㊺ノエルの秘め事を見てしまう拓夢
コツ、コツという乾いた音が鳴り響くリノリウムの床を、拓夢は歩いていた。夢子に言われた通り、ノエルにちゃんと礼を述べるためだ。しばらく廊下を歩いていると、目当てのメイド室が見えてきたので、拓夢は足を止めた。
なぜならば、違和感を感じたからだ。
「何の音だ……?」
真っ先に気づいたのは音だ。いや、音というより声と言った方が近いかもしれない。聞き覚えのない女性の声が、わずかに開いていたドアから漏れているのである。
拓夢はさらに扉へと近づいて、聞き耳を立てた。
「あぁぁああ~ん、もう! 拓夢様愛してます!」
「な、なんだ……?」
自分の名前を叫ばれ、拓夢の疑念はついに最高潮を迎えた。
恐る恐る、ドアの隙間から中を覗いてみる。
すると……。
「なのに……拓夢様ったら! 鈍感! ニブチン! 優柔不断! もう、そんな所も愛しくて愛しくて……!」
中にいたのは、案の定ノエルだった。
あのノエルが、自分の名前を愛しげに叫んでいる。
「なのに……あの泥棒猫! 今さら拓夢様のそばにいようだなんて……拓夢様は、私だけのご主人様なのに!!!!」
ノエルは鋭く目を光らせた。
今ノエルがいる部屋は通称「メイド部屋」と呼ばれるものだ。元は応接室だった客間を、メイドの当直や休息に使えるようにしたのだ。現在このメイド部屋を管理しているのはノエルなので、実質ノエル専用ルームといっても過言ではない。
なので、多少の露悪趣味はあっていいのだが。
正直、この部屋は常軌を逸していた。
なぜならば、壁一面に拓夢の写真が貼られていたからだ。壁どころか、窓や床、天井にまでビッシリと敷き詰められている。拓夢が廊下を歩いている時の様子や、食堂で昼食を食べている時の様子、朝ベッドで眠っている時の写真まである。明らかに盗撮したものだ。よく見ると、以前見つけて怒られたカーテンレール横の紐が、床まで垂れている。おそらくあの紐を引っ張ると、フェイクの壁紙やクロスシールが剥がれ、本当の内装が現れる仕掛けだったのだろう。
……正直、これなら見ない方がマシだったが。
暴走するノエルにドン引きしながらも、もう少し部屋の様子を観察しようとした時だった。
一歩踏み出した足で、ドアを蹴ってしまった。
「――誰!!」
ノエルは猛スピードで後ろを振り向き叫んだ。
必然、ドアの隙間から覗く拓夢と目が合うことになる。
「あ……あ……」
「あ、あの……こんばんは……。あはは、ノエルさんって写真を撮るのが趣味だったんですね」
我ながら、気の利かない挨拶だと思った。
拓夢としてはただ、ドン引きした様子を見せるよりも、笑顔で「何も見てませんよ」風に接した方が効果的だと思ったのだが。
どうやらこの場合は、逆効果だったらしい。
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「ご、ごめんなさあああああああああああああい!!」
絹を切り裂くようなノエルの悲鳴に押し出されるようにして、拓夢は廊下に転がり出た。そのまま自室のある三階まで走る。
もちろん、今のノエルがそんなことを許すはずもなく。
「待ちなさああああああああああああああああああい!!」
「ひいっ!」
案の定、鬼のような顔をしたノエルに追いかけられてしまった。
後ろにノエルが迫っていることに気づいて、拓夢は全力で腕を振った。
廊下には教師も生徒もいない。
ただ窓からぼんやりと月明りが差し込むのみだ。
そんな薄暗い廊下を、ただひたすらに走る、走る。
「あなたは! あなたって人は!! どこまで私の心をかき乱せば気が済むんですか!!」
いつもの冷静さはどこへやら、感情をむき出しにしてノエルは怒鳴る。
捕まっては最後と疾走する拓夢の背後で、ヒュン、ヒュン、と風を切る音が聞こえてきた。
まるで、ムチか何かを振っているように。
「うわっ!?」
拓夢が後ろを振り返ると、何とノエルは木刀を持っていた。
「こ、殺す気ですか……?」
しかもこれがまた、見事な出来栄えの木刀だったのだ。いかにも樹齢何百年もする大木から作られた名刀であるような。
「ノエルさん、話し合いましょう! ていうか、少し離れましょう!」
呼びかけても応じないどころか、ノエルはますます追いかけるスピードを速めた。
「いいですよ! とことん話し合いましょう! だからまず、貴方が止まりなさい!!」
絶対話し合う気などなさそうなので、拓夢はさらにダッシュした。その甲斐あってか、ブリッジを抜けて階段の踊り場までたどり着いた。二階もやけに静かなところを見ると、教職員は一人もいないのかもしれない。
「待ちなさあああああああああああああああああああああい!!」
階下から叫び声が聞こえるが、怖いので返事はしない。
仕方なく、拓夢はそのまま三階を目指すことにした。
うら若き乙女に追いかけられて逃げ回るのは情けないの一言に尽きるが、あの立派な木刀で殴られてはケガどころでは済まないだろう。
照明は全て落としているので、薄暗いままの階段を駆け上がる。
豪邸らしく急勾配かつ段数の多い階段を何とか登っていく拓夢だが……木刀を振り回しながら、何とノエルは二段飛ばしで追いかけてきていた。
「こらああああああああああああああっ! いい加減にしなさああああああああああああい!」
ノエルは急斜面の階段を物ともせず、必死の形相で拓夢を捕まえようとしていた。
「……どうして、僕を追いかけようとするんですか!?」
「はあ!?」
拓夢に問いかけられ、彼女はキレ気味に返した。
「僕に恥ずかしいところを見られたからですか!?」
「な、ななっ、ななななななななななななななななななななななな!!」
器用に「な」を連発するノエル。
おそらく「なんですって!」と言いたかったのだろうが。
言語が不自由になるほど、今の彼女の頭には血が上っているのかもしれない。
「やっぱりそうですか! でも、僕は何とも思ってませんよ! 絶対に内緒にしますから、落ち着いてください!」
拓夢としては悪気はなく、むしろ助け船を出したつもりだった。しかし結果的には火に油を注ぐ結果となってしまった。ノエルは恥ずかしさからか、頬を見る見るうちに真っ赤に染めた。
「……ぬ」
「え!? なんですか!?」
拓夢が再度尋ねると、ノエルは怒りの形相で拓夢を睨みつけると、
「もはやこれまで! 貴方を殺して、私も死ぬ!!」
「だーかーらー! 何でそうなるんですか――――!!」
物騒なことを吠えるノエルに、思わずツッコミを入れた時だった。
拓夢は空中を歩いていた。
もちろん、空など飛べるはずもない。踏むべき地に足がつかなかったので、一時的に宙に浮いた状態になっただけだ。
つまり、拓夢は足を踏み外したのだ。
全速力で走っていた拓夢が、勾配のキツい階段の一番上から滑り落ちれば、無事で済むはずはない。拓夢は勢いよく、階段の下まで転げ落ちてしまった。
「うわああああああああああああああああああああっ!」
「拓夢様!?」
ノエルが必死に叫ぶ声を聞きながら、拓夢は階段の角に頭をぶつけて気を失ったのだった……。




