《プロローグ》兄と思い出とペンダント
「お兄ちゃんの、バカ―!」
聖薇の頭に残る、兄との最も古い記憶がそれだった。
「あ……」
拓夢はなにを言えばいいか分からず、ただおろおろとうろたえるだけだった。
しかし、拓夢が何か悪いことをしたわけではない。それどころか、川辺で聖薇と追いかけっこをして遊んであげていたのだ。それがこうして最愛の妹に罵られている理由とは。
答えは簡単だ。聖薇のお気に入りだったネックレスのチェーンの留め具が外れ、川の中に落ちてしまったのだ。拓夢は先ほどから探し回っていたが、見つけることは出来なかった。
もう、お気に入りのネックレスを首にかけることは出来ない。
そう悟った聖薇は、泣き出してしまった。
「ごめんね! 聖薇、ごめんね!」
拓夢は泣きながら謝っていた。はたから見れば、拓夢の方がずっと被害者だ。服は川の水やコケで汚れている。顔だって泥まみれだ。川底の角ばった石で腕や足を切り、たくさんの血も出ている。傷口に砂や泥が染みて、激痛が走っていることだろう。しかし、彼は妹のためだけに涙を流していた。
「拓夢! なに聖薇を泣かせているんだ!」
しかし、そういった事情は大人には読み取れなかったのだろう。義父の隆志にとっては、いま目の前で泣いている実の娘の方が大切であり、養子である拓夢の気持ちなど、知ったことではないのだ。
「そうよ! その汚れたお洋服も、誰が洗濯すると思ってるのよ! アンタなんかもう、ウチの子じゃないわ!」
義母の佐和子も同様だった。泥だらけどころか、傷まみれの子供に対して、そんな言葉を投げかけることしか出来ない。
「ひう……!」
幼い聖薇の頭は、ますます混乱していた。
自分が手を差し伸べれば兄を助けられる。しかし、両親はなぜか拓夢のことを異常に嫌っているのだ。
しかし、両親は自分に対してはとても優しい。
食べたいといえばケーキを買ってくれる。自分のケーキも分けてくれるし、遊園地や動物園にもよく連れていってくれる。しかし、拓夢にだけはいつも怒っている。なぜかは知らないが、常にイラついているのだ。
それはなぜなのか。
幼い聖薇にとって、ずっと心の内を占める問題だった。
その日の夜。
聖薇は自室で一人泣き明かしていた。お気に入りのネックレスを無くしたこと。兄がズタボロになったこと。幼い子供には、ひどく残酷なことのように思えてならなかった。
それに、聖薇が心を痛めてる理由がもう一つあった。
――拓夢が、家から追い出されてしまったのだ。
理由は実に簡単だ。
自分を泣かせてしまったから。
一応物置に住まわせてもらってはいるが、あんなずぶ濡れの状態ではとても眠れないだろう。
寒くないだろうか。
狭くないだろうか。
寂しくないだろうか。
そんな心配事をしてみても、幼い聖薇にとっては親のいうことは絶対だし、下手に口を出して自分も同じような目に合うことは怖かった。
何より聖薇は、拓夢に失望していた。
あんな辛い目にあってるのに黙って耐えている兄が、どうしようもなく情けなく見えた。
自分に媚びへつらっているのにも納得できなかった。そうしなければ暴力を振るわれるとしても。年下の女の子である自分に頭を下げる兄を尊敬することは不可能だった。
自分は守られているから。少なくとも、そのテリトリーは侵されたくない。
なぜ自分だけがここまで甘やかされるのか。少しずつではあるが分かり始めてきた。拓夢はようするに、ここの家の子ではないのだ。どこかしらから、拾われてきた子供なのだ。だから、両親にとっては拓夢は押し付けられたペットと同等の扱いになるのだ。
しかし、だからといって両親の拓夢に対する嫌悪は異常だと思う。何もしてなくても、どんなにお手伝いをしても暴力を振るわれるのだ。そして、そんな光景をただ見ていることしか出来ない自分に、一番腹が立つ。
「うぐう……」
ゴロンと。聖薇はベッドの上で寝がえりを打った。
その時だった。
窓のコツンと、何かが当たる音がしたのは。不思議に思った聖薇が窓際に顔を向けると、小さな影が見えた。
そこにいたのは、拓夢だった。
視線が合うと拓夢は「あけて」というようなジェスチャーをして、反対側からサッシについてるカギを指さした。どうしたのだろうか。自分に助けを求めてきたのだろうか。
しかし、拓夢の表情からは、そんな情けない思いは感じ取れなかった。
「ふー。ごめんね。ちょっと入るよ」
カギを開けて窓を開けると、拓夢はゆっくりとした足取りで部屋に入った。そして、手に持っていた「ある物」を聖薇に渡す。
「え……なに?」
「いやだなあ。昼間落っことしたじゃない。もう忘れたの?」
「あ……」
聖薇は手を開くと、中に入ってるものを見て驚きの声を上げた。
「もうなくさないでね。じゃ、お義父さん達に叱られるから、僕は物置に戻るよ」
そう言って、拓夢はまた屋根伝いに地面へと降りていった。
拓夢が手渡してきたものは、川底に落としたネックレスだった。
こんな夜中に、わざわざ冷たい水の中に入って探してきたらしい。
何も悪くないのに、拓夢のせいにして悪口を言ったのに。そのせいで、拓夢は両親からお仕置きを受け、家から閉め出されたというのに。拓夢はわざわざ、また泥だらけになったネックレスを探してきてくれたのだ。
どうして?
「お兄ちゃん……」
この時からだった。初めて、聖薇は拓夢に明確な好意を持った。そして、決意した。
拓夢を守ってあげられるような、強い女性になろう。
拓夢が両親に受け入れられるよう、自分が上手く間に入って。そして、家族揃って仲良くするのだ。
なぜならば、拓夢は自分の兄だからだ。そして、自分は拓夢を愛している。
それだけで充分ではないか。
「お兄ちゃん……あたし、がんばるからね……」
聖薇は窓の外から立ち去る拓夢の後姿を見下ろしながら、そう呟くのだった。




