㊶このクズめ
聖薇が目を覚ました時、目に映ったのは高い天井だった。
白い壁の周りで消毒液の匂いがすることから、ここはどうやら病院らしい。
(そうか。あたしドジっちゃって。あの女に捕まっちゃったんだ……)
早く起き上がろう。起き上がって、お兄ちゃんを助けに行こう。
そう思って、寝返りを打った時だった。
自分の顔を覗き込む人物がいた。
「あら、目が覚めたのね、聖薇ちゃん!」
そこにいたのは、優雅な深紅の髪を垂らした、大人の女性だった。
「えっ?」
「二人ともーっ、聖薇ちゃん、気がついたわよー?」
と、女性の呼びかけに反応して、拓夢とノエルが室内に入ってきた。
「お兄ちゃん……」
「聖薇さん……」
「感動の再会のところゴメンね。まずは私の自己紹介をさせてもらえるかしら?」
夢子はそう言うと、聖薇の隣のサイドチェアに腰を下ろした。
「聖ジュリアンヌ女学院理事長の、神薙夢子よ。拓夢君を庶民特待生として、城岡家から引き取ったのも、私」
「……!」
夢子がそう発言すると、聖薇は目を見開きながら、彼女のことを睨みつけた。
「大体の話はノエルから聞かせてもらったわ。聖薇ちゃん、どうしても拓夢君を連れ戻したいみたいね?」
対して夢子は、穏やかな表情のまま、冷静に話しかけた。非常事態だというのに全く動じていないのは、大人としての余裕を感じさせる。
「だってお兄ちゃんは……あたしのお兄ちゃんだから。だから、勝手に取られても困るし」
その言葉に、拓夢とノエルは顔を見合わせた。
聖薇は今日、中学校を休んでいる。学校をサボッてノエルの後を尾行してまで、拓夢を連れ戻そうとしたのだ。
「その気持ちは分かるけどね。でも、拓夢君は今後一切城岡家とは関わらせない。そういう条件で、拓夢君を引き取ることにしたのよ?」
穏当に、夢子は事実を端的に告げた。
「お兄ちゃんを返して」
対して聖薇は、射すくめるような鋭い視線を送りながら答えた。
しかし、聡明な美女は、その怒気を軽く受け流す。
「だから、それは無理だって言ってるじゃない。虐待するような親には、特にね。ご両親はお金で納得してくれたし、聖薇ちゃんも諦めてくれない?」
「……もう、お兄ちゃんとは会えないって言うの?」
「拓夢君と元親との交流を断つ権利は、私にはないわ。でも、ここは名家のお嬢様が通う学園で、部外者の立ち入りは固く禁止しているの。そして、その敷地権を持っているのは私。言いたいことは分かるわね?」
「……わかんないわよ」
聖薇は、憎悪の炎を燃えたぎらせた視線を送った。
「もう、お兄ちゃんの顔を見れないっていうの? 一緒にご飯食べたり、たわいのない話したりすることも出来ないってこと? 家族なのに? そんなのおかしいじゃん!!」
「だから、それが拓夢君の為になるって思ったのよ。あなた達の所にこれ以上住まわせたら、拓夢君は衰弱死してしまうわ」
涼しい顔で言い放つ夢子に、聖薇も堪忍袋の緒が切れたようだ。
「も、問題にしてやる! あんた達のやったこと、SNSで呟いて拡散してやるんだから!」
その言葉に、拓夢は目を見開いた。
確かに、今日びのSNSの影響力は尋常ではない。名門学園の理事長が男の子を引き取り、女の子しかいない学園の特待生に任命する……これは大きなスキャンダルになりかねない。
しかし夢子は眉一つ動かさず、聖薇の言葉に正論で返した。
「どうぞ。好きにしていいわよ?」
「は?」
「だって」
夢子は流麗な所作で髪をかきわけながら言い放った。
「私にはメディアサービス会社や、政府にも関係者がいるわ。検索エンジンサイトやSNSはもちろん、ウェブ検索全てを操作することが可能なのよ。あなたが使ってるソーシャルメディアのアカウントを、全て永久凍結することも出来るわ」
「な、な……」
聖薇の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
「ふ、ふざけんじゃないわよ、この誘拐犯!」
夢子の言葉は、どうやら聖薇の逆鱗に触れたらしい。
「やっぱり、アンタのこと信用できない! 何だかんだ言って、結局金の力で思い通りにすることしか考えてないんじゃない! 庶民特待生っていうのだって、断り切れないお兄ちゃんの性格を利用して、無理やりやらせたんでしょ! いいからお兄ちゃんを返せっ!!」
もはや理論も理屈もあったものではない、癇癪に近い遠吠えだったが、聖薇は叫び続けた。
「あんたには分かんないんでしょうね! お兄ちゃんは、本当の両親がなくなってから、ずっと独りぼっちでウチに来たの! 明るくて、優しくて、ちょっぴり不器用で……でも凄く頑張り屋さんで、お兄ちゃんがいなくなってから、あたしん家はすっかり暗くなっちゃったのよ! ぜんぶ、ぜんぶあんたのせいだ!」
瞳に涙を溜めながら、一気に聖薇はまくし立てた。
拓夢は、一歩も動けずにその光景を見ていた。
聖薇の隠していた気持ちが、ようやく分かった気がする。
聖薇は自分のことを、ずっと思っていてくれたのだ。
それなのに自分は……。
そう、自分のことしか考えていなかった。
家族の食事の用意や掃除の世話をするのが嫌だ。
妹から「キモい」と悪口を言われるのが嫌だ。
お金のこと、朝のゴミ出しのこと、数え上げたらきりがない。
名門校に特待生として入学できることに目がくらんでる間に、あの子は自分のことを懸命に探し続けていたのだ。
忘れていた。大人びているし生意気ではあるが、聖薇は普通の中学生なのだ。そんな普通の女の子が家族の失踪を経験したら、どんな気持ちになるのか。もっと、自分がよく考えてあげていればよかった。
拓夢が絶句している間にも、聖薇は声を荒げていた。
「あんたが、あんた達が全部悪いんだ! いいから、お兄ちゃんを早く返せ!」
その叫び声は、拓夢の胸に突き刺さった。
聖薇の元に……駆け寄らなければと。
しかし拓夢が一歩踏み出そうとする前に、ノエルが割り込んできた。
彼女は拓夢の視線を背中で遮ると、聖薇の元に歩み寄った。
そして、言った。
「この……クズめ」




