②道でうずくまる美少女と、黒服の男たち
洗い終わった食器を拭いて戸棚に戻し、廊下の雑巾がけとリビングのホコリを払ってから、拓夢は家を出た。
もちろん、これだけの仕事を終えても、義母からの感謝の言葉は、全くない。
城岡家に引き取られてから十年にもなるので、もう慣れっこだ。
そのまま歩いて、片道一時間の高校へと向かう。
どう考えても一時間目には間に合わないので、慌てても仕方がない。
朝九時ごろの通学路は、とても静かだ。人がいない代わりに、すっかり雪が解けて暖かくなった歩道脇の花壇には、スミレやモクレンなどの花が咲き乱れ、道路を賑わしている。
「はぁ……」
拓夢は、一つため息をついた。本音を言えば、このまま公園にでも行って、一日中寝転がりながら、向日葵畑でも眺めていたい。学校の連中も、どうも苦手なのだ。
遅刻して教室に入れば、またクラスメートから苛められるだろうか。そんなことを考えると、余計に足取りが重たくなってしまうというものだった。
「それにしても、お腹すいたなあ……」
拓夢は、ぐうっと鳴る腹をさすりながら呟いた。
朝食をほとんど食べさせてもらってない上に、お小遣いはなし。弁当も持たせてもらっていないのだ。
しかし、グダグダ言ってても仕方ない。拓夢は前向きに歩を進めた。
すると……。
「う、うう……」
道路脇で、お腹を抱えてうずくまっている女性を発見する拓夢。
「って、女の人か……」
拓夢は、冷や汗を流しながら呟いた。見ているだけで女性アレルギーが発症してしまうほど、その女性の容姿は美しかったからだ。
大人びて見えるが、年は自分と同じか、少し上くらいだろう。
おそらく、百人いれば、百人が「美人」と口を揃えて言うだろう。
それくらい、少女の美しさは圧倒的だった。
美しすぎて怖いとすら思える、造形の整った顔、一切の無駄のないスラッとした体形。何よりも特徴的なのは、艶のある白銀のサラサラ髪を後ろにまとめたポニーテールと、日差しが反射してダイヤモンドのように輝いている、白い肌だ。水晶のように薄青い瞳を見ると、外国人か、もしくはハーフか。
(あれ? でも……)
拓夢の脳裏に、ある疑問が浮かんだ。
気のせいだと言われてしまえば、それまでだが。
しかし拓夢には、その女性に見覚えがあったのだ。
「……あの、何か?」
「は、はい! すみません!」
女性に話しかけられると、思考が吹っ飛び、思わず上ずった声で拓夢は謝った。
女性は声までもが、涼やかで美しい。もはや、拓夢は全身に震えが来ていた。
しかし。拓夢は深呼吸をすると息を整えた。女性は苦しんでいるのだ。女性アレルギーがどうとか、言っている場合ではない。
「えーっと。僕、怪しい者じゃないんです。その……体調、悪いんですか?」
「え、ええ。急に腹痛が……」
「そ、そうなんですか。歩けます?」
「無理です。すみませんが、送っていただけませんか?」
「へ?」
「この近くに、病院があるんです。恐縮ですが、そこまで私をおぶっていってくださいませんか?」
クールな表情を少しだけ歪めながら、少女は懇願してきた。
「そっ、それは……」
拓夢は一気に、顔が真っ赤になる。
これが幼女、あるいはおばあちゃんであれば、何の躊躇もなく、拓夢は助けてあげただろう。しかし、目の前の少女は若く、そしてとびっきり美しいのだ。送ってあげる側の拓夢の方が、逆に病院送りになりかねない。
拓夢の表情を察したのか、少女は悲しそうに眉を細めて、
「……そうですよね。学校に遅れてしまいますよね。しばらくしたら良くなるかもしれないので、放っておいてくれて構いませんよ」
「そっ、そんなことっ!」
拓夢は意を決すると、女性の手を取り、ヤケクソ気味に背中におぶった。
ほのかに感じる柔かい感触とぬくもり。花の香りに負けないくらいイイ香り。
「しっ、死ぬ……!」
普通の男子なら垂涎ものでも、拓夢にとっては地獄なのである。
「あ、あの……何か?」
「なんでもありません! 行きますよ!」
もはや返答さえもどかしく、拓夢は急いで病院へと向かう。
「揺れますけど、大丈夫ですか?」
「……へ、平気です」
「分かりました。じゃあ――」
任せて下さい、と言おうとした所で、拓夢の足は止まった。
そういえば、病院の方角ってどっちだっけ。
そもそも、この近くに病院などあったか?
急に不安になってくる拓夢。
ここまで来て、「道が分からないからやっぱり下します」とも言えないし。
とにかく、大まかな道だけでも聞こう。拓夢は少しだけ後ろを振り向くと、
「あの、すみません。こんなこと聞くの心苦しいんですけど……病院の場所って……」
「ああ、そうですね」
女性は合点がいったように声をあげた。
「道案内します。そこの角を左に曲がっていただけますか?」
「分かりました」
女性の指し示す方向に向かって、歩みを進める拓夢であった。
空腹と女性アレルギーのせいもあり、拓夢は亀のようにノロノロと女性を背負い続けた。
女性の言う場所は小さな路地裏で、どんどん人気のない場所へと誘導されていた。
個人事業なのだろうか。しかし、こんな道幅の少ない路地に病院などあるのか?
拓夢は不安にかられた。女性は道を間違えたのではないかと。
しかし、
「……ここでいいです。おろしてください」
女性は黒塗りの高級車の前を指し示すと、拓夢に指示した。
「えっ。でも、ここ病院じゃ……なっ!?」
拓夢は驚きの声を上げた。サングラスをかけた黒服のいかつい男たちが、車の中からぞろぞろと飛び出してきたからだ。ここは人目のつかない路地裏。そして、拓夢の後ろにはぐったりとした女性。
それも、とびっきりの美少女だ。こうなれば、導き出される結論はただ一つ。
「小僧! 大人しく俺たちと一緒に来てもらおうか!」
「やっぱり! 逃げて下さい! この人たちの目的はこの僕……って、えーーっ!?」
拓夢は思わず叫んだ。
この黒服たちの目的は、僕? 何で僕なんかを?
様々な疑問が頭をよぎるが、安々とさらわれるわけにはいかない。ここは戦う!
「……あの。危ないですから、あなたは逃げて下さい。この人たちは、僕が食い止めますから」
「頼もしいですわ、拓夢様」
「いやあ、それほどでも……って、えっ?」
拓夢は間の抜けた声を発した。女性に自分の名前、名乗ったっけ?
「拓夢様。気を抜かずに。敵が前から攻めてきますよ?」
「へ……? あ、ああ。そうですね」
さらに冷静に指摘され、拓夢の疑問はMAXになる。
さっきまであれだけ痛いと言っていたお腹は、どうなったんだ?
「いくぞおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「くそっ……こうなったらヤケだ。くるなら、こい!」
襲い掛かる黒服たちを前に、拓夢は迎撃の構えを取った。
その時だった。
「でも、後ろにも気を付けた方がいいですね」
「あぁっ……!?」
首筋に衝撃を感じ、拓夢はぐらっとよろめく。ふと、後ろを向くと……。
「申し訳ありません、拓夢様」
無表情に手刀を構える女性の姿が、ボンヤリと目に映った。
「あの、これはいったい……?」
数々の疑問が脳裏をよぎりながら、拓夢が地面に倒れたその時。
「今だああああああああああああああああ!」
凄まじい勢いで男たちは駆け寄り、あっという間に拓夢の身柄を拘束する。
「うあああああああああああ!?」
拓夢は、何が何やら分からず、されるがままになっていた。
ジタバタしていると、自分を見下ろす女性が目に入る。見上げていると、首元がズキズキする。どうやら自分は、あの女性に首筋を打たれたらしい。この男たちもグルで、お腹が痛いと言っていたのは、この道へ誘い出すための罠だったのだ。
「……あ、あなたは一体、何者……うぷっ!?」
「大人しくしていてください。悪いようにはいたしませんから」
さらに激しく暴れようとする拓夢の口元に、薬臭いハンカチが押し当てられる。
同時に、鼻をつく刺激臭。
そして、強烈な眠気。
「うっ、ううっ……」
ついに拓夢は、動くこともままならなくなってしまった。
そんな拓夢を見下ろしながら、女性は呟く。
「まいりましょう。貴方だけの楽園へ。我が主様」
無表情な女性の呟きを聞いたのを最後に、拓夢は気を失った。