⑦女子の着替えを覗いてしまった
それから、あっという間に時間が経って放課後になった。
記念すべき庶民特待生一日目は、拓夢にとって本当に難儀な一日だった。
ちなみに拓夢は授業以外では、女子生徒とほとんど接触していない。
休み時間はトイレに行くか机に突っ伏して寝てるため、クラスメートと親睦を深めようがなかった。さらに昼休みは食堂へ行かず、購買で買ったパンをトイレで食べるという徹底ぶりである。
そんな寂しい学校生活の放課後、拓夢は廊下の真ん中で途方に暮れていた。
「えーと……こっちで良かったっけ……?」
かすかな記憶をたよりに大理石の床を歩く。
今いるのは三階の廊下。目指すべきは理事長室だ。しかし、一歩進むたびに目まぐるしく景色が変わるため、どうしても目的地までたどり着けない。
「本当に広いな……ここ……」
学校というよりは、まるで巨大な宮殿か高級ホテルのように感じる。キラキラしたシャンデリアの光を浴びていると、特にそう思う。
影島からはまずラウンジに入って、エントランスホールを抜けた所の階段か、ブリッジの横にあるエレベーターを使うのが早いと説明を受けているが、あまりにも広く部屋数も多いため、覚えられないのが現状だ。
なぜ理事長室に行くのにこんな苦労をしなければいけないのか、理解に苦しむ拓夢であった。
「お、こっちは何だろ?」
講義室から離れたところに、一つの部屋を発見する拓夢。
「談話室か何かかな? ……まあ、誰かいたら聞けばいいや」
旧家の子女や、大地主の令嬢も通うような学校だけあって、教室も大きい。拓夢の元いた学校の教室の倍以上はありそうだ。
意を決してドアを開けると、そこには思った通り、数人の女生徒がいた。
いや、正確には予想外の状態で、だが。
そう、拓夢は考えなかったのである。
共学に通っていたせいで、ここが女子校だということを、サッパリ忘れていた。
ここでノックでもしていれば、結末もまた違ったのかもしれないが。
とにもかくにも、拓夢はドアを開けてしまった。
「へ……??」
扉を開けた拓夢の視界に入ったのは、数人の女の子だった。
拓夢と同じ階にいるのだから、同じ二年であろう。見た目は全員がとても可愛らしく、汚れを知らないお嬢様といった感じではあるが、その表情は驚愕と恐怖に引きつっていた。
なぜそんなにまで怯えているのかというと、彼女達は今着替え中で、下着姿、中にはブラを外そうとしている子までいたからだ。
「あ……」
震える声で、拓夢はそう呟いた。
そして、
「す、すみませんっ、お邪魔しましたっ」
そう言って、急いでドアを閉めた時だった。
「きゃああああああああああああああああああっ!」
「うわあああああっ! ごめんなさいごめんなさい!」
慌てて謝罪をしながら駆け出す拓夢だが、ここで予想外のことが起きた。
「まちなさあああああああああああああいっ!」
「うわあっ!?」
背後からにじり寄る、いや、駆け寄る少女。
乱れた体操服を物ともせず全力疾走しながら、拓夢のことを睨みつけている。
さっき拓夢が着替えを見てしまった少女のうちの一人だろう。体操服を着ているということは、あそこは部活に使う更衣室だったようだ。
「この庶民! 女子の着替えを覗くだなんて、何という破廉恥なことを!」
女子は拓夢が覗きをしていると勘違いしたのだろう、眉をしかめ、目を吊り上げながら追いかけてきていた。
「いや、あの、それは!」
捕まったら最後、女子の着替えを覗いたと、学園を退学になることは間違いなしだ。
いやそれよりも、あんな煽情的な恰好の女性に組み敷かれでもしたら、女性アレルギーが爆発して死んでしまうかもしれない!
本能的に危険を察知した拓夢は、咄嗟に見つけた階段を二段飛ばしで昇る。
カン! カン! カン!
「逃がしませんわよおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
同じように、少女も二段飛ばし。
運動部だけあって、体力はあるらしい。
「この変態! お父さまにお願いして、この学園から追い出してやりますわ!」
「ち、違うんです! 誤解です、誤解!」
「言い訳は無用、ですわ!」
「……くっ!」
カン! カン! カン! カン!
五階の踊り場まで出たところだった。
途中で転びかけた少女を上手いこと引き離したのはいいが、運が悪いことに最上階まで来てしまった。下の階からは少女が駆け上る音が聞こえる。
エレベーターまでは距離が遠すぎるし、どこかの教室に隠れてやり過ごすことも不可能だろう。
まさに、袋小路。
拓夢がもはやこれまでかと、諦めかけたその時だった。
「こっちだよ! 拓夢くん!」
そう言ったのは、一人の女子生徒だった。
その女子生徒は拓夢の腕をつかむと、近くにある部屋に入り込んで、
「そこだよっ! そこのソファーの下にもぐりこんで!」
「あ……は、はい」
連れてこられたのは、高級そうなテーブルや椅子などの調度品、さらには絵画や石像なども置かれている、高級ホテルの応接間のような部屋だった。拓夢は言われたとおり、ソファーの下に寝転がる形で入り込む。足が高く幅は十分にあるので、体がつかえるようなことはなかった。
「あ、あの……「しっ!」」
拓夢が声をかけようとすると、女の子は人差し指を口元に当てて笑った。
「うふふッ、大丈夫だよ。そこにいて、声を出さないようにね」
「は……はい」
拓夢は小さく答えると、ソファーの下で縮こまった。
女の子も小さな声で「安心していいからねッ」と笑顔でウインクする。
屈託なく、純粋で大きな瞳だ。
その瞳に見つめられるだけで拓夢は、今自分がいる状況も忘れて、少女のことを見入ってしまっていた。
サラサラな亜麻色の髪をセンターパートにした、ロングヘア―の美少女だった。丸っこい目はくっきりした平行二重も合いまってさらに大きく、逆に鼻は小さく筋が通っている。卵型のバランスの取れた輪郭といい、弾力のある唇といい。拓夢と同い年くらいだろうが、純粋無垢な顔は少女を幼く見せていた。
と、女性の顔をじっと見つめていると……。
「あ、桜さん! ご機嫌うるわしゅう存じますわ!」
息を切らせながら戸口に立っていたのは、先ほどの少女であった。
「この近くで、庶民特待生の男子を見ませんでしたか!? あの方は私達の着替えを覗いて撮影をし、さらにはその映像を元に私達を脅そうと企んでいる、卑劣な犯罪者なのです!」
少女は、背びれ尾ひれをつけて誇張しながら語っていた。
しかし脅す云々はともかくとして、着替えを覗いてしまったのは事実なのだ。拓夢からすれば何も言い返すことはできない。
しかし、問題は女の子がどう思うかだが……。
「ううん……こっちには、きてないよ!」
(えええっ!?)
いったい、どうしてこの女の子は自分を助けてくれるのか。拓夢には、彼女の考えていることがサッパリ分からなかった。
しかし、少女は懐疑的な眼差しで、
「ほ、本当ですか? 桜さん。でもこの辺りで扉が閉まる音が聞こえたんですけど……」
「わたし一人しかいないよ? ほら、誰もいないでしょ?」
「い、いや、でもっ」
少女は、尚も納得しない様子だった。このままではバレてしまう。拓夢がドキドキしながらも、必死で息を殺していた時だった。
「――綾香ちゃん」
澄んだ、それでいて低く存在感のある声が、少女の主張を阻んだ。
「このサロンは、限られた学生しか使っちゃいけないんだよ~? 綾香ちゃんも、それは分かってるよねぇ?」
拓夢は呆然とした。のん気ではあるが、先ほどとは打って変わって、桜と呼ばれた少女の声に冷たさというか、威圧感を感じたからだ。
少女も、拓夢と同じ思いだったのだろう。気圧され、先ほどまでの勢いはなくなり、
「あ、あの……それは……分かっています……」
「それなら、わたしが学園の中でもカースト最上位にいるってことも、分かってるのかなぁ?」
「は……はいっ! よく、存じております……」
「よかった、綾香ちゃん♪ じゃあ、その庶民のことは、わたしに任せてもらえる? 悪いようにはしないから~ッ」
「はい……仰せのままに」
綾香と呼ばれた少女が足取り重く立ち去る姿を見ていると、女性はこちらを振り返ってニッコリと笑った。
「危なかったねぇ、拓夢くん!」
先ほどまでの冷徹な口調が嘘のように霧散した女性は、にこやかに拓夢に話しかけるのであった。
「それにしてもぉ、庶民の男の子って足が速いんだねぇ。あの綾香ちゃんから逃げられるだなんてッ。それに、思ったより筋肉があって、たくましいんだぁぁ~ッ! 素敵! 感動しちゃう!」
「あ、え、あのっ」
ここで、またもや女性アレルギーが発症してしまった。可愛い女の子を前に、しどろもどろになってしまう。小さな顔、亜麻色の髪、白く細い手足……そして、甘く気持ちのいい香り。
「わたし、庶民の男の子を見るの、初めてなんだぁ。それにしても、前髪すごく長いんだね? メガネは分厚いのにするのが庶民のトレンドなの? 背は、わたしとあまり変わらないんだねっ? 足のサイズはいくつ?」
女の子は一気にまくし立てる。
拓夢が口を挟む隙なんて、全く与えないほどに。
「あ、ごめんね! 嬉しくってつい、いっぱいしゃべっちゃった。そんなところにいると窮屈だよね。さあさあ、もう出てきていいよっ」
「は、はい……」
拓夢は、圧倒されるままにソファーの下から抜け出した。
女の子は、その無垢な表情に少しだけ翳りを見せて、
「さっきはごめんね。まさか、うちの生徒があんなことを言うだなんて。分かってるから。誤解なんだよね? あの子には、わたしが後でちゃんと説明しておくから」
と、早口で謝罪した。限られた学生しか使えないというこのサロンのカギを持っていることといい、先ほどのやり取りといい、この女の子が相当のセレブであることがうかがえる。
「あ、あの……。あなたは、いったい……?」
聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず拓夢は一番気になっていることを口にした。
「あ、そっか~ッ。わたしったら、自己紹介もまだだったね~」
女の子は思い出したかのように、手のひらの上にグーを乗せた。
そして、とびっきり無邪気な笑顔を向けて言った。
「わたし、加々美桜。きみと同じ二年生だよっ。これからもよろしくね! 拓夢くん!」