㊵一瞬の逃亡劇
拓夢は校門の扉に鍵を押し込むと、なるべく音がしないようにゆっくりと回した。かすかな機械音が聞こえてくると共に引き戸を開ける。門前には一人の女性が立っていた。
「さあっ、行くよお兄ちゃん……!」
「聖薇さんっ」
拓夢の前に飛び出してきたのは聖薇だった。門柱の陰に身を隠し、人が通らないか油断なく見張っていた彼女は、すぐさま道路に向かって走り出す。
ボーッとその様子を眺めていると、
「お兄ちゃん、何やってんの? ほら、急いで!」
「あ、はい……」
聖薇に急かされるまま、拓夢も通学路に向かって飛び出した。
事前に打ち合わせした通り、門の周りに守衛はいない。
「……誰にも見られてないでしょうね?」
速足で歩きながら、聖薇が確認してくる。
「あのさ。やっぱり、夢子さんに相談してからの方がよかったんじゃ……」
「なに言ってんの。そんなことしたら、無理やり連れ戻されんのがオチじゃん」
聖薇は後ろを振り返って校門を睨みつけながら言った。
拓夢はチラリと腕時計を見た。時刻は夜8時5分。つまり、教師もメイドも就業時間を終えている時間帯だ。多忙な夢子はまだ学校に残っているだろうが。
そんな聖ジュリアンヌ女学院を抜け出して、懐かしい城岡家に戻ろうと画策していたわけなのだが。
拓夢としては、ひどく間違っているような気がしてならない。
あれだけ優しくしてくれた学園をコソコソと夜逃げすることもそうだが、夢子やノエル、それに四天使たちともう会えなくなってしまうこと、それがイヤなのだ。
そもそも、あの隆志や佐和子が、一度捨てた自分を快く受け入れてくれるとも思えないし……と色々無理がある状況なのだが、聖薇に涙ながらにお願いされては、拓夢に断るすべはなかった。
(でも、聖薇さんはどうしたいんだろう……。僕を家に連れ戻したいだなんて。僕のこと嫌ってるはずじゃ?)
混乱する頭を振り払うように聖薇の跡を追う拓夢だったが。
「あれ……」
ハッと違和感に気づく。
光源は何もない。
にも関わらず、腕時計のレンズからうっすらと光が漏れているのだ。
タイマーもアラームも設定していないし、LEDライトにしては光が薄すぎる。
しかもよく見てみると、端子だと思われていた突起は、収音マイクになっていた。すると横にあるネジが、音量を調節するスピーカーの役割を果たしているのだろう。これは明らかに変だ。
いや、そもそもがおかしい。いくら夜中といっても、私立の名門校に見回りが一人もいないなんて、あり得るのだろうか。
これではまるで――
「お兄ちゃん何やってんのよ!? ボサッとし……て……」
後ろを振り返りながら怒鳴った聖薇は、拓夢を見て驚愕していた。
否、拓夢の背後を見て。
まるで、見てはいけないものでも見てしまったかのように。
「――深夜の来客は歓迎しませんね、お嬢さん」
「うわっ!?」
拓夢も振り返ると、すぐ後ろにはノエルが立っていた。
「い、いつの間に……」
おそらく忍のように後をずっとつけていたのだろう。気配を全く感じなかった。
「それではお嬢さん。ご同行をお願いしましょうか」
拓夢の問いかけは無視して、ノエルは聖薇に向けて歩みを進めた。ゆったりとした歩き方ではあったが、ただならぬ殺気を感じさせる動きだった。
「大人しく来てもらえれば、手荒な真似はしませんよ」
優しく穏やかな口調ではあったが、反対に聖薇はビクリと体を震わせた。
まるで、この世の終わりでも来たように……。
「ちょ、ちょっと! ノエルさん、聖薇さん! 落ち着いて、とりあえず話を聞いてください!」
拓夢は横から声をかけてみるが、返事は返ってこなかった。
そして、悠然と歩を進めるノエルは。
真っ赤な顔で憤怒する少女と向かい合った。
「あ……あんたが、あんたのせいでっ!」
聖薇は目を大きく吊り上げ、必死の形相でノエルを睨みつけていた。
「……私のせい? 何言ってるんですか? 全て、あなたのせいでしょう?」
「はあ!?」
拓夢が思わずビクッとしてしまうほど大きく、聖薇は怒鳴り声を上げた。
「人さらいの分際で、何偉そうなこと言ってんのよ!」
「せ、聖薇さん……?」
拓夢は驚いていた。
聖薇はてっきり、自分がいなくなって清々しているのかと思ったのに。
周りが見えないほど激昂して、ノエルを怒鳴りつけている。
「……人さらいと言いましたが、ご両親の承諾は得ていますよ? 見返り金として多額の費用をお支払いしていますし。ちなみにご両親は膨大な額の金銭を要求してきました。我々が人さらいだとするなら、そちらも人身売買なのでは?」
ノエルが冷静に指摘すると、聖薇は「うっ」とばつの悪そうな顔をする。
「無理やり連れだそうとするのではなくて、理事長に相談なりするべきでしたね」
「う、うるさいうるさい! あんたのせいよ! あんたたちが全部悪いのよ!」
「……何ですって?」
「うちの親が何て言ったか知らないけど、お金と引き換えに人を支配するなんて、犯罪よ! それに、お兄ちゃんには女性アレルギーがあるの! 女子校なんかに通わせたら、死んじゃうじゃない! あんたのせいで、お兄ちゃんがどれだけ辛い思いしてると思ってんのよ!」
……辛い思い。
拓夢はようやく合点がいった。それで、聖薇は自分を連れ出そうとしたのだ。しかし、それには誤解がある。
「聖薇さん、お気持ちは嬉しいんですが、僕は皆さんから、大変よくしてもらっています。それに、今すぐ学園を出るなんてこと、無理ですよ。ゆっくり時間をかけて、夢子さんとも相談――」
拓夢は助け船を出したつもりだったが、納得がいかないのか、それとも声が耳に入っていないのか。どちらにせよ、聖薇は怒りの表情でノエルを見据える。
「やっぱ、なんとしてもお兄ちゃんを連れて帰る! あんたをぶっ倒してから!」
「ダメです! 聖薇さん! そんなことしちゃ――」
拓夢の叫びは間に合わなかった。
聖薇の繰り出したパンチはかすりもせず、反対にノエルの放ったボディブローが、聖薇のみぞおちを的確に捉えていたのだ。
「が……は……」
内臓を殴られた衝撃から、よろよろと千鳥足のような動きで歩き、ついに意識を失った聖薇は、拓夢に向かって手を伸ばした姿勢のまま倒れた。
「お兄……ちゃ……」
「聖薇さん!」
拓夢が聖薇の所に駆け寄ろうとする前に。
「この方には詳しい事情を聞く必要がありますので、医務室に運びます。拓夢様も来てくださいよ?」
そう言いながら、ノエルは聖薇に肩を貸して立ち上がらせた。
そして、学園に向けて歩き出す。
「あの……聖薇さんは、大丈夫なんですか?」
「問題ありません。手加減しましたから。一時間もすれば目覚めると思いますよ? 多分」
「多分て……」
「では絶対」
そんなすぐ目が覚めるような倒れ方ではなかったように思えたが。
心配しても仕方ないので、拓夢もノエルの後に続いて医務室へ向かうことにした。
その時、
「ん……?」
キラリと、と金色に輝く物体が地面に落ちていることに気づいた。
それは、聖薇がいつもつけているネックレスだった。幼い頃に拓夢がプレゼントしたものだ。
ノエルに殴られた衝撃で、チェーンが外れてしまったらしい。
「あれ、これ……」
よく見ると、外側に切れ目が入っている。どうやら、元々ネックレスだったものを、ロケットに加工したらしい。
「なんだろ、アイドルの写真でも入ってるのかな……?」
拓夢はペンダントを開けて、中に入っている紙切れを見た。
「……! これって……」
案の定、中に入っていたものは男の写真だった。
拓夢が想像していたものとは、全く違うものだったが。




