離すノエルに対し、拓夢はつぶやいた。
「…………」
ノエルは何も言わずに体を離し、椅子に座り直した。女性アレルギーを発症している拓夢への気遣いだろう。
「まったくですね。鈍感で、デリカシーがなくて、奥手で……。いつもあなたにはイライラさせられます」
口元をぬぐいながら、ようやくノエルが口を開いた。
「……でも。いえだからこそ、私は拓夢様のことが好きなんです。放っておけないんです。拓夢様のこと」
そして、笑った。今にも泣き出しそうな、繊細な笑顔だった。
「私は、あくまで中立の立場です。理事長にお仕えする、この学園のメイドです。ですから、わが校が誇る庶民特待生である拓夢様を、自分のものにしようだなんて思っていません」
悲しげに目を伏せながら、ノエルは言った。
「……でも、いつかこの学園を卒業したら」
「え……?」
「あなたがこの学園を卒業し、庶民特待生じゃなくなったら……。私もまた、この学園を辞めます。その時は、私を彼女にしてくれますか?」
瞳に涙を溜めながら、ニッコリと拓夢は微笑む。
――綺麗だ。思わず拓夢は心の中で呟いた。
今まで冷淡だった表情は、春の木漏れ日に溶けた氷のように穏やかで、見る者を和ませる。
「あ……あの」
拓夢が返答しようとした、その時だった。
「あ―――――待ってください!」
ノエルが先に口を開いた。
「私は別に、今すぐ返事を聞きたいわけではありません! あくまで、『この学園を卒業したら』です! 自業自得とはいえ、私の今の好感度は決して高くないことは知っています! だから、時間がほしいんです! 失った十三年間を埋めるだけの余裕が! でも覚悟しておいてください! 私が素直になったからには、必ずあなたの心を奪ってみせますから!!」
言いたいことを全部言い切ったノエルは、またハアハアと肩で息をつく。
その様子を見て拓夢は、
「ノエルは……強いんだね」
と、心から思ったことを呟いた。
そして、自分が恥ずかしくなった。テンプテーション・スメルがなんだ。そんなものなくたって、彼女らは自分を愛してくれた。
ちょっとでも周りの大事な人たちを疑ってしまった自分を、拓夢はどうしようもなく恥じた。
(夢子さんも一緒だ……。きっと、何か理由があって僕を城岡家に預けたんだ)
それが、拓夢の出した結論だった。
庶民特待生になると拓夢が答えた時の、あの嬉しそうな笑顔。
初めての報告会の時に感じた、あの暖かさ。
自分のみならず、聖薇の身まで案じてくれる、あの優しさ。
もちろん、全てを受け入れたわけではない。ちゃんとした説明を聞いてみないことには、納得できないこともある。
だけど、
「今は……信じてみることにするよ。夢子さんを。そして、君達のことを」
拓夢はハッキリと、そう口にした。




