⑧理事長にバレるわけにはいかない
「ここだよ~、拓夢くん」
吹き抜けの長いブリッジを抜けて、数々の教室を通って理事長室へ。
「全ての生徒達を見守れるように」という理由で理事長室は最上階にしたそうだが、おかげで道に迷ってしまい、散々な目にあってしまった。
学園内の設備が充実しすぎていることもあるが、それも仕方のないことだろう。
校舎内にはテラス席が設けられたラウンジや、間接照明でライトアップされたエントランスホール、空気を回遊させるガラスのブリッジなど、室に快適な設備がある。
ただ問題があるとすれば、それらは庶民である拓夢にとって、全く縁のないものだったというだけである。
「あー……どうも、本当にありがとうございます、加々美さん」
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかドアの前に立っていた。初日の報告を兼ねてやってきたのだが、今日の醜態を考えると、今さらながら気が重くなってきた。
すると、桜は頬をぷくーっと膨らませて、
「その、『加々美さん』っていうの、やめてくれないかなぁ? 桜って呼んじゃっていいよっ、桜でぇぇ~」
「そ、そんな! 恩人に向かって、呼び捨てなんて出来ませんよ!」
「じゃあ~、その恩人からの命令! これからはわたしのことを、桜って呼ぶこと!」
桜は大きなくりくりとした目で、拓夢の顔をニコニコと覗きこみながら言った。その可愛らしさに、拓夢は少し動揺しながらも、
「わ、分かりました。じゃあ……さくら、さん」
「あー、うん、さん付けかぁ」
桜はいかにもガックリというように、口をすぼめながら言った。
「す、すみません。人見知りなんです。これで勘弁してくださいっ」
拓夢は平身低頭、謝りながら言った。先ほどのやり取りで、この桜が学園でもトップクラスのお嬢様ということは分かったのだ。今は優しくしてくれるが、機嫌をそこねたら何をされるか分かったものではない。
「しょうがないよね。拓夢くんがそう言うなら」
しかし予想に反して、しぶしぶながら桜は折れてくれた。
「ありがとうございます……あ、そろそろ僕、理事長に挨拶しないと」
「あー、ごめんねぇ」
桜は残念そうな顔をしたが、拓夢は会話を打ち切った。今日だけで山ほど失態を犯しているのだ。この上さらに遅刻するわけにはいかない。
「じゃあ、わたし、これで行くけど……」
桜は名残惜しそうに踵を返した。
拓夢も「すみません」と頭を下げ、桜を見送ろうとした、その時だった。
突然、桜はくるりと背を向け、
「じゃあ、またあとでねえええええぇぇぇッ!!」
と、元気いっぱいに手を振りながら叫んだ。
そして、今度こそ本当に廊下を走り去っていくのだった。
桜の姿が見えなくなり、拓夢は呟くのであった。
「また後で……? 後って、なんだろ……?」
と、そこへ扉が開く音。
「あら、城岡君……?」
ドアの隙間からただよう良い匂いと、隙間からのぞく紅葉色のソバージュヘア。ビジネススーツを鮮やかに着こなす夢子が姿を見せる。
「騒がしいと思ったら、どうしたの? 入っていいのよ?」
「す、すみません……」
拓夢は謝った。先ほどの桜との会話はどこまで聞こえていたのだろうか。覗き騒動のことまでは話していなかったが、急に出てこられては心臓に悪い。
「でもちょうどよかったわ。もしかして道が分からないんじゃないかと思って、私の方から迎えに行こうかと考えてたところなの。でも、もう問題ないみたいね?」
「い、いえ。結構迷いました。ここまで加々美……桜さんに案内してもらったんです」
「まあっ、加々美さんに? クラスも違うのに、もうお友だちが出来たの? 城岡君すごいじゃない!」
「いえっ、実は着替えを……」
と、そこまで言いかけたところで、拓夢は口をつぐんだ。
ここで口を割ってしまっては、何のために桜が協力してくれたのか分からない。
女子の着替えを覗いたなんて言えば、たとえ事故といえど退学は免れないだろう。
そんなことにはなりたくなかった。もう帰る家もないことだし、こうして優しい人たちにも出会えた。彼女らを、落胆させるような真似だけはしたくない。
「着替え……?」
きょとんと聞き返す夢子に対し、拓夢は、
「き、気概ですよ、気概。気概があれば、何でも出来ますよねっあはは!」
何という下手な誤魔化し方。自分が嫌になる拓夢であった。
こんな言い訳では、海千山千の夢子を騙すことは不可能だろう。
ここはひとつ、覚悟を決めなければ……。
「そうね、人間関係の大半は、気持ちの問題ですからね。城岡君、いいこと言うわね!」
「そ、そうですよね。あはは……」
「うんうん。正直、城岡君にお友だちが出来るかどうか心配してたんだけど、この分なら問題なさそうね!」
にこやかに微笑む夢子に、拓夢は心の中で頭を下げた。すみません理事長。僕はあなたの所の生徒の着替えを覗いてしまったんです、と。