⑫アヴェ・マリア
翌朝。輝くブロンドヘアーを揺らした少女が、ベッドから起き上がった。
そこはヴェルサイユ宮殿と見まがうほど、豪華な一室だった。
家具や調度品は全て超一流の高級品。しかし、大手ブランドメーカーから購入したクラシックカーテンから差す木漏れ日は、少女――有栖川真莉亜の心を反映したかのように、曇っていた。
――どうして、わたくしは朝からこんな気分になっているのでしょう? まぁ、原因はあのお方しかおりませんけれども――。
もうすぐメイドがやってきて、着替えを手伝いに来る時間だろう。そうしたら、リビングで両親と共に朝食だ。美しい母や優しい父の顔が見れる。美味しい朝食が食べられる。
なのに、真莉亜は寝たきりの病にかかっているかのように、ベッドから離れられずにいた。シーツの上に正座したまま、かれこれ二十分が経つ。
考えているのは、たったひとつのことだ。
真莉亜の環境は、この数か月であっという間に変わってしまった。庶民同好会として転入してきた、ひとりの男子生徒。そして、立ち上がった新しいサークルに加入する自分。そして、その庶民特待生と勝負をして……。
財閥の令嬢、有栖川の娘として、今まで数多くの困難を乗り越えてきた真莉亜だったが、今回のそれは、今までにないほど深刻な悩みだった。
「まいりましたわね」
もう何十回呟いたかも分からないセリフを、今一度真莉亜は口にした。その声は華奢かつ優雅であった。自身の内面を声に出してはならぬという、有栖川の教育によるものだ。
「わたくしとて思春期の女の子ですから、いずれはこういう時がくるとは思っておりましたけれど……。もう少し、心の準備というものがほしかったですわ」
そう言って純金の髪をかき上げる仕草は、あの人には届かない。
「いっそわたくしの方から……。いいえ。そんなことは、許されませんわ……」
大切な両親。学校の友人たち。四天使の面々。庶民特待生の男の子。そして、婚約者。数多くの複雑な環境に自分はいるのだ。勝手な言動など、認められるものではない。
――でも『あの人』は、わたくしを婚約者として見てはいない。だから、わたくしと一緒になれなくても、悲しむことはありませんわ……きっと。
だから、婚約破棄しようかとも思う。
しかしそんなことを言ったら、両親はきっと悲しむ。
「そうですわ……。もう決まったことなのですから……。今さら婚約を解消するだなんて、そんなことは無理ですわよ」
鏡に映った自分に話しかける。いや、正確には、鏡の向こう側にいるあの人に。
脳裏に浮かぶのは、いつだってあの人だ。
優しくて、頼りになって、明るくて、でも少しドジで……鈍感で……。
でも……。
「あなたは……わたくしのことを、どう思ってらっしゃるのでしょうか?」
真莉亜は、鏡台に向かって話しかけた。
映った自分を、じっと見つめること数分間。
「わたくし……あなたのことを、愛しておりますわ♡」
真莉亜は小首を傾け、誰もが見惚れる最高級の笑顔で告白をした。それはまるで、女優が演じる映画のワンシーンのようだった。
「こんなことであの方が落ちてくださるなら、最初から悩みなどしませんわ」
真莉亜はため息をついた。そして笑顔を仕舞い、凛々しい表情を作る。
「悩む? わたくしは……有栖川真莉亜ですわ。何を悩むことがあるのでしょうか?」
真莉亜は涙目の自分にそう話しかけると、立ち上がりカーテンを開けた。
いつの間にか曇っていた空からは、抜けるような陽射しが差し込んでいた。
「……様。どうかわたくしを、お救いください……」
窓際に膝をつき、両手を組み、とても小さな声で、ここにいない人に祈りながら呼びかけた。
今にも折れそうな声がその人に届くことは、残念ながらなかったのだが。




