㉑決着がつき、仲良くなる拓夢と真莉亜
「この1射で最後ですね。有栖川お嬢様、よろしいですか?」
「ええ、城岡さま。わたくし、負けませんからね」
真莉亜の言うとおり、これが運命の第5セット目の3射目。
ここを制したものが、この対決を制するのである。
3セット目は、的を外すという痛恨のミスをしてしまった真莉亜が、大きく差をつけられる形で敗北した。第4セットでは立ち直った真莉亜ではあるが、それでも第3セットのミスが尾を引く形で、惜しくも28-25で敗れた。
「わたくしもう、心臓が破れてしまいそうですわあああっ」
そう叫んだのは、取り巻きの内の一人だった。
同じように、ギャラリーのほとんどが固唾を飲みながら、拓夢と真莉亜の対決を見守っている。もう、拓夢を庶民だからと見下すような視線はない。あるのは、二人のアスリートに対する敬意である。
「皆さま、わたくしは絶対に勝ちますわ! どうか応援を!」
そう叫ぶと、真莉亜はギャラリーに対して笑いかけた。
すると、今までの神妙さが嘘だったかのように、取り巻き達は会場が揺れんばかりの声援で真莉亜を後押しした。真莉亜の熱意と一体化しているかのように。
これだけ皆緊張しているのは、これが最後の1射だからである。
ポイントは、拓夢が25、真莉亜が17点。
つまり、この1射で真莉亜が8点以上を取れば勝ちという、切羽詰まった状況なのである。
このプレッシャーのかかった状態では、上級者でも平常心で弓を引くのは難しい。
しかし、当の本人である真莉亜には、これっぽっちも気にした様子がなかった。
「それでは、まいります」
そう宣言すると、真莉亜は足構えを取った。拓夢たちは、少し離れた場所からそれを見守る。
気負った様子のない真莉亜だが、周囲のギャラリーは緊張した面持ちで、遠巻きに勝負の行方を眺めている。
安定した動作で、矢をつがえ、体を起こし、セットアップ。ここまでは、何の問題もなかった。
問題は、フルドローの直前だった。
「……あっ」
それは、短い悲鳴だった。
しかし、拓夢の耳にはハッキリと木霊していた。
「きゃっ!」
今度は、大きな悲鳴。見ると、真莉亜の体が床に崩れ落ちようとしていた。
矢を抜いた時の反動だろう。連日のレッスンによる疲労。そして、最終決戦によるプレッシャーが、わずかながら体の軸がブレてしまった。背中が後ろに反ってしまったことにより、体を真っすぐに保てなくなってしまったのだ。
「あ、危ない!」
「し、城岡さま!?」
拓夢は猛然と走り寄り、なんとか真莉亜を受け止める。
そして、床に激突しないよう、柔らかい体をしっかりと抱きしめた。
不安と恐怖が弛緩したのだろう。真莉亜は拓夢を認識すると、力強く抱き返す。
「城岡さまっ!」
そして無我夢中になりながら、真莉亜は拓夢にしがみついた。床に落ちたボウにも、真莉亜の体にも、傷一つついていない。拓夢のファインプレーが功を奏したのだろう。
だが……。
「あ、あばば」
本当に危ないのは真莉亜の方ではなく――
「し、城岡さま!?」
泡を吹きながら失神しかけてる拓夢を見て、真莉亜は驚いたように叫んだ。
それもそのはず。拓夢は女性アレルギーなのだ。鼻孔をくすぐる豪奢な香り。体に押し付けられる、豊満かつたおやかな乳房。真莉亜のようなS級美少女に抱きつかれては、アレルギーを起こすなという方が無理だろう。
見かねた体育教師が、
「有栖川さん。気持ちは分かるけど、早く離れてあげないと城岡君死んじゃうわよ?」
「は、わたくしとしたことが……城岡さま、申し訳ありません!」
「あっ、いや、いえっ」
言葉にはなっていなかったが、拓夢は「大丈夫」と手を振ってみせた。真莉亜は慌てて体を離す。
そして、気まずそうに拓夢を見つめる。
「城岡さま、本当にありがとう存じますわ」
真莉亜がそう言ってペコリと頭を下げると、拓夢はまるで今気づいたとばかりに相好を崩す。
「ああ、いえ、そんなこと。ケガがなくてよかったです……ね」
拓夢は最後の言葉尻で詰まってしまった。なぜなら、真莉亜が熱に浮かされたようにとろけた表情で、じーっと拓夢を見つめているからだ。
「じゃ、じゃあ。勝負は引き分けということでいいですかね。有栖川お嬢様の体調も良くないみたいですし……」
「いいえ、わたくしの負けですわ」
真莉亜はそう言うと、自分の射た矢を指し示した。
刺さっていたのは、的の7点。25-24で、拓夢の勝利である。
「え。いいんですか……?」
「と、言いますと?」
「だって、実力では全然負けてましたし……。有栖川お嬢様のコンディションが万全なら、僕なんか……ただ、運がよかっただけで……」
「それも、実力のうちですわ」
真莉亜はニッコリと笑う。今までのどこか他人行儀な笑みではなく、親しい人に向ける心からの笑みである。
「それに、わたくしは自分の力を過信していました。初心者である城岡さんに負けるはずがないと。そのくせ、城岡さまの実力を見せつけられると、ひどく動揺してしまった。なのに城岡さまは勝負にこだわらず、誰よりもわたくしの身を案じてくださった。心・技・体。全てにおいて、わたくしは完敗したのです」
真莉亜は少しだけ寂しそうに笑った。真剣勝負の末、拓夢に対する並々ならぬ思いが沸いてしまったのだろう。それが友情なのか、それとも愛情なのかは、真莉亜自身にも分からなかったが。
しばらく考えた末、拓夢は口を開いた。
「有栖川お嬢様……分かりました」
「あと、もう一つよろしいでしょうか? 今度からは、わたくしのことは『真莉亜』とお呼びくださいませ」
そう言うと、真莉亜はずいっと拓夢に詰め寄り、顔を近づける。
「な、ななっ、そんな! お嬢様に対して、恐れ多い……」
「わたくし達は、同級生でしょう? それに、もうこれだけ親しくなれたのですもの」
「うう……」
「わたくしも同じように、今度からは『拓夢さま』とお呼びいたしますわ」
「え……」
意外な言葉に、拓夢はびっくりして固まってしまう。
それから、真莉亜の反応をうかがように顔を見ると、
「……さあ。拓夢さま。ご遠慮なさらずに」
「は、はい……」
拓夢は顔を真っ赤にしながら佇まいを直すと、真莉亜に向かい直って遠慮がちに言った。
「これからもよろしくお願いします。真莉亜さん」
「ええ、こちらこそ。拓夢さま」
向かい合って、お互いに笑いかける両者を、ギャラリーは万雷の拍手で包んだ。生徒だけではなく、先生も。同様に感動の声を上げていた。
真莉亜にだけではない。拓夢にも同様に、喝采の声が鳴り響いていた。
嬉しいような恥ずかしいような歓声をその身に浴びながら、拓夢は照れ臭そうに頬を指でかいていた。
そんな拓夢に対して、真莉亜は騒ぎにかき消されない程度に、小さく耳打ちをした。
「ですが……次は負けませんからね。拓夢さま」
「え……?」
拓夢が見上げるその顔は、すっかり朱に染まっていた。今の言葉は、彼女なりのアプローチなのだろう。しかし拓夢は、
(真莉亜さん……打ち解けたとは思ったけど、今度は僕のことをライバル視してるみたいだ……)
まだ決着がついたわけではない。むしろ戦いはこれからなのだと、身を引き締めるのであった。




